腐令嬢、キスされる


 お兄様が、足を止める。

 まだ根雪の残る石畳のアプローチには、月が落とす影が黒く濃く伸びていた。それにお兄様が飲み込まれてしまう気がして、私は走り寄った。その勢いのまま、いつのまにか大きく広くなっていた背中に縋り付く。



「お兄様、どうしてなの? どうして一人で行ってしまうの? どうして何も言ってくれなかったの? 私達のことが、嫌いになったのですか?」


「……嫌ってなどない。むしろ、お前達のためなのだ」



 抱き付いた背中越しに耳に届いた声は、心なしか震えているように聞こえた。



「どうしてお兄様がいなくなることが、私達のためになるの? お父様もお母様も、お兄様のことを愛してる。だからヴォリダなんて危険な場所に行かせまいとしているのよ? お兄様が留学したいという気持ちを、蔑ろにしているわけじゃないわ」



 お兄様の羽織るジャケットからは、嗅ぎ慣れない香りがした。

 これがプラニティの香りなのか、家を出てから新たに購入した服だからなのか、洗濯洗剤が変わったせいなのか、それはどうでもいい。お兄様から知らない匂いがすることが、この上なく嫌だった。なので、私はマーキングする勢いで顔を擦り付けた。



「クラティラス、離れてくれ」



 お兄様が静かに告げる。ジャケットに顔を押し付けたまま、私は駄々っ子のように首を横に振った。



「嫌よ、離さない! 行かせないわ! 私だって、お兄様を愛してるんだもの! お兄様には、絶対に幸せになってほしいんだから!」


「……それが耐えられないと言っているのだ!」



 荒々しく叫ぶや、お兄様は私を振り解いた。



「いい加減にしてくれ! もううんざりなのだ! お前の顔を見ているだけで、苛々する! 幸せを願われるなど反吐が出る! お前の口から愛してるという言葉だけは、死んでも聞きたくない! 何故それがわからぬ!?」



 両肩を掴んで激しい怒りをぶち撒ける兄を、私は呆然と見つめていた。揺らされる振動で、涙が零れ落ちる。それでも、何も言えなかった。悲しくて悲しくて、声も出なかった。



「クラティラス……」



 妹を泣かせたことに初めて気付いたように、お兄様が悲しげに眉を寄せる。その顔がどんどん大きくなっていったのは、お兄様が近付いてきたからで――――そう理解した頃には、くちびるが触れていた。


 何が起こったのか、何をされているのか、全くわからなかった。


 けれど、これに似た経験をしたことを、停止した思考より早くくちびるが思い出した。


 でもあれは、事故で。ノーカンで、私は清らかで。そう言ったのは、イリオス。蘇る、血の味。なのに今は、何の味もしない。


 くちびるに残る朧気な記憶がやっと脳に繋がった瞬間、全身に鳥肌が立った。



 私、キスされている――――お兄様に!



「お兄様、やめ……!」



 制止の声は、さらに強く重ねられたくちびるに吸い込まれた。


 これは、イリオスの時と違って事故じゃない。お兄様は自分の意思で、私にキスしている!


 必死に藻掻いても、お兄様にしっかり抱きすくめられ、まるで抵抗できない。窒息しそうな息苦しさの中、頭に浮かぶのは疑問符のみだった。



 何で、何で何で何で何で何で!?



 不意に、お兄様の腕が緩んだ。逃げようとしたけれど腰が抜けて叶わず、私はみっともなく尻から石畳の上に崩れ落ちた。



 振り仰いだ視界に飛び込んできたのは、顔を歪めて膝を折るお兄様。

 そして、その背後には――――月の光を受けて透け輝く銀髪の下、凄絶な憎悪に燃える紅の瞳があった。



「何を、しているんですか」



 ぞっとするほど低い声音で、イリオスが問う。

 お兄様は答えない。するとイリオスは、再び口を開いた。



「もう一度蹴り飛ばされないと、答えられませんか? それとも人の言葉が理解できないんですか? このケダモノが」



 冷ややかに吐き捨てたイリオスに、今度はお兄様が掴み掛かった。



「貴様に何がわかる!? 私がどれほど望んでも手に入らぬものを、いとも容易く得た貴様などに!」


「ダメ、お兄様! イリオスに手を出したら……!」



 力が入らない足を叱咤し、私はお兄様のジャケットを掴んで止めようとした。


 イリオスの中の人、江宮えみやは極度の接触嫌悪症なのだ。しかも今はキレ散らかしている。この状況で下手に触れれば、いつかのヤンキーみたいにチビらされかねない!



「うるさい、お前は黙っていろ!」



 けれどお兄様にあっさり振り払われ、私はまたもや石畳に尻餅をついた。



「クラティラスさん、大丈夫ですか!?」



 お兄様の拘束から逃れ、イリオスが駆け寄ってくる。ケツは痛いが、二人を引き剥がすという目的は達成した。


 良かった、うっかりお兄様が素手で殴りでもしたらどうなっていたことか。ブチ切れた江宮に、マジで殺されてたかもだよ。それでなくても反逆罪やら不敬罪やらで普通にアウトだ。


 安心して溜息をついた私とイリオスは、くぐもった音声に気付いて同時に顔を上げた。


 それは、お兄様が漏らした、どこまでも暗い笑い声だった。

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