腐令嬢、回帰す


 呼吸が白い靄となって、私の周りを踊る。まだ春と呼ぶには遠いけれど、寒さは大分和らぎ、重いコートを必要としなくなってきた。あちこちにまだ残る白い雪も、ブーツの足を阻む邪魔な存在ではなく、天空に浮かぶ柔らかな雲みたいに思える。それもそのはず、この先で私を待っているのは天使なのだから。


 距離を置いて護衛に付いてきてもらいながら、私は天使の梯子を登るような心地で商都の道を歩き、ついに目的である路地裏の一角に到着した。



「クラティラスさん……って、あれ? その格好」



 座っていた木箱から立ち上がったリゲルは、私の庶民スタイルな服装を見て、伊達眼鏡の奥の金の瞳を丸く見開いた。



「リゲルこそ、その格好、久々じゃない。ここしばらくは制服やスカート姿を見慣れていたから、パンツスタイルは今となっては逆に新鮮ね」



 リゲルと同じく、久々に伊達眼鏡を通して彼女を見た私も吹き出した。ボサボサの三つ編みを作ったのも随分と久しぶりだ。


 初めて会ったこの場所で待ち合わせしよう――――そう約束しただけなのに、私達は申し合わせたように揃って懐かしのスタイルで現れた。リゲルが生活のために即興で書いた詩を売っていた、私によって詩広場と名付けられた場所に。



「ではクラティラス様、何をお書きしましょうか?」



 呼び名こそ男嫌いの頃のままだったが、懸命に表情を殺していた当時と違って明るい笑顔でリゲルは尋ねてきた。



「……その前に、聞いてくれる?」



 質問に答えず問い返すのは、ルール違反だとわかっている。けれど、リゲルは静かに頷いてくれた。


 それを確認すると私はリゲルの座る木箱の前にしゃがみ込み、彼女を見上げる形でゆっくり口を開いた。謝るなら、上から物申してはいけないと思ったので。



「私ね、大事な友達がいるの。ずっと一緒にいたいと思ってた。でも、どうにもできない事情があって……遠くに行かなくちゃならなくなったの」



 リゲルは特に驚くこともなく、静かに凪いだ瞳で私を見つめていた。やはり、悟られていたんだろう。



「いろいろあって結局、このままここにいられることになったんだけど……だからって、嘘をついていたって事実は変わらないよね」



 リゲルの真っ直ぐな目から逃れるように、私は膝頭に額を付けて頭を下げた。



「本当にごめんなさい! 私、リゲルに黙って外国の学校に行こうとしてたの。何も言わずに離れようとしてたの。それが一番いいと思ったから。でも、違うよね。本当の友達なら、ちゃんと話すべきだった。きちんとお別れを……ううん、またねって言葉を言い合うべきだったんだ」



 私がしようとしたことは、別れの日を誰にも伝えずに行こうとしたサヴラと全く同じだった。自分も同じことをされて、そしてエイダとビーデスの言葉を聞いて、やっと気付いたんだ――自分は間違っていた、ただ勇気がなかっただけだったんだ、と。


 意を決して顔を上げ、私は再びリゲルを見た。



「リゲル、書いてくれるかな? 今のあなたの気持ちを。詩でなくてもいいから、正直な言葉を書いてほしい」



 リゲルは頷く代わりに、膝に置いていたノートにペンを走らせた。待ち時間は、ほぼなかった。拍子抜けするほど早く、リゲルはペンを置いた。



「どうぞ、クラティラスさん。あたしの素直な気持ちです」



 切り取ったノートの一枚を差し出されると、私はリゲルの顔も見ずにそれを受け取った。


 そこに書かれていた文字は、非常にシンプルだった。



『これからもずっと一緒に。どんな時も何があっても、いつまでもずっと一緒に』



「言ったでしょう? クラティラスさんがあたしのことを嫌いになっても、あたしはクラティラスさんが大好きだって。たとえ離れ離れになったとしても、気持ちは変わりません」



 穴の開くほど凝視していた用紙をすっと取り上げ、リゲルは木箱から降りて私の前にしゃがみこんだ。



「あたしも、薄々気付いてたんです。クラティラスさんがどこかに行こうとしてるって、何となくだけど感じてたんです。でも……あたしも何も言えなかった。本当のことを知るのが怖くて、逃げてたんです。友達なら、ちゃんと聞くべきだったのに。だから、謝らないでください。おあいこなんですから」



 リゲルが手を差し出す。迷わず、私はその手を取った。



「私達、おかしなところが似てるよね。いざとなると臆病になるところも、お互いのことが大好きなところも」


「示し合わせたみたいに今日、昔と同じ格好で来たところも、オバケが苦手なところも、BL一筋なところも、ですよ」



 手を握り返し、リゲルが続ける。思わず、笑ってしまった。



「私も、何があろうとリゲルが大好きだよ! これからもよろしくね、リゲル!」


「はい、クラティラスさん、こちらこそです! それと……十五歳のお誕生日、おめでとうございますっ!」



 薄曇りの空を割って、優しい陽射しが落ちてくる。それはまるで、リゲルの笑顔をさらに美しく彩るためのエフェクトみたいに見えた。



 本日はクラティラス・レヴァンタ、成人の誕生日。


 家に帰ればきっと、お父様とお母様、そして知人友人、まだプラニティ公国で帰国準備中のお兄様から贈られるたくさんのプレゼントが待っているだろう。

 けれど私にとっては、大好きな友達と昔と変わらず笑い合えるこのひとときが何より一番嬉しい贈り物だった。




 あー、そうそう。この後家に帰ったら、王宮から私宛に荷物が届いておりましてなー。


 嫌な予感がするでしょ?

 まぁ見事に的中したよね。中身は、イリオス画伯の新作でしたよ。


 お手紙によると、最推しのクラティラス嬢を描いてみたんですって。彼女の気高さの奥から滲み出る悲哀を表現するために、今回は水彩画にしたんだと。


 うん、期待にお応えして今回もとってもひどかったよ。しかも前のより小さめサイズだったけど、恐ろしいことに三枚も送ってきやがったよ。笑い顔と怒り顔と泣き顔の三種類らしいけど、どれがどれだか全っ然わかんなかったよ。もっと言うと、前回の油絵とほとんどおんなじだったね。ドス黒くてグチャグチャしてるだけの、超絶不気味絵……いやもうこれを絵と呼ぶことも拒否したい。ただの混沌こんとん蠱毒こどく地獄変だよ。


 水彩画にしても油絵にしても、あいつ、絵は描くものだって知らないのかな?


 絵の具は叩き付けて押し潰して捻くり回すもんじゃねーんだよ! あと筆は絵の具を乗せるものであって、キャンバスを殴るものでも突き刺すものでもねーわ! 何でこんなに穴だらけになってんだよ……誰か第三王子に絵の描き方を教えてさしあげろ! 私は嫌だよ、こんなの手に負えないよ……。


 これまたお手製だという、くねくねした変な模様がビッシリ掘られて気持ち悪さマックスぶっちぎった額縁に入った三種の絵は、去年プレゼントされたゲロキモ油絵と共に私の部屋に飾られることとなった。


 もうね、何かその場所だけ空間が歪んでる気がするの。魔除けのために、より強力な魔物を召喚した系のヤバさに満ち溢れてるの。そこを眺めてるだけで視界が歪んで三半規管までイカれて頭がおかしくなりそうになるの。



 なのに……我慢して眺めてると、感覚が麻痺してきて、奇妙な心地良さすら覚えるんだよね。



 しかし、こう感じるのは私だけらしい。ステファニもサヴラもトカナも、イシメリアもネフェロもお兄様すらも、長時間見ることを勧めても、この絵だけはどうしても無理! って全力で拒否ってたもん。


 このキモさが妙にクセになるんだけどなぁ……認めたくないけど、リゲルとは違う意味で私と江宮えみやには何か通じ合うところがあるのかな。


 時間ができたらリゲルを家に呼んで、彼女にも試してもらおう。似た者同士みたいし、リゲルになら理解してもらえるかもしれない。

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