約束
新月
第1話
水面に水を一筋垂らす。細く細く、まるで糸のように。
星空を映す、鏡のような泉。白い指先から水が落ち、波紋が広がる。
一瞬の後、静まった水面に映るのは幾つもの屋根と電灯の明かり。
草木も眠る丑三つ時。さあ、今夜はどんな夢を見せようか。
夢を見ているのだとすぐに気付いた。昔見た写真の通りの景色だったから。
どこまでも広がる青い草原。目の前には気球。
赤と黄色の縞模様の頭。炎を受けて、目一杯に膨らんでいる。ロープで繋がれていなければ、すぐに浮き上がりそうだ。
その下には茶色の篭。中には誰も乗っていない。
篭に手をかけて、ひらりと乗り込む。誰もいないのにロープが外れ、気球はふわり浮かび上がる。
遠くの山から昇った朝日が気球を明るく照らしている。
小学校の図書室で、これと同じ光景を見た。
地面に繋がれた派手な気球。ロープを外されて昇ってゆく姿。気球の上から見た景色。
どこまでも続く青い草原。そこに落ちる気球の小さな影。
乗ってみたいね、囁きあったあの子は、今どうしているんだっけ?
遠くに白い家が見えた。誰かが家の前に立ち、両手を大きく降っている。
そう思ったらもう、気球は家の前に降りていた。
「-、――」
「ああ、久しぶり」
小学生のあの子が、変わらない笑顔で駆けてくる。自分は歳をとったのに、あの子はあの日、図書室で笑い合った時のままだ。
「―――!――、―――」
「そうだね、あの時の気球だ。大丈夫。2人くらい乗れるさ」
あの子が乗りこみ、ついで自分も。2人が乗ると、気球はひとりでに浮き上がる。
「―――!!――――。―――」
あの子が何かしゃべっている。声は聞こえないのに、言いたいことは不思議と分かる。
「―――――、――――?」
「覚えてるよ。約束したっけね。いつか、一緒に乗ろうって」
大人になったら、2人で気球に乗って旅に出ようって。
笑顔で話しかけてくるあの子から目を逸らし、どれだけ進んでも近付いてこない山を見た。
「できれば…、夢でなくて、現実でこうしたかったな」
いつの間にか、太陽は反対側へと高度を落としていた。
ふわり。何もしていないのに、気球は自然に地面に降りる。あの子は飛び降り、駆けてゆく。少し行ったところで立ち止まり、振り返って手招きした。
「待って、お前は相変わらずせっかちだね。全然かわっていない」
気球から降り、あの子を追いかける。背後に太陽。あの子のいる場所は一足先に夜になったかのように薄暗い。
「お前はいつもそうだった。ずっと走っていた」
走るあの子を追いかける。太陽が遠ざかり、辺りの闇が濃さを増す。
「お前は速すぎた。速く走りすぎたんだよ」
足を止めれば、あの子も止まる。距離をおいて向かい合う。
「そんなに速く…、走り切ることなかったのに」
約束を果たすまで、待っていてくれてもよかったのに。
「約束を守るために、あそこで待っていたの?」
「――、―――――」
あの子はふるふると首を振る。
「――、―― ――」
闇の中からあの子が手招く。
「駄目だよ、まだ行けない」
光が届くギリギリの場所に立ち、闇に沈むあの子を見つめる。
「そっちがどんな風か知らないけど、そのうち必ず行くからさ。そしたら一緒に廻ろう」
こっちで出来なかった代わりに。
「それまでは」
「―――」
あの子は何か言い、背を向けると奥へ奥へと駆けてゆく。
もう姿は見えない。
自分も向きを変え、気球へ向かって歩き出した。
白い指先が水を垂らす。水面が揺れ、収まった後には夜明けの空。
今日の夢はおしまい。
また明日。
約束 新月 @shinngetu
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