21kgの魂〈2/6〉


 僕は丸一日寝ていたらしい。夜だったけど、外の様子はわからない。防寒と、強風によって割れるのを防ぐためにすべての窓に板が打ちつけてあるからだ。だから、真っ暗な廊下には、じりじりと苛むような冷気と、吹雪が校舎の壁を叩く音しかなかった。

 僕と彼女はその廊下を歩いていた。

「どうして外に行ったの?」

 彼女は悲しそうに言った。暗がりで、どんな顔をしているのかまではわからない。でも、この声に負けないくらい悲痛な顔だと思う。彼女は優しいから。

「何か食べ物を見つけないと……そろそろ勇吾さんのからだも尽きる。どこかショッピングモールとかスーパーとか……じゃないと、また誰かが死んでしまう」

「うん……でも、死んじゃだめだよ。そうなったら、みんなが……私たちががんばってきたことが全部無駄になっちゃう」

「間違った方向に努力していたことに気づいたら、今までの成果を捨てる勇気も必要だと思う。こうしていても、緩やかに死んでいくだけだ」

「でも最初からそうだったのかも。人間が生まれたときから、ずっと死に向かって進化してただけだったのかも」

「なんで……!」僕は怒鳴っていた。「そんなこと言うなよ!」

「ごめん」

 彼女がうつむいたのが影のかたちでわかった。




 夜が明けた。

 一週間ぶりに吹雪の間隙がやってきて、外は凪に包まれていた。

 僕は一睡もできなかった。

 丸一日眠って睡眠が足りていたからなのか、死の淵に瀕した緊張が持続しているせいかはわからない。ただ夜を徹した興奮はなく、さざなみすら立たない奇妙に落ち着いた心だった。

 日の出とともに、みながもぞもぞと起き出した。僕はその間を通り抜けて階段を昇り、二階の窓を何重にも封鎖する机や椅子の廃材のバリケードを縫って外に出た。

 雪に足を踏み出す。校舎の二階の高さにまで降り積もった大雪が、僕の体重を柔らかく受け止める。

 太陽の光が黄金のように雪原を走り、いっそう眩しく輝いていた。風の吹く音すらない静けさは、凍った地平線よりも明朗に世界の広大さを感じさせ、と同時にこの世界にはもはや生き物がいないのだと冷酷に告げていた。

 肌を刺す冷たさはいつもと変わらないはずだけど、光輝く目の前の光景が偽りの暖かさを産んでいて、かじかむ指先も、つんと痛む鼻も気にならなかった。

 この高校は氷河期が来なければ、僕が通うであろう学校だった。小高い山の上に建てられていて、朝晩の上り下りが大変だと先輩たちからは不評だった。だがその高低差のおかげで、街が豪雪の底に沈んだ今でもなんとか顔を出していられる。

 地下深くに街を飲み込んだ見渡す限りの雪原では、おそらく校庭の中央あたりがこんもりと盛り上がり、大きくてなだらかな乳白色の丘を作っていた。光を照り返す雪面と、さらにそれを乱反射させる朝もやによって、ぼんやりとしか見えない神秘の創造物。

 雪に埋もれた巨大な人骨だ。

 白雪の海から今まさに飛び跳ねんとする大鯨を思わせる、巨大な肋骨。骨はそれだけではない。一両の電車のような肩甲骨、腿骨、鎖骨、そして頭蓋骨。斜めがかって雪原に沈んでいる。

 冗談みたいな光景だった。

 冴え冴えとした光が差し込んで乳白色の丘はディテールを手に入れ、縮尺の狂った人骨という本性を露わとした。しかしが晴れてさえ、その全身を見ることは叶わない。横たわった巨人のむくろは、いかに巨躯といえども一年近い時間の経過とその間際限なく続いた降雪によって半ば雪に埋もれていた。

 まるで大地に睦言をささやいているあいだに、眠りこけ、そのまま雪に埋まってしまったかのように。

 あの巨大な骨の連なりを見ていると、大昔の遺跡を見たときと同じ、自然の雄大さと過ぎ去った時間への哀惜を感じさせる。

 だけど、あれはたった一年前に生まれたものなのだ。たった一年前に、僕たちが生み出したのだ。

 それは勇吾さんの躰だった。

 彼の巨大な躰は、僕たちの短い未来のために捧げられた。

 三五キロの炭素、一四キロの酸素、七キロの水素、五・九五キロの窒素、二・四キロのカルシウム、一・五キロのリン、〇・七キロのカリウム。

 到底、十四人を養えるエネルギー量ではない。共食いすれば早晩僕らは全滅する。もし、首藤が持ってきた薬がなければ僕たちは共食いなど選ばず、全員おとなしく座して死を待ったかもしれない。

 あの錠剤の正式な名前はわからない。首藤は膨張剤とか、巨大化薬とか呼んでいる。

 それを摂取した有機生命体は体格比を保ったまま徐々に膨張を始め、およそ一晩かけて元の身長の三十倍まで巨大化し、体重はおよそ一千倍に増量する。その身長は高層ビルに匹敵し、その重さは三年かけて降り積もった雪を潰して、沈み込んだ足が大地に到達するほどだった。

 まるで怪獣と戦う特撮ヒーローだ。だけど怪獣と戦うために、勇吾さんは巨大化薬を飲んだわけじゃない。

 彼が化生けしょうの道を選んだのは、巨大な肉の塊へと変貌するため。

 十五人の成人が一年は食いつなぐことのできる、巨大な食用肉へと。

 全地球を覆っている氷河期が勇吾さんの躰を冷蔵し、また微生物から守って腐らせない。自然の冷蔵庫、あるいは屠殺場。死とともに自らを巨大な墓標へと転じる、インスタント屠殺。

 僕らは、勇吾さんを食べて生きている。

 肉だけではない。

 僕は自分が着ているコートを見下ろす。

 太い産毛の生えた、分厚い薄茶のコート。四季実さん……最初に選ばれた女性の肌だ。みんなが使っている布団も。

 振り返る。窓を打ちつけている板の半分は、四季実さんの爪を割って取り出したもの。

 常夜灯の焚き火を常に燃やし続けている燃料は、して集めた二人の脂。

 小骨は校内で作るキャンプの骨組みになり、皮膚はそれに吊るす布となった。髪の毛や陰毛はロープに、血管は雪を溶かして作った飲み水を運ぶホースに。

「中に入れ。無駄に体温を下げることはない」

 いつの間にか首藤が隣にいた。三十代くらいで、どこかの大学で助教授をやっていたという。巨大化薬は極大寒波の直前に彼が研究室から盗み出したものだ。いつもネズミに尻を齧られているようなしかめっ面を浮かべている。

 そのしかめっ面は勇吾さんの躰を見ている今も、変わらなかった。

 三年前に死んだ四季実さんの躰は、とっくの昔に雪の下だ。

「首藤さんの言うとおりだよ」いつの間にか彼女もいた。「またどこかに行くと思われちゃうよ」

「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」

「いつもみたいに図書館に行けばいい。本を読むんだ。知識と教養が、この氷の時代を生き抜いたあとに必要になる……ミナ」

 彼女は頷いた。

 必要になる? この氷河期がいつ終わるというのか。そして生き残ったとして、僕らの他に人類がいるのか。本当に知識と教養などが役に立つ日が来るというのか。今や燃料に困り、その本すら火に焚べている有様だというのに。

 だけど、僕は黙って学校に戻り、図書館に向かった。

 そこが彼女のお気に入りの場所だからだ。

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