初夏徒然諸々

腐令嬢、先輩面する


 今日もそぼ降る雨に、世界が濡れ落ちる。


 六月になって衣替えを済ませるとすぐ、晴天の日はほぼなくなった。長袖から半袖に変わっても肌を解放できた爽快さはなく、剥き出した腕にぬるく湿気が纏わりつくばかり。鮮やかに咲く紫陽花を眺めるしか、この不快感を払拭する方法はない。


 一体何だって梅雨なんか完備したんだよ。この世界にまでジメジメした季節を持ち込むことないじゃねーか。ヒロインと攻略対象を紫陽花が咲く中で相合傘させたいなら、それっぽい花をデザインして、たまたま雨の日に一緒になったって設定にしろよ。どうせファンタジーなんだから、日本のリアルなんざ無視してオリジナリティで突き抜けてくれれば良かったのに。


 ああもう、肌はベタつくわ髪はモアッとするわ空気はムワッとしてるわ、何もしてないのにプチイラが積み重なってく!



「クラティラスさん、どうしたんですか? 馴れ馴れしい当て馬と受けがイチャついてるシーンをうっかり見せつけられて『あいつ、帰ったらお仕置きだな』なんて考えてる攻めみたいに怖い顔して」



 昇降口で降りしきる雨を睨み付けていたら、リゲルが隣から顔を覗き込んできた。


 すっかり帰り支度を整えた彼女は、淡いローズのレインコートにチェリーピンクのレインブーツという可愛いが可愛いレイニースタイルである。何だこいつ、妖精かよ。



「いやー、この湿気に心にまでカビ生えそうだなーと思って。雨は嫌いじゃないんだけど、ジメッとするとイラッとするんだよね」


「わかりますー。あたしも暑いとか寒いとかは全然平気なのに、今のシーズンだけは登校にも下校にもムシャクシャするから、道中はずっとザマァBLを妄想して凌いでますよ。当て馬にチンチラに負けヒロインにクソザコモブ、もうまとめて百人以上は余裕で断罪しましたねー」


「百人ってすごくない!? この雨が明けるまでには四桁いきそうじゃん!?」


腐腐腐フフフ……千人斬り目指して、今日も精進しますよ! ではクラティラスさん、また明日!」



 ニヤリと極悪な笑みを浮かべてみせると、リゲルは雨の中を駆け出して行った。家が遠いにも関わらず、彼女はどんな天候でも毎日徒歩で通学しているのだ。


 しかしえらいワイルドだよなぁ……傘もなしに、レインコートだけで突っ走ってくんだもん。そりゃ攻略対象に傘を貸すよって差し出されても、イラネってあっさり突っ撥ねるよね。相合傘に持ち込みやすくするための後付け的な設定だと思ってたけど、本当に傘は持たない主義だったとは。



「あれ、クラティラスさん。一人でどうしたんです?」



 すると微妙なタイミングでその攻略対象の一人、イリオスが現れた。


 もうちょっと早く来てくれたら、リゲルを相合傘に誘ってもらったのになー。どんな反応するか、見てみたかった。



「傘を忘れたから、迎えの車に取りに行ったステファニを待ってるの。二度手間になるからいいって言ったんだけど」


「そうはいかないでしょう。あなたは一応の一応、一爵令嬢。おまけに一応の一応の一応の一応、この国の第三王子の婚約者なんですから。風邪なんか引かれたら、ステファニの肩身が狭くなるじゃないですか。相変わらず考えなしですねー」



 事情を説明すると、イリオスは靴を履き替えながら嫌味ったらしい言葉を返してきた。


 こんなにも無駄に丁重な扱いを受けるようになったのは、その一応の一応の一応の一応の婚約者が最も影響してると思うんですけどね!



「…………入っていきます?」


「へ?」



 不意に問われ、私は間抜けた返事を返した。



「傘ですよ。門までは一直線だから、ステファニと入れ違いになることはないでしょう。すれ違わなければ、車まで送ります。一応の一応の一応の一応、婚約者なんでー」



 嫌そうに眉を顰めながら、イリオスが折り畳み傘をバッグから取り出してみせる。


 何だよ何だよ、顕微鏡で調べても見えないくらい極稀にだけど良いとこもあるじゃん!



「あざーっす! 超助かる! 早めに帰って仕上げたいイラストあったんだよねー!」



 私が威勢良く感謝の言葉を告げた、その時だった。



「クラティラス先輩!」



 軽やかな声が、名を呼ぶ。今年は新入部員が一人も入らなかったので、この呼び方をする者は一人しかいない。



「トカナ? どうしたの、三年生の昇降口に来るなんて」


「雨が弱まるのを待っていたら、クラティラス先輩の声が聞こえたので」



 私の問いかけに、唯一の後輩であるトカナは眼鏡の奥にある藍色の瞳を笑みの形に細めた。


 今日も『花園の宴 紅薔薇支部』にて部活動という名のBL萌え語りに励んでいたので、彼女と帰る時間が被るのはおかしくはない。しかし、一年生と三年生の昇降口はやや距離がある。私の声がデカすぎたせいか、それともトカナにとっては『憧れの先輩』だから僅かに届いた声音を聞き付けて来たのか……できたら後者であってほしいものだ。



「ちょうど良かった。今日中に渡したいと思っていたのに、うっかりしてたんです。次の部誌に載せるコラムなんですけど」



 そう言ってトカナはバッグを漁り――そしてがっくりと細い肩を落とした。



「ご……ごめんなさい。忘れたのを忘れてました……!」



 な? この子、肝心なところでアホなんよ。このアホなところが、本当に可愛いんよ。



「いいわよ、まだ締め切りまで時間はあるんだから気にしないで」


「うう……早めに仕上げて、先輩に校正していただきたかったのにぃ」



 私がドンマイしても、トカナは俯いて情けない声を上げるばかりだ。


 はー、可愛い。こんな後輩に恵まれて幸せ。イリオスの白百合支部はウチと違って、今年は豊作で五人も入部したらしいけど全然悔しくないわー。人数が多くたって、ここまで可愛い子はなかなかいないだろうからね。量より質よ、質。



「トカナ、雨が弱まるのを待っていると言っていたけれど帰りは徒歩なのかしら? 傘はある?」



 ふと、トカナが長靴を履いているにも関わらず、バッグ以外に何も持っていないことに気付き、私は尋ねてみた。



「あ、迎えが近くまで来るので。ぱっと走っていけば、傘なんてなくても大丈夫です」



 トカナの家は貴族階級に属してはいないものの、庶民の中でもかなり裕福だと聞いている。アステリア王国王位継承順位第一位の第一王子、ディアス殿下に昨年嫁いだアフェルナ妃殿下は五爵家出身だが、爵位があるとはいえ貧しく、財力の面ではトカナの実家であるヴラスタリ家の方が上なんだとか。


 なので庶民の娘とはいえ、お迎えの車を寄越されるレベルなのだ。



「ダメよ、風邪を引いたらどうするの」



 自分のことは棚上げして、私はトカナに先輩らしく注意をした。


 とはいえ私も傘は持ってないんだよな……あ、そういえばこの場に一人だけ持ってる奴がいるじゃん。



「イリオス、トカナを傘に入れていってあげてよ。私はステファニがその内に戻って来るから平気だし」


「ヒェッ!?」



 奇声を発したのは、トカナだ。


 イリオスが、私とトカナを交互に見る。


 一応の一応の一応の一応で王子であらせられる御方にジロジロ見られたせいで居たたまれなくなったのか、トカナは真っ赤になってまたもや俯いてしまった。

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