腐令嬢、防御す
イリオスは医療用テントではなく、校内の医務室で休まされた。たまに忘れかけるけど、王子様ですもんね。
保険医や護衛達には、暑さにやられただけだと説明しておいた。あまり騒ぎにしたくないとイリオスが強く訴えたからだ。
私が付き添いを申し出ると、ステファニは待ってましたとばかりに皆を引き払い我々を二人きりにしてくれたよ。ケンカしたと聞いて、やっぱり心配してたみたい。本当にごめん……エアケンカだったなんてとても言えない。
誰もいなくなったところで、イリオスは治癒魔法で怪我をさっさと治した。
二人になってからもえらい無口で、話しかけても適当な相槌を返すだけだ。私が勝手に聖地巡礼のノリでイベント場所に行ったことを怒ってるのかも。だよね、私が迂闊にあの場所に近付かなきゃこんな事態にはならなかったんだもん。
「あの……ごめんね? 私のせいで痛い目に遭わせちゃって。深く反省してます。本当に申し訳ございませんでした」
頭を下げて詫びるも、イリオスはベッドの上から遠い目を虚空に向けたまま、曖昧に頷くだけだった。
これは相当機嫌が悪いぞ。よーし、ならば!
「ね、喉乾かない? 私、イチゴ牛乳買ってくるよ。もちろん奢らせていただきます!」
「あ、はい……お願いします」
イリオスがうつろに答えるより早く、私はベッドサイドの椅子から腰を上げていた。あまりに空気が重くて、そろそろいたたまれなくなってきていたもので。
購買は医務室から近い。大して時間稼ぎはできないだろうけど、それでも息抜きにはなる。
そう考えて意気揚々と扉を開けた私は、しかし即座に医務室を出たことを後悔した。医務室の扉のそばで、カミノス様が待ち構えていたからだ。
きっちり扉を閉めると、私は入口の封印を守るガーディアンのように立ち塞がった。
「何の用? 私がいない間に忍び込んで、イリオスをさらに痛め付けるつもりだったのかしら? それでまた私のせいにしようと?」
カミノス様がゆっくりと首を横に振る。ポニーテールで一つにまとめた黒の長いカーリーヘアが、静かに揺れた。それから彼女は赤の瞳を私に向けた。
イリオスとよく似ているけれど、近くで見ると微妙に色味が異なる。
どちらも深い紅ではあるものの、カミノス様はややダークトーンのクリムゾン、イリオスは彩度の高いカーマインといった感じだ。
「わたくしはイリオスの本当の思いを知りたいだけ。あなたを選ぶと言っておきながら、わたくしにもまだ気持ちがあるようじゃない。今回も最初に呼んだのは、わたくしの名だった。あなただって聞いたでしょう?」
挑発的に凄まれても、全く覚えがない。
あいつ、カミノス様の名前なんか呼んだっけ? 突然の出来事に気が動転してたから、聞き逃したのかな?
顎に手を当て、記憶を巡る脳内旅行に出てみる。しかし、カミノス様を呼ぶイリオスの声はどこにもない。私がいつまで経っても旅から戻らないので、カミノス様は焦れたように声を荒らげた。
「あなたって、本当に都合の悪いことは覚えていないのね! 『ダメだ、おおカミノス様!』と、イリオスはあの時そう叫んだでしょう!?」
「え……?」
私は思わず顔を上げ、カミノス様を見つめた。
「それに目覚めてからも、わたくしとあなたのせいではないと言っていたわよね? イリオスはわたくしのしたことを知っていながら庇おうとしたのよ!」
「いや、待って……それ多分、あなたのことじゃなくて」
「やめろ!」
しどろもどろになる私の背後から、扉を開く音に重なって鋭い怒声が飛ぶ。
医務室から飛び出してきたイリオスは、私を押し退けてカミノス様を突き飛ばした。
「どうして放っておいてくれない!? 何度誤解だと言えばわかる!? 僕はあんたのことなんか好きじゃない! 人の領域に好き勝手に踏み込んできやがって……あんたみたいに無神経な奴が、僕は何よりも嫌いなんだよ! とっとと失せろ! 二度と顔を見せるな!」
烈火の如く怒りをあらわにするイリオスの剣幕に圧され、私は硬直しかけた。
このブチ切れっぷりは、お兄様を殴った時と同じ、いや、それ以上だ。が、固まってる場合じゃない!
「エ……イリオス、落ち着いて! いくら何でも言い過ぎだよ!」
必死にジャージを引っ張って懇願すると、イリオスは私の顔を見て、脱力するように項垂れた。我に返ってくれたらしい。
くっ……と小さく、嗚咽を押し殺した声が耳に届く。
はっとして目を向けるも、カミノス様は既に後ろ姿となっていた。
遠退いていくポニーテールが、隠した涙の代わりに流れては落ち流れては落ちを繰り返す。泣き顔を見せれば、同情を引くことはできただろう。けれど彼女は、それを良しとしなかった。
そんなカミノス様の誇り高いプライドが、今は切なく痛く感じられて、私はしばらく動けなかった。
カミノス様のお見送りを終えて振り向くと、イリオスの姿も消えていた。医務室を覗いてみても、中にもいない。
きっと奴は自己嫌悪のズンドコ真っ只中だ。恐らく、体育祭には戻っていないだろう。
ならば行き先はきっと一つ。一人で静かに落ち込める、旧音楽室だ。
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