腐令嬢、不知を知る


「ねえ……だからそれ、誤解なんだって。お兄様が好きなのはサヴラであって、私じゃないんだって。何で理解してくれないかなぁぁぁ?」



 するとサヴラは、やけに静かな声で問い返してきた。



「あなたこそ、どうして『あたくしが誤解している』と思うの? 何故『自分は間違っていない』と言い切れるの? どうせあなたも、ヴァリティタ様御本人に確認したわけではないのでしょう?」



 ざっくりと、心臓を刺された心地がした。勝利を確信している中、表と裏が引っ繰り返され、一気に劣勢に追い込まれるオセロはこんな気分なのだろうか。


 サヴラの言う通りだ。お兄様の心は、まだはっきりと確かめてはいない。けれども。



「か、確認するも何も、私とお兄様は何年も口を聞いていなかったのよ? あなたがお兄様と婚約した日からね。それこそ、お兄様があなたを好きだという証拠じゃないの!」



 声が荒ぶったのは、動揺したせいだ。証拠と言いながら、自分でもわからなくなっていた。疑い始めると、もうキリがない。


 わからない。わからないことをわからないまま、わからずにわかり合おうなんて無理だ。それでも、止まらなかった。



「お兄様は、サヴラに向けるような笑顔なんて私には向けてくれなかった! 目も合わせてくれなかった! あんなに大切にされておいて、何故私を理由にしてお兄様を捨てようとするの!? おかしいよ、自分だってお兄様のことを好きなくせに!!」


「…………好きだからこそ、よ」



 涙目で叫ぶ私に、サヴラは小さく呟いた。



「こんな男、と最初は侮っていたわ。けれどヴァリティタ様は、他のどんな人よりも優しくてあたたかくて、あたくしがどれだけ冷たく接しようと、どれだけ厳しい言葉で侮辱しようと、変わらず接してくださった。気が付けば、あの人はあたくしの心の支えになっていたの。この冷たく広い世界で、あの人だけが、あたくしの心に寄り添ってくださったの」



 彼女が浮かべた薄い微笑みは、お兄様が見せたものと同じであらゆる感情を包み込んだ、大人の表情だった。



「好きになると、相手のことが見えなくなるなんて嘘よ。無理矢理、見ないようにしているだけ。見ないようにするということは、裏を返せば見えているからなのよ。あたくしもそうだった。見ないようにして、この人は自分を愛してくれているのだと信じようとして……でもダメだったわ。側にいるだけで、ヴァリティタ様の心の声が聞こえるの。耳を塞いでも、ずっと聞こえ続けるの」



 クラティラス、クラティラス、クラティラス、クラティラス。



 謳うように私の名を幾度となく呼び、サヴラはまた微笑んだ。



「でも……そうね。あなたと同じで、あたくしだってまだヴァリティタ様に本心を聞いていないのよね。決めるのは、その後でも遅くないわ」



 呆然と彼女の顔を見つめるばかりだったが、私はそこで最大の勘違いを正さねばならないことを思い出した。



「サヴラ、あなた一番肝心な部分をスルーしすぎじゃない? お兄様が私を愛しているのは、妹だからよ? 今だから打ち明けるけど、あの人、昔からすんごいシスコンだったのよね。それでも私が婚約した時は、すんなり受け止めてくれたわよ? なのにサヴラの言い草だと、まるでお兄様が実の妹に禁断の恋をしてる変態みたいじゃ……」

「ヴァリティタ様を愚弄しないで!」



 そこでサヴラは初めて声を荒らげた。



「彼を貶めることは、あたくしが許しませんわ! 誰よりもあなたにだけは言われたくない! 何も知らずにぬくぬくと笑っていたあなたにだけは!」

「え、何も知らずにって何?」



 彼女の鋭い剣幕に圧され、私は反射的に尋ねた。が、サヴラはすぐに俯き、私から目を逸らした。



「ヴァリティタ様は……何か、仰っていなかった?」



 正直、この状況で告げるのは躊躇われた。けれども、兄の依頼を受けてやって来たのだから、伝えないわけにはいかない。



「すまなかった、って。お兄様はあなたに、それだけは必ず伝えてほしい、と」


「そう………わかったわ」



 サヴラは溜息をつき、口角を再び微笑みの形に持ち上げようとして――くちびるを震わせたかと思うと、泣き崩れた。



「もう、行って……お願いだから、一人にして」



 こう言われては、去らないわけにはいかない。


 渋々立ち上がり彼女に向けた背に、か細い声が投げかけられた。



「クラティラス…………ありがとう」



 何に感謝されているのか、私には全く理解できなかった。けれども私が振り返ることなど望んでいないだろう。それくらいはわかった。



 彼女の望みに従い、私は無言のままサヴラの部屋を出ていった。




 家に帰宅しても上の空で、私はお兄様にお見舞いの成果を報告することもせず、疲れたからと言って部屋に引き篭もった。夕食も部屋に運んでもらって一人で食べた。


 すまなかった。


 あの一言でサヴラは、悟ったんだろう。お兄様は同じ場所にサヴラがいることを知りながら、妹の方を選んだのだと。


 でもそれは、私が第三王子殿下の婚約者だからだ。大切な妹だからという以上に、レヴァンタ家の名誉を守らねばならないと思ったからだ。そうに違いない。



 けれど…………『何も知らずに』って何?


 サヴラは何かを知っている? 私の知らないお兄様の秘密を、彼女は知っている? そのせいで、サヴラがあんな誤解をしている? だとしたらそれは一体――。



『何故、自分は間違っていないと言い切れるの?』



 サヴラの声が、思考を止める。


 私が、間違っている? 誤解しているのは私の方で、サヴラが正しい……?



「…………そんなこと、あるわけないじゃん!」



 思わず叫んで、私は作り置きしてあったなぐリオス人形に拳を叩き込んだ。ぎっちり綿を詰めて頑丈に仕上げたので、殴っても殴ってもイリオスぐるみは素知らぬ顔をして元通りに戻る。


 その様が、どんな罵詈雑言も平然と受け流す江宮えみやを思い出させた。


 いつだったか、前もこんな気持ちでいっぱいになった覚えがある。


 あのキモブスオタ眼鏡に、この鬱屈した胸の内を全部ぶち撒けたかった。奴なら、意味不明に八つ当たりしても『はいはい、ウルのBL脳は相変わらず腐ってますな〜』と嫌味ったらしく笑って、適当にいなしてくれるだろう。それができれば、少しは元気になれる気がした。


 イリオスに会いたい。正確にはイリオスじゃなくて、江宮に会いたい。


 うう……自分でもどうかしてると思ってるよ。でも溺れる者は藁をも掴む、悩めるウル腐はオタイガーをも頼るなんだよ!



 その夜はBL絵を描く気にもなれず、鬱々とした気持ちを抱えたまま早々と眠った。

 翌朝には多少気持ちは回復したけれど、やっぱりお兄様に直接会う勇気は出なくて、サヴラの様子について記した手紙を書き、それをネフェロにお願いして渡してもらった。


 しかし彼女が婚約破棄を申し出たこと、そしてお兄様の想い人を巡って言い合いしたことについては書かなかった。

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