21kgの魂
石井(5)
21kgの魂
21kgの魂〈1/6〉
人間の体重を七十キログラムとして、その内訳を考えてみる。水分は除外する。
炭素が三五キロ、酸素が一四キロ、水素が七キロ、窒素が五・九五キロ、カルシウムが二・四キロ、リンが一・五キロ、カリウムが〇・七キロ。
そして魂が〇・〇二一キロ。およそ四分の三オンス。我らが失われた重量単位によれば。
僕らはそれらで構成されて生きていて、それらを喰らうことによって生きている。
終わりなき自然のサイクル。たった一つの種族だけが住む氷の箱庭。閉じた世界の狂った食物連鎖。それともこれは悪あがきじみた延命に過ぎないのか? 絶滅に向かって緩やかな行進を続けているのか、人類は?
僕にはまだわからない。
それを知ることができるのは最後の一人だけだから。
僕にわかることは一つだけ。
彼女は巨人になり、彼女の二一キロの魂は天へと消えていった。
凍った空、凍った風、凍った大地。僕は間違いを悟っていた。
狂ったような猛吹雪は僕のゴーグルの視界を真っ白に染め上げ、二時間前の往路の痕跡はおろか、背後の雪原に作ったばかりの足跡すら一瞬で消してしまう。
帰り道がこれで合っているのか、僕には確信がもてない。
耳あてのついた毛と皮の帽子をかぶっているけれど、ほとんど防寒の用をなしてない。
隙間から容赦なく雪が潜り込んできて、僕の首肌に当たって溶けて体温を奪っていく。帽子の隙間だけではない。コートの袖、襟、ズボンの裾、ブーツ、ありとあらゆる隙を見つけては、雪は悪意のように侵入してくる。
冷え切った身体はまるで僕のもののようではない。冷たさは思考をかき乱し、指先や足先は逆に焚き火に突っ込まれたように熱を帯びている。もう一歩進めば、つま先からぼろぼろ崩れ落ちそうな気がする。
僕は昔読んだマンガを思い出した。冷蔵庫の中でカチカチに凍ってしまった主人公が、お風呂で溶かされて生還するっていうギャグ。
まるで笑う気が起きない。自分はこの雪原のど真ん中で凍りつき、肌は割れ、目は見開かられたまま固まり、唇から垂れたよだれが氷柱になっている。想像すると、恐ろしくてしょうがなかった。しかも、風呂に入ったって復活できない。
たった一人だった。
白い嵐の中で、たった一人。ここには僕を殺そうとする世界と、彼の願いどおり死につつある僕しか存在しなかった。
ずっ、と僕は体勢を崩した。積雪のせいでまるで楽隊の行進のように腿を直角にあげて歩くしかなかったのだが、ついに膝まである雪から足を抜くことすらできなくなってしまった。
尽きたのが気力なのか体力なのか、僕にはわからなかった。ともかく、生きたいって気持ちが消えていくのはわかった。
僕の身体は雪原に横たわっている。剥き出しの頬にすら冷たさは感じない。まるで埋葬のように、ぼたん雪は身体の上に降り積もる。ほんの数分で僕の身体は白い地獄の中に消え去り、永遠に発見されることのないミイラとなって地球が寿命を終えるときまでそうしているのだろう。
埋葬……埋葬なんて一度も見たことない。この世界ではもはや絶えた慣習だ。
きっと、たぶん、おそらく。この世界でまだ生きている人類が、本当に僕たちだけであるならば。
声が聞こえた。僕の胸に他人事じみた喜びが浮かんだ。助けが来たと勘違いしたからではない。本当に死の直前には幻聴みたいな超自然的な現象が起こるんだ、という知的好奇心が満たされた喜びと、虚しさだった。
だけど、僕の腕が誰かに引っ張られ、身体を持ち上げられたことで、僕は声が幻聴ではなく、本物だということを知った。そして誰かが助けに来たのだと。
しっかりしろ、足を動かせ、学校に帰るぞ、そんな励ましの声がひっきりなしにかけられる。
僕は思い出した。
この世界で埋葬されることなど許されない。
それは貴重な資源をドブに捨てる真似だ。
人類が絶滅して久しいこの世界では。
次に目を覚ましたとき、僕はエントランスホールに横たえられていた。背中の下には皮の敷布団、上には産毛の毛布がかけられている。
ぱちぱちと爆ぜる音がする。常夜の焚き火だ。焚べられた十五少年漂流記の表紙が、まだ燃え尽きずちろちろと火に舐められていた。
半身を上げると毛布がずり落ちた。みんながいた。
「馬鹿な真似をするな」首藤が苦い顔をしていた。「みんな心配したんだぞ」
その言葉のとおり、リーダーの首藤の周りにいる十三人の男女……他の全員の顔には不安と勝手なことをした僕への怒りと、無事に仲間が帰ってきた安心とが入り混じっていた。
僕には、彼らが心配していたのが僕の命ではないことがわかっている。僕の身体を心配していたのだ。三五キロの炭素、一四キロの酸素、七キロの水素、五・九五キロの窒素、二・四キロのカルシウム、一・五キロのリン、〇・七キロのカリウム。人間を構成するそれらは、同時に人間が生き延びるために必要な成分。
僕らは仲間であると同時に、お互いの家畜だった。
本当に僕のことを、僕の命を心配していたのは彼女だけ。それもわかっている。
悲しいことかもしれないけど、僕にはそれだけで充分だった。
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