兄妹暗雲模様

腐令嬢、震える


 舞い落ちる雪が世界を白銀に塗り替えた頃、アステリア王国は新たな年を迎えた。


 サヴラとの約束は反故になったものの、お兄様は毎年恒例だったパスハリア家の宴には赴かなかった。なので、久しぶりに家族揃っての新年だ。

 しかしサヴラの件で一時的に言葉を交わしたけれど、私とお兄様は結局口も聞かなければ目も合わせないという状態に戻っていたので、気まずいことこの上なしだった。


 加えて、サヴラのお見舞いに行ったあの日以降、私がお兄様を変に意識してしまうようになったというのも気まずさに拍車をかけた。


 そんな自分が気持ち悪くて、せっかくお父様が張り切って杵で餅をついてくれたというのに五個しか食べられなかったよ……あ、お雑煮は別腹です。


 冬休みの間も、なるべくお兄様と顔を合わせないように外出した。部活を理由にほぼ毎日学校に出向き、ステファニと個室完備の王立図書館で勉強し、また来年に迫る社交界デビュー――通称デビュタントなるイベントに向けてダンスの特訓に勤しんだりして、休みなのに休む間なく日々を過ごした。


 お兄様とサヴラが、あの後ちゃんと話し合ったのかはわからない。が、まだ婚約解消には至っていないらしい。


 二人が別れなければ、お兄様はリゲルの攻略対象から外れる。デスリベのように、ゲームとは違った未来があるのかもしれない。



 それを密かに期待していた私だったが――――ここへ思いもよらない話が持ち上がった。


 明日から三学期が始まるというその日、お兄様がいきなり新年度からヴォリダ帝国に留学すると宣言したのだ。



 どうやら一人で勝手に決め、奨学金の申請から編入手続きまで済ませてしまったようで、お父様は怒るわお母様は泣くわ、飼い猫のプルトナは暴れるわネフェロは倒れるわで、レヴァンタ家は大騒動となった。




「へー、そうなんですか」



 例の音楽室で、いつもの作戦会議のついでにこの一件を打ち明けたのだが、イリオスの返答はこのように誠に素っ気ないものだった。



「そうなんですかじゃねーわ。そうなんですよ、こっちは一家離散の一大事なんですよ。お父様はお兄様を何時間も怒鳴ったせいで声が出なくなったし、お母様は泣きすぎて目が腫れてオバケみたいな顔になったし、プルトナはお母様の涙でビッチャビチャになったせいで風邪引いたし、ネフェロは寝込んで起きられなくなったし」



 私が懸命に家族の惨状を訴えるも、態度は変わらず。イリオスは無関心に相槌を打つのみで、全身からその話はもう結構ですというオーラを発していた。


 いやいや、一応は婚約者の家の話なんだから、もう少し親身になって聞いてくれてもいいでしょーが!



「ねー、ちゃんと聞いてよ。私だって、お兄様のことを心配してるんだよ? ヴォリダって、住宅街にもモンスターがうようよ出てくるらしいじゃん。アステリア王国と違って魔法が使える人も普通に暮らしてるそうだけど、それでも下手なとこ行ったら危ないって聞くし……やっぱり、止めるべきだよね?」


「行けば何とかなりますよ。仮にも一爵家の子息なんですから、受け入れ先も安全面には配慮してくれるでしょう」



 イリオスが眉を顰め、嫌そうに言葉を吐く。興味がないというより、聞きたくもないといった雰囲気だった。


 そういえば、イリオスにお兄様の話を振ったのは初めてかもしれない。


 脳裏に、お兄様を見るイリオスの冷たい目が蘇る。あれはやっぱり、気のせいじゃなくて――。



「イリオスって、お兄様のこと嫌ってるの?」



 思わず口にしたその瞬間、イリオスの表情が凍った。返事を聞くまでもなく、その反応が確かな答えだった。



「嫌ってません。どうでもいいだけです」



 目を逸らし、イリオスが椅子から立ち上がる。が、逃亡の気配を察知して、私がドアに立ち塞がる方が早かった。



「嘘つくな。何でなの、嫌うほど接点もなかったよね?」


「生理的に苦手なだけです。僕が誰を嫌おうと、あんたには関係ないでしょう!」



 そうだ、誰だって生理的に受け付けない相手はいる。けれど声を荒らげるのは、冷静さを失っている証。自ら嘘だと白状しているようなものだ。



「関係あるわ。私のお兄様だもの」



 クラティラスらしく胸を張り、私は毅然と言い放った。



「自分の婚約者が兄を嫌うことを憂うのは、当然でしょう。理由があるなら知りたいと思うのも」



 私の言葉は、ここで途絶えた。

 イリオスが張り倒さんばかりの勢いでドアに手を付き、至近距離に顔を寄せてきたために。



「知らなくていいと言っているでしょう。余計な詮索をしないでください」



 動けなくなったのは、怒りの滲んだ静かな声音に圧され、目の前で冷たく燃える紅の瞳に射竦められたせいばかりではない。


 知らなくていい――この言葉に、閃くものがあったからだ。



「もしかして…………『私が知らなくていい』未来に、関係があるの?」



 質問には答えず、イリオスは一切の感情を排除した無表情で私の制服のポケットに鍵を押し込むと、そのまま音楽室を出て行った。慌てて私も部屋を出て追いかけようとしたけれど、遠退く背中から発せられる凄まじい拒絶の気に戦意を失い、結局問い質すことは諦めた。



 けれど、これだけは間違いない。

 イリオスは、お兄様を嫌っている。そしてその理由は、『私の死後の未来』に由来している。



 子どもも楽しめる乙女ゲームの続編は、戦記物に分類されるライトノベルだという。私が死んだ後、恐らくこの世界は大いに荒れるのだろう。その内容を知るのは、この世界では江宮えみやのみ。どれだけ聞いても、彼は『知らなくていい』と突っ撥ねるばかりで、何が起こるかは頑なに話そうとしなかった。


 それでもたった一つ、教えてくれた事実がある。クラティラスは自害に見せかけ、暗殺されるということだ。



 そんな彼女推しの江宮が、あれほどまでにお兄様を嫌うのは。



「私を殺すのは、お兄様……?」



 誰もいない音楽室で、密やかに呟いたその言葉が、ひどく不気味な響きで鼓膜を揺らす。聞き慣れたはずの『クラティラス』のボイスが、自分のものではないかのように感じられ、私は震えた。


 音声として明確に認識したせいで、疑惑は耳からじわりじわりと内側に食い込み、全身を侵食していく。


 このまま腐食していくような後味の悪い余韻は、いつまでもいつまでも私の中から消えることはなかった。

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