タイミング

あじろ けい

第1話

 彼女の名前は浜田真里。郵便物の宛名から知った。


 いっておくが、俺はストーカーではない。


 彼女あての郵便物が俺の郵便受けに間違って入っていたんだ。俺の部屋は2〇4号室、彼女の部屋は4〇2号室。4と2は似ていないと思うのだが。郵便物はマンション入り口にある郵便受けに戻しておいた。


 彼女は、朝八時の電車に乗って出勤する。たまたま、その日は海外との電話カンファレンスがあっていつもより早く出勤しなくてはいけない日だった。なんで俺らがむこうのビジネス時間に合わせて早く出勤しないといけないんだと時差を呪ったが、駅で彼女をみかけて眠気がすっ飛んだ。以来、がんばって早起きして彼女と同じ電車に乗って通勤している。


 俺はストーカーではない。


 彼女はA駅で降りる。駅を降りてBビルに向かう。駅から五分の道のりだ。Bビルの六階に入っている人材派遣登録会社で彼女は働いている。


 しつこいが、俺はストーカーではない。


 俺が働いている会社が同じビルの二階に入っているのだ。


 まだ二十五だっていうのにメタボ一直線の腹が気になって階段を使っていたが、彼女と一緒に乗りたくてエレベーターを利用するようになった。


 因幡の白ウサギ。初めて彼女をマンション入り口で見かけた時の印象だ。まだ名前を知る前だ。


 小柄で、ぽちゃっとしてて、白いモコモコのセーターを着ていたせいだった。モヘア素材というらしく、調べたらアンゴラウサギの毛だという。やっぱりウサギだ。


 黒目勝ちのパッチリした目、小さくて低い鼻、ふっくらした頬、おちょぼ口。やっぱりウサギだ。


 黒髪ストレート、長め、小柄、ぽっちゃり、色白。俺の好みのストレートフラッシュ。一目惚れだった。


 マンションの入り口や駅で顔を見合わせるようになって挨拶を交わすようになった。マンションのエレベーターに乗り合わせた時もちょっとした会話をするようになった。天気だとかゴミ出しの話だとか、主婦同士の会話みたいだったが。ちょっとずつ仲良くなれたらと思っていたんだ。


 リア充への扉は俺の目の前で閉じた。


 文字通り、俺の目の前でエレベーターの扉が閉じていったんだ。


 閉じる気はなかったんだ。俺が先を歩いていて、後から少し遅れて彼女がたたっと走ってきているのはわかっていた。先にエレベーターに乗って待っていてあげようと思ったんだ。


 俺は「開」のボタンを押した。エレベーターの扉は閉まっていった。閉まっていくドアの隙間から彼女の顔が見えた。目を見開いて、おちょぼ口が半開きになっていた。耳があったら、きっと立っていた。


 俺はパニックに陥った。手を入れて扉が閉まるのを防げばよかったのかもしれないが、とにかく混乱してしまっていた。


 俺は「閉」のボタンを押していたのだ。


 「開」と「閉」。見間違えたんだ。似すぎなんだよ、お前ら。


 「OPEN」と「CLOSE」にしろと俺は内心毒づいた。ここは日本だが、開閉だけは英語表記にすべきだ。



 エレベーターの扉を閉じてしまって以来、顔を合わせても、挨拶してもらえなくなった。こっちも気まずくて声がかけられなくなった。


 エレベーターを待っている彼女を見かけると、わざと郵便受けの前に立ち止まって郵便物ををチェックしているふりをして時間を稼いだ。同じエレベーターには乗れない。


 郵便受けにはエロチラシが大量に入っていた。水道料金表を見るふりで、俺はおっぱいを見ていた。誰かが背後を足早に通り過ぎていった。その女性は、郵便受け近くのゴミ箱に何かを投げ入れた。


 エロチラシを捨てた女性はちらっとこちらを振り返った。浜田真里だった。エレベーターを待っていたはずじゃなかったのかと見ると、白いコートを着た別人だった。


 彼女は軽蔑するようなまなざしを俺にむかって送り、階段を昇っていってしまった。


 エロチラシを見ているふりをしていただけなんだ。がっつり見ていたわけじゃ……あるんだ。俺はチラシを部屋に持ち帰った。



 彼女はエレベーターに乗らなくなった。俺がエレベーターを待っていると、彼女は階段を使うようになった。俺と一緒のエレベーターに乗りたくないっていうんなら俺が階段を使うさと、俺は階段を昇るようになった。俺の部屋は二階だが、彼女の部屋は四階だ。エレベーターを使った方がいいのは彼女だ。


 エレベーター乗り場での鉢合わせを避けて、俺はコンビニで時間をつぶすようになった。


 雑誌売り場で立ち読みしていた時だった。彼女がコンビニにやってきた。店内に入ったかと思うと、きびすを返して彼女は出ていった。窓越しに見かけた彼女の横顔は嫌悪感をあらわにしていた。


 コンビニ入り口近くの雑誌売り場には成人雑誌が置かれてある。ちがうんだ、ビジネス雑誌を読んでいたんだと言いたいところだが、手にしていたのは週刊誌で、表紙はグラビアアイドルの近藤椿ちゃんだった。ビキニ姿で、はちきれんばかりのおっぱいの谷間が雑誌の中央にあった。


 女に飢えていると思われたんだろう。確かに、俺はモテない。背は高くないし、メタボ腹を抱えていて、毛深い。二重の目だけが無駄にイケメンと、口の悪い女友だちは言う。


 モテる男だってエロ本は読むんじゃと、俺は適当にその辺にあった雑誌を買った。



 その夜はどうしてもエレベーターに乗らなくてはいけなかった。酔っぱらった妹を部屋まで運ばなければならなかったからだ。一五〇センチ、五十キロの妹を階段で二階まで運べるはずがない。


 妹は、ゴミ箱を抱えて吐いた。捨てられたエロチラシが入ったゴミ箱だ。エロゲロである。


 暑いと文句を言うので、シャツのボタンを外してやった。


 シャツのボタンを外している時、彼女が通りかかった。酔っぱらった女の子の服を脱がそうとしていると思われたのだろう。彼女の目が「サイテー」と言っていた。


「い、妹なんです。彼氏に振られた、飲みに連れていけって言われて……」

「そうなんです、私、妹なんです」と証言してくれたらいいのに、妹はゲーゲー吐いてばっかりだった。


 彼女はさっさとエレベーターに乗り込んでいってしまった。


 妹をゴミ箱から引きはがし、俺はエレベーターの前まで引きずって行った。


 とっくに行ってしまったと思っていたエレベーターは一階にあって、扉は開いていた。中には彼女がいた。


 俺は待っていてくれた礼を言い、妹をエレベーターにおしこんだ。

 俺が言う前に、彼女は二階を押した。

 エレベーター内で、妹は叫び、喚き、彼女の服にむかって吐いた。


「クリーニング代、払いますから」


 何度も謝りながら、俺は二階でエレベーターを降りた。バスルームに妹をつっこんでおいて、財布を探った。持ち合わせは三千円しかなかった。クリーニング代がいくらかかるか見当もつかない。足りないかもしれない。


 俺は妹の財布を探った。こっちはもっとひどくて千円札一枚きりだ。俺は千円札を抜き取った。大体、妹が彼女の服を汚した張本人なのだから、妹が払うべきだ。三千円は利息付きで返してもらう。


 四千円を手に、俺は彼女の部屋にむかった。

 彼女は部屋着に着替えていた。シャワーを浴びたらしく、甘い香りを漂わせていた。エレベーターに一緒に乗っていたころ、ひそかに嗅いでいた香りだ。


「足りない分は後日改めますんで」


 俺は金を渡してそそくさと彼女の玄関先を後にした。

 二階の部屋まで降りていくだけだからと、俺は階段を使うことにした。そして、転げ落ち、足首を骨折した。


 階段を使えなくなった俺のために、彼女はエレベーターの扉を開けて待っていてくれるようになった。松葉杖で思うように体を動かせない俺がちゃんとエレベーターを降りるまで扉が閉まらないようにしてくれた。


「一緒の階で降りていいですか?」


 骨折が治って、なんだかんだでまたエレベーターに乗るようになってしばらく経った頃だった。はにかんだ表情を浮かべて彼女がそう言った。



 今、俺らは同じ階でエレベーターを降りる。同じ階の同じ部屋で暮らしているのだ。マンションは違う。


 一緒に住もうとなって、広い部屋に引っ越した。引っ越し先の決め手はエレベーターだった。ここのエレベーターの開閉ボタンは「OPEN」と「CLOSE」なのだ。

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