第2章 居酒屋にて #1

俺だったら あなたに


そんな悲しい顔はさせない


いつも そう思っていた


俺の名前は、小宮山 剛、30歳。


これでも、小さな店を持っている。


10畳程の大きさに、椅子の数も10個程。


それでも、極貧生活で貯めたお金で、去年やっとオープンできた居酒屋だ。



オフィス街が近いせいか、会社帰りのサラリーマンやOLがほとんど。


だが、1年ぐらいしてやっと、常連の客もでき始め、収入も安定してきたところ。


やっと、夢が現実になったわけだ。


そこへ、ほとんど毎日と言っていいほど、閉店間際に一人で来るOLがいる。


それがこの人、夏目 美波さんだ。


「でね?コピーとる時でさえ、面倒くさいって顔しながら、ため息つくの。バイトの身分で、あり得なくない?」


彼女の話は、8割が愚痴。


俺より2歳年下なのに、会社では役職も持っているようで、かなりストレスが溜まっているようだ。



「取引先のお客様がみえても、知らぬ存ぜぬっていう態度。もう、何の為に雇ってるんだか。」


特に最近お気に召さないのは、入ったばかりの若いアルバイトの子らしい。


「まっ。仕事へのやる気があるんだったら、バイトの身に甘んじてないでしょう。そういう子だから、バイトなんですよ。」


下手に反論して、客とトラブルになることだけは、避けたい。


なにせ、週に4日も通ってくれる、常連中の常連だからな。



「そこなのよ!」


急にグラスをドンッと置いて、夏目さんは遠くをジッと見つめる。


「私はバイトですから~みたいな、ふにゃふにゃな態度!!『早くお金貯めて、今の彼氏と結婚するんですぅ~』って、うちは働きもしない奴に、給料払うくらい儲かってないっつうの!!」


お酒に酔っているのか、だいぶ興奮気味のご様子。


そりゃそうだ。


これで生ビール5杯目。



そんな攻撃的な彼女でも、時折可愛い一面を見せる。


「今日は、一緒にお昼を食べたの。」


「へえ~。」


「彼ね、結構食べるの。だから私の分も食べたら?って、おかずの皿差し出したらね。」


その好きだという“彼”の話をする時は、やけに機嫌がいい。


「なんだか、バカップルみたいだな、俺達って。もう!!」



うん。


嬉しい気持ちはわかるんだけど、バカップルって、当の本人に言われてるんだよ。



「あ~あ。もう言っちゃおうかな。好きだって。」


驚くのは、まだそいつと付き合っていないということだ。


「好きなら、さっさと告白して、付き合えばいいでしょう。」


「それが出来るなら、とっくに付き合ってるって。親方。」



もどかしい。


本当に歯がゆい。


そりゃあ夏目さんは、愚痴っぽくて、お局気質で、Sっ気で、呑んだくれな部分があるけれど。


こういう、臆病なところもあるんだよ。


気づけよ、その同僚の男ってヤツ。



そんなヤツ、やめてしまえ。


やめて、俺のところへ来い!


いつもだったら、そんなセリフでも言い放って、息もできないくらいに、強く抱きしめているのに。



ダメだ、ダメだ。


彼女はヤツが好きなんだ。


無理にこっちへ向かせても、夏目さんを傷つけるだけだ。


ここは大人になって、彼女の幸せを第一に考えてあげるべきなんだ。



「親方?」


「は、はい!?」


急に呼ばれて裏返った声に、夏目さんはクスクス笑っている。


ああ、可愛い。


「私、もう帰るね。いくら?」


「そうだな、4,000円でいいよ。」


「はははっ!ちゃんと計算してよ、親方!そんなアバウト勘定じゃあ、いつか潰れちゃうよ?」


そう言って、またクスクス笑う。


「じゃあ、4,200円。」


「はいはい。消費税分も払えってね。」


長い指先で、お札を数える。


「はい。」


その上に置いた100円玉、2枚。


なぜかその100円玉だけ、光って見える。



「じゃあまたね、親方。」


「気をつけて。」


「あーい。」


扉を閉める時に、一瞬こちらを向く彼女。


行きつけの飲み屋の店主にでさえ、そんな気使いできる人なのに。


どうして、振り向いてやらないんだよ!!



怒りに任せながら、グラスを洗う俺は、相当夏目さんのことを好きらしい。


「はあ……」



見守るだけ。


彼女の恋を応援する。


好きだと気付かれないようにする。



30にもなって、そんな中学生のガキみたいな恋をするなんて、思ってもみなかった。


そんなある日、俺のその決意を破るような出来事が起こった。



週明けの月曜日。


一週間の中で、一番客の少ない日。


その日も、店を開けて1時間しても、一向に客は来なかった。



「そもそも、人、歩いてんのか?」


カウンターを出て、店の扉を開ける。


一瞬で目に入った、夏目さんの放心状態の顔。


俺は心の中で、大きな声をあげた。


いくら好きな女性でも、これは心臓に悪いだろ。



「いらっしゃい、夏目さん。」


「親方……」


ここがどこかわからないという表情で、辺りを見回す。


こんな早い時間に店に来るなんて、いつもの夏目さんじゃないみたいだ。



「どうぞ。」


それでも夏目さんは、夏目さん。


「……私、一人?」


「そうですよ。今日は月曜日ですからね。」


カウンターの中に入って、温かいおしぼりを渡す。


何があったかは、客から話してこない限り、こちらからは聞かない。


それが、俺の決めたルール。


「生でいいですか?」


「はい。」


その頼りない返事が、無茶苦茶気になるけれど、仕方がない。


「はい!ビールね!!」


元気だせよ!夏目さん。


そんな意味を込めて、彼女の前にビールを差し出した。



次の瞬間、ボロッと彼女の目から、涙がこぼれた。


「夏目さん?」


やばい、やばい。


泣きだすなんて、やばい。


俺は咄嗟に、おしぼりをもう一枚、彼女に渡した。



「親方……」


「はい?」


その言葉は、俺にとって、衝撃的な一言だった。




「私の、好きな人……結婚するんだって。」




えっ…


なんだよ、それ。



「相手は、ウチの会社の受付の子なの。」



受付の子?


しかも同じ会社の???


あいつ、夏目さんの事、見捨てたのかよ!!



「……で?夏目さんは、相手に気持ち伝えたんですか?」


夏目さんは、首を横に振る。



そうだよな。


そんなこと知ったら、好きだなんて、言えないよな。


俺は気がついたら、カウンターを飛び出して、店の外の暖簾を外していた。


「親方?」


「今日はもう店閉めましたんで。他に、客来ないですから。」


俺の大事な夏目さんが、深く傷ついているんだ。


こんな時に、他の客の相手なんか、してられるかよ!!



「だから我慢しないで、思う存分飲み食いしてください。俺のおごりです。」


そして、俺は夏目さんの目の前にあるグラスに、ビールを注いだ。


「親方……」


「あっ、なにかつまみ、出しますね。待っててください。」


夏目さんを励まさなきゃ。


俺が、励まさなきゃ。


そう考えながら、冷蔵庫を漁る。



「あっ、あった。ありましたよ。夏目さんの好きなイカの塩辛。」


これを美味しいと言って、笑顔いっぱいになってくれた夏目さん


それをもう一度見たくて、俺もいっぱいの笑顔で、振り向いた。



でもそこには、夏目さんの笑顔はなくて、代わりに涙でグチャグチャになった夏目さんがいた。

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