腐令嬢、カビる


「そう、ですね…………では、ヴラスタリさんにこの傘をお貸ししましょう」



 少しの間を置いて、イリオスは静かにそう言って傘を差し出した。



「えっ……いえ、あのそのでも!」



 トカナが言葉にならない言葉を洩らし、両手をじたばたさせて慌てふためく。



「気にせずお使いください。僕の方は何とでもなりますから」



 そんなトカナに、イリオスは王子様スマイルで再度傘を勧めた。


 まあ確かにイリオスの判断が適切か。王子と相合傘してるところを誰かに見られたら、やっかみでリゲルみたいにいじめられるかもしれないもんな。


 しかし貸すだけとはいえ、王子の所持品は受け取りにくいようで、トカナは傘に手を伸ばすこともできずにオロオロしている。このままじゃ埒が明かないぞ……そうだ!



「私がイリオスからこの傘を譲ってもらって、それをトカナに貸したということにすればどうかしら? それならトカナも抵抗なく使えるでしょう?」


「いえいえいえ! クラティラス先輩からでもそんなことは……」


「あら、なぁに? あなた、先輩の好意が受け取れないというの? 私に憧れているというなら、ここは素直に言うことを聞くものではなくて?」



 往生際が悪い後輩に向けて、私は腕を組み睥睨する形で凄んでみせた。



「ひい!? とととととんでもありません! 受け取らせていただだだだだきますっ!!」



 あっという間に、トカナは観念した。


 オホホ高笑いの練習は大分サボってしまったけれど、救済の余地皆無といったレベルでヒロインをいじめ追い詰め泣かせ倒す性悪極悪悪役令嬢オーラは何もせずともすくすく育ちつつあるようだ。

 さすがはクラティラス! なーんて手放しでは喜べないなぁ……トカナだけじゃなく、リゲルまで怖がって私を避けるようになるんじゃないかと今から心配だわ。



「で、ではお言葉に甘えて、お借りさせていただきます……あの、本当にありがとうございます」



 恐る恐るお礼を述べると、トカナはイリオスから傘を恐る恐る受け取り、恐る恐る開き、恐る恐るといった足取りで外に出て、迎えの待つ場へと歩いていった。何度も振り向き、何度も頭を下げながら。


 一つ縛りにした長い黒髪が揺れる後ろ姿を眺めていると、不意にある人物が脳裏に浮かんだ。



 …………あれ?


 そういえばこれと似たような経験を、どこかでしたような?



「ねえ、前にもこんなようなこと、なかったっけ?」



 隣のイリオスを軽く仰ぎ、私はそっと尋ねてみた。するとイリオスは大きく溜息をつき、紅の瞳に憐れみすら滲ませてこちらを見た。



「あんた、忘れたんですかぁ? 三年の九月に、僕から強奪した傘を別の人に貸してたでしょーが。そのせいでこっちはひどい風邪を引いて、散々な目に遭ったっていうのに……やった方は忘れてもやられた方は忘れないの典型ですなー」



 イリオスのうんざり声が江宮えみやのそれに重なり、私も思い出した。



 高校三年生の九月、私は美大推薦用の作品制作に勤しんでいた。美大の推薦を受けるのは私だけで、他の三年生は皆受験勉強のために顔を出さなくなっていたけれど、親友だけは毎日一緒に美術室に通っていた。彼女曰く、美術室が一番落ち着いて勉強できるとのことで。しかし親友はその日、早く帰らなきゃならない用事があって、私は休憩ついでに彼女を昇降口まで送っていった。すると偶然、そこで江宮に遭遇したのだ。


 外は激しい夕立が降っていた。昼間は晴れていたし、天気予報でも伝えられていなかったため、親友は傘を持っていなかった。けれど江宮は、常に携帯しているという折り畳み傘を持っていた。


 そこからは、今日の流れとほぼ同じ。


 強奪と人聞きの悪い言い方をしてくれたが、江宮は割とすんなり渡してくれた覚えがある。これもやった方は忘れる理論なのかな?


 傘を失って雨が弱まるまで待つしかなくなった江宮とまだまだ居残りして作品に向き合わなきゃならなかった私は、今のように二人で彼女の後ろ姿を見送った。申し訳なさそうに何度も振り向いては頭を下げる、高峰たかみね美鈴みすずを。


 そういえば二人が交際を始めたのは、九月からだったと江宮が言っていた。それに二人がまともに言葉を交わしたところを見たのは、あの時が初めてだった気がする。



「もしかしてさ…………美鈴と付き合い始めたのって、あれがきっかけだったの?」



 クソウルなんぞに教える義理はねえ、とぶった斬られるかと思ったけれど、江宮――イリオスは頷き、小さく零した。



「風邪を引いて寝込んでた時、高峰さんがお見舞いに来てくれたんです。貸した傘を返すついでに」



 ――――『絶対に伝染されたくないから、完治するまで何があっても出てくるな』とメッセージを送ってきた誰かさんと違ってねえ、と薄笑いで付け加えられると、私の中にじわりとおかしな思いが湧き上がった。



 もし、私がお見舞いに行っていたら。美鈴より先に私が行って、素直に悪かったと詫びていたら。美鈴と私の立場が反対で、私が傘を借りていたら。あの日あの時あの場所に、美鈴がいなかったら。


 私が別の行動を取っていれば、二人は付き合うことなんかなくて――――代わりに、江宮は私を……。



 そこまで考えて、私はブンブンと頭を横に振った。


 頭が腐ってるのは元々だから仕方ないとして、ついにカビでも生えたのか!? 何て恐ろしいことを想像してしまったんだ……私の奴め、狂ってやがる!!



「ちょ、何だっていきなり頭部の回転運動なんか始めたんですか!? 僕にまで髪の毛がベシベシ当たって……痛い痛い、痛いですって! 連獅子の一人物真似ですか!? この世界には歌舞伎なんてありませんぞ!?」


「うるさい! ないなら流行らせてやるわー!!」


「これじゃただのクレイジーウル腐ですがな! こんなもん、流行りませんがな!!」


「…………遅くなってすみません。車にも傘がなかったので、購入してまいりました。クラティラス様、どうされました? 頭にカビでも生えたのですか?」



 当たらずも遠からずなステファニの言葉で私は我に返り、回転運動を止めた。激しく振り回したせいで長い髪は湿気をたっぷり含んで、ボッサボサになっちゃったよ……これじゃ悪役令嬢じゃなくて、悪役獅子頭か悪役山姥だ。


 梅雨なんか嫌い。湿気た頭でカビが生えたようなおぞましい思考をしたのも、このジメジメムシムシのせいだ。


 相合傘も折り畳み傘も大嫌い。早く夏になればいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る