腐令嬢、見守る
イシメリアの案内で部屋にやってきたトカナは、緊張した面持ちで室内に足を踏み入れたものの、一分と経たず腰を抜かした。
私が何かしたんじゃないよ? イリオスが描いた恐怖絵のせいですからね!
震える足でよろよろ歩きながら彼女がソファに座るまでを見届けると、生まれたての子馬が立ち上がるシーンを見たような感動を覚えたよね。私を騙すために演技してたとか言ってたけど、やっぱりこの子は本物の天然だと思うの。
「す、すみません……みっともないところをお見せして。貴族のお宅って、どこを見ても美しいものばかりというイメージだったので……まさか、こんな気持ち悪……いえ、独創的な絵画があるとは思わず、油断してました」
二度とあの絵は見たくないらしく、首をおかしな角度に捻じ曲げてトカナが申し訳なさそうに言う。
描いた人にもその人を想ってるトカナにも可哀想だったので、この悪趣味極まりない絵画の作者の名は伏せておくことにした。
「ええと、わざわざ私の家に来たのは……退部願を、渡すため、かしら?」
言いにくいだろうと思い、私は自分から切り出した。
トカナはびくりと肩を揺らがせると、それから俯いてしまった。
「…………私がしたことは、許されない行為です」
いくら恋い焦がれた相手とはいえ、さすがに婚約者の前で王子に肉体関係を迫るなんて、生き急ぎ死に急ぐ行動でしかなかった――ということは、理解してくれたらしい。
相手が王子じゃなくても、
「その件については、私もイリオスも他の人には漏らさないし公にもしないわ。あなたも、反省しているのでしょう?」
「…………はい」
ゆっくりと絞り出されたトカナの返事を聞き、私はホッと胸を撫で下ろした。
良かった、わかってくれたか。許されない行為だとわかっても反省も後悔もしていないと言われたら、また悪役令嬢クラティラスを召喚しなきゃならないとこだったよ。
「すごく、反省しました……クラティラス先輩は何も悪くないのに、貴族というだけで勝手に憎んで恨んで、挙句に酷いことを言って」
「酷いことを言ったのは、私も同じよ。むしろ私の方が……」
「いいえ、違います!」
トカナが顔を上げる。眼鏡の向こうのネイビーの瞳は、既に涙でいっぱいになっていた。
「クラティラス先輩にあんなことを言わせたのは、私です! クラティラス先輩は、私のためにわざと突き放したんでしょう? なのに私、全然気付かなくて……!」
待て……待て待て待て待て待て!
何でバレた? どうしてトカナは私のあの言動を、自分のためだと理解した?
私が演じた悪役令嬢は完璧だったはずだ。トカナだって、ブチ切れてビンタまで食らわせたじゃない!
まさか――考えたくない、けど。
「…………イリオスに、あの後、何か言われたの?」
恐る恐る尋ねると、トカナは首を横に振った。
「いいえ…………イリオス様には近付いておりません。愚かな私を目覚めさせてくれたのは、リゲル先輩です」
まさかのまさかな名前が出てきて、ポカンを通り越してパコンといったレベルで私の目と口は開きっ放しになった。
「退部願を、リゲル先輩に渡そうとしたんです。するとリゲル先輩は何があったのかを尋ねてきて……打ち明けるつもりなんて全然なかったのに、気付いたら何もかも話していました」
トカナが全て吐かされるのも仕方ない。何たってリゲルは中二の頃から同級生上級生下級生問わず、様々な人から相談を受けるほどのお悩み解決スペシャリストなのだ。『聞き上手のリゲル・トゥリアン』のあだ名は伊達じゃない。
「貴族なんて大嫌い、クラティラス先輩も大嫌い、皆庶民をバカにしてるんだと泣きながら言う私に、リゲル先輩はそっと教えてくれたんです。クラティラス先輩がその時に吐いた言葉は全部、偽物だって」
『あなたは騙していたのかもしれないけれど、クラティラスさんは違うでしょう? いつも本音で向き合ってくれていたでしょう? あなたがずっと見てきたクラティラスさんは、庶民を差別するような人でしたか? あなたよりも貧しいあたしと付き合っているのも、ただの哀れみに見えましたか? 他の皆さんも、あたし達以外は全員が貴族です。けれど、あたし達を仲間外れにする人なんていなかったでしょう? クラティラスさんを始め、紅薔薇の皆さんは別け隔てなく仲間として仲良くしてくれたじゃないですか』
貴族なんてと頑なに嫌悪を示すトカナに、リゲルは根気強く訴え、優しく諭してくれたらしい。
『その場にいなかったけれど、あたしにはわかります。クラティラスさんがそんなふうに突き放したのは、きっとあなたとイリオス様のためです。クラティラスさんがいなかったら、うまくいっていたと思いますか? イリオス様は、ずっとクラティラスさん一筋です。恐らく、厳しい言葉であなたを拒絶したでしょう。あの方はああ見えて容赦ありませんから。クラティラスさんはそんなことをイリオス様にさせたくなかった、そしてあなたが好きな人に傷付けられることを避けたかった、だから自分が悪者になればいいと考えてわざと嫌な奴を演じたんだと思いますよ』
あの人、他の演技はクソ・オブクソなのに何故か悪役の物真似だけは上手いですからね――と、余計なことまで言ってくれたようだが、さすがはリゲルだ。以心伝心すぎて、おちおちエロ妄想もしてらんねーや。
そういえば、リゲルに突然愛の告白じみた言葉をかけられたっけ。あれはもしかしたら、トカナの相談を受けた後だったのかもしれない。進路を読まれてると感じたのは、考えすぎだった……のかな?
そこは保留することにして、今はトカナだ。
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