腐令嬢、命を抱く


 丁寧に手を洗ってから、私はアダリスきゅんを抱かせてもらった。

 赤ちゃんを抱っこするなんて、前世でも経験したことがない。ちょっと怖かったけれど、アフェルナに教わって恐る恐る抱いた赤ちゃんは、あったかくて、でも重たくて――これが命なんだと全身で訴えているようだった。



「クラティラスったら、相変わらずケンカを売られたら倍値で買うのねぇ。でもね、あの侍女の言うことも最もなのよ。将来、ディアス様が国王陛下になられたら、この子は王太子という立場になる。だから過剰なまでに身の安全と健康を心配し、外敵に警戒する気持ちはわかるわ」



 感涙にむせびながらアダリスきゅんを抱く私に、アフェルナは静かに微笑んだ。



「でも私は、王宮の鳥籠の中で過保護に育てるばかりがこの子のためになると思わないの。幼い内からいろんな経験をさせて、いろんな人に触れ合って、時には少しの危険も味わって、それらを乗り越えて自分で判断できる子になってもらいたい。一人の子の母として、叶うなら未来を選ばせてあげたい。こんなことを言っては、血統を重んじる王家の妃として相応しくないと思われても仕方ないわよね。でも、未来は自由でしょう?」



 未来。

 その言葉は、大きく私の胸を打った。



 リゲルがヒロインだったゲームは、このままいけばヴァリティタが主人公のライトノベルへと向かう。そこは戦乱に荒れた世界らしい。


 アステリア王国がどうなるかはわからないけれど、そんな恐ろしい未来をこの腕に抱く子に迎えさせてはいけない。この子の未来も、守らなくてはならない。


 自分の死亡エンド以上に、世界の未来のために何としても戦わなくては。

 戦うだけじゃダメだ、勝たなくては!


 私の密かな決意を感じ取ったのか、腕の中の温もりと重みが増した気がした。

 きっとアダリスきゅんも、応援してくれてるんだね。うん、ありがとう。私、頑張る!


 ……と、追い涙しかけたところで、おかしな臭いに気付いた。次いで、おとなしく抱かれていたアダリスきゅんが顔を歪めて泣き始める。



「やだー、アダリスったらまたウンチしちゃったの? ここに来る前にもモリモリ出してきたのに、本当によく出す子ねえ。侍女達にウンコダスリスって呼ばれるだけあるわぁ。ちょっと来てー! アダリスがウンコダスリスになったわよー!」



 私からさっと息子を取り上げると、アフェルナはドアの外で待機していた自分の侍女を呼んだ。それから侍女に持参させていたおむつを受け取り、テーブルに転がした我が子のおくるみを引っ剥がして、慣れた調子でおむつを替え始める。


 あの温もりと重み……ウンチだったんだ。ウンチに感謝してたんだ、私……。


 おしりキレイキレイしてもらうと、アダリスきゅんはすやすやとねんねなされた。

 あー可愛い。ウンコダスリスでも可愛い。赤ちゃんって、こんなに可愛いんだね!



「私はもう行くわね。アダリスが眠っている間に、いろいろやらなくてはならないことがあるから。慌ただしくてごめんなさいね」



 アダリスきゅんをいそいそと抱き上げ、アフェルナはやや早口で詫びを口にした。


 アフェルナのことだ、できる限り子育ては他の者に任せず自分の手でやっているんだろう。いろいろとは恐らく、第一王子妃殿下としてのお仕事や次期王妃としてのお勉強などのことだと思われる。


 多忙を極めるというのに、少ない時間の合間を縫って、アフェルナは真っ先に私に会いに来てくれた。私がずっと切望していた、アダリスきゅんとの対面のために。その気持ちが本当に嬉しかった。



「ありがとう、アフェルナ。またいつか会えるかな? 忙しいなら無理しなくても……」


「ああ、それなら大丈夫よ。明日は、私と一緒の車に乗ってもらうから。その時にこっそり萌え語りしましょ!」



 そう告げると、アフェルナは侍女や護衛を置き去りにするほどスピーディーに去っていった。ふくよかボディでほよほよフェイスなのに、やたらと足は早いんだな……もう見えなくなっちゃったよ。


 窓から高速帰還するアフェルナを見届け終えると、私は改めてイリオスに向き直った。



「おい、明日って何だクソ野郎。何も聞いてないぞクソ野郎」


「え、僕にかける第一声がそれですか? ひどくないです?」



 ステファニにお茶のおかわりを注いでもらっていたイリオスは、悪びれもせずに銀の前髪をかきあげて紅の瞳をわざとらしくひそめてみせた。


 そこで明かされたるは、明日はアステリア国民にアダリスきゅんをお披露目するイベントがあるということ。車に乗ってちょろっと周回する程度らしいんだけど、そこに私もイリオスと一緒に同乗するんですって!



「はああ!? 何でそんな大事なこと黙ってたの!?」


「大事なことだから言えなかったんですよ。この国じゃ毎回、王子の初お披露目は国民へのサプライズイベントとして楽しんでもらってますしー」


「ますしーもモヤシーもねーわ! あぁぁ、こんなことならちゃんとリップケアしとくんだったー! ずっと微笑みっ放しでいなきゃなんでしょ? 後半、絶対にくちびるが乾燥して切れて血塗れだよー! せっかくのアダリスきゅんのお披露目が、私のブラッディスマイルで夏の納涼ホラーイベントになっちゃうよー!」



 私の叫びを聞くや、ステファニがさっとリップバームを取り出して塗ってくれた。例の王室御用達のやつだ。


 これがあれば、今からでも何とかなるかも? 前にイリオスから奪ったのもめちゃくちゃ効いたし。

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