腐令嬢、悪魔と再会す


 同じ屋根の下で暮らしているものの、お兄様と会うのは体育祭以来初となる。足を動かせないため、食事も自室で済ませていたから、顔を合わせる機会が全くなかったのだ。


 そして、お兄様の部屋に入るのはおよそ二年ぶりとなる。


 深呼吸してからノックをして名乗り、入室の許可を得ると、私はドアを開けて中に入り――即座に悲鳴を上げた。



「おひょう!?」



 ――――悪魔みたいな怖い顔がデデンと織られた、クソほど趣味の悪いラグマットに出迎えられたせいで。



「ああ、そうだった。先に注意をしておくべきだったな。そのラグマットはお母様が気に入って購入されたそうなのだ。しかしお目当ての場所に設置できず、私の部屋で使われることになったらしい」



 私が何を見て驚いたのか、すぐに察してくださったらしい。奥のベッドルームから、お兄様の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。



 うん、知ってる……。これをお兄様に押し付けた犯人は、私だもん。

 だけど重ね重ねごめんなさい。お詫びにこれを引き取るなんて、やっぱり無理。何度見てもキモ怖すぎるわ!



 悪魔の顔を踏まないようにラグマットを飛び越え、私はベッドルームに向かった。


 キングサイズのベッドの上にいたお兄様は、上半身を起こした状態であるかなしかの微笑みを浮かべていた。真白のシーツと純白の寝間着が、やや乱れた黒髪と鋭く冴えた蒼い瞳をより強く際立てる。少し窶れ気味の表情と、シーツから覗く包帯の巻かれた足が痛々しい。


 はー……イケメンの病み姿って本当に美味しいな。ご飯何杯でもいけるわ。何なら生米一升丸飲みできそう。


 って、見惚れて妄想してどうする!? この萌えをスケブに叩き付けるのは後だ!



「あの……お兄様、ごめんなさい。私のせいで、こんな目に遭わせてしまって」



 自分を助けたために骨折したこと、ついでにラグマットの件も含め、私はまず謝った。



「気にするな。私が勝手にやったことだ。お前は、大切な存在なのだからな。第三王子殿下の婚約者としても、それにこのレヴァンタ家にとっても」



 しかしお兄様は力なく笑い、私の謝罪を受け流した。


 レヴァンタ家にとってというなら、お兄様も私と同じくらい、いいや、むしろ跡継ぎとして私以上に大切な存在だ。自分にとって、と言わずに家の名を持ち出してきたのは、婉曲な嫌味なのだろうか?



「とにかく、お前が無事で良かった。それで話というのは……サヴラ様のことなのだ」



 真意をはかりかねていると、お兄様は私も気にしていた人物の名を口にした。



「お父様にお願いして、パスハリア家に連絡をしていただいたのだが、いまだ病床に伏せっておられると聞いた。そこで身動きの取れない私の代わりに、お見舞いに行ってもらいたいのだ。お前は、彼女と親しいのだろう? 同じ部活動にも所属しているというし」



 一にも二にもなく、私は頷いた。


 親しくはないし、同じ部活といっても奴は幽霊部員だし、何なら謂れなき理由で敵視されてるけど、このチャンスを逃す手はない!



「ええ、おやすい御用ですわ。彼女のことは、私も心配しておりましたの。私はこの通り元気ですから、了承を得られたらすぐにでも伺います」


「本当にすまない。こんな時ばかり虫の良いことを言う兄を、どうか軽蔑してくれ。しかし、お前以外に頼める者がいないのだ」



 お兄様が目を逸らし、俯く。私はその艶めいた黒髪に手を伸ばし、そっと頭を撫でた。



「軽蔑などするはずがないわ。お兄様が私を頼ってくれるなんて、とても嬉しいもの。お兄様のためなら私、何だってするわ」



 すると、髪を撫でていた手を掴まれた。握られた手首に、ぐっと力が込められる。


 やっべ、調子乗りすぎたか?

 ちょっとお願い聞いたくらいで勝手に触ってんじゃねーよって怒らせた?


 ああ、空気読めない距離梨みたいなことやらかしちゃったよー!



「クラティラス…………もう一つ、頼まれてくれるか?」



 痛いほどの力で私の手首を捉えたまま、お兄様が低く囁く。じわじわ増していく苦痛に眉を顰めつつも、私ははいと返事した。



「…………サヴラ様に、すまなかったと。一言だけ、伝えてくれ」



 そこでお兄様は、やっと手を放してくれた。解放された手首を擦りつつ、私は暗い表情で項垂れているお兄様に尋ねた。



「え、それだけでいいの? だったら手紙とか書いた方が良くない? つかその言い方だと変に誤解されそうだから、花でも贈った方がいいんじゃないかな? あいつ、イカした令嬢ぶってるけど割と単純だよ?」



 私の言葉を聞くとお兄様は深々と溜息を吐き出し、それから顔を上げた。




「お前は…………本当に変わらないな」




 そこで披露されたのは、この上なく切ない微笑みだった。


 子どもの頃によく見せた無邪気な笑顔でもなければ、サヴラに向けた優しさに満ちた笑顔とも違う。苦痛を堪えて大丈夫だと訴えるかのような、見ているこちらが心切られるような、痛くて悲しくて遣り切れない思いを笑みの形で包み隠した、そんな笑顔だった。



 初めて見る兄の表情に、私は打ちのめされた。



 この人はもう、私の知っているお兄様じゃない。ヤンチャで悪戯好きで、妹にちょっかいばかりかけてウザくて面倒臭くて、それでも大好きだったお兄様はもういない。お兄様は、子どもから大人になったんだ。レヴァンタ家の次期当主として、相応しい人物となるために。


 お兄様は、私を嫌ったわけじゃなかったんだろう。ゲームの影響がどうとか、そんなの関係なかった。私が子どもすぎて、気付けなかっただけだ。



 彼はサヴラと婚約した時に、レヴァンタ家を継ぐ覚悟を決めたのだ。そして私を妹としてでなく、『第三王子の婚約者』として扱うようになった。ただ、それだけのことだったんだ。



「…………サヴラ様のお見舞いの件は、お任せください。お父様と相談した上で日取りを決め、パスハリア家に伺ってまいります。お兄様は、どうかゆっくりお休みくださいませ」



 何とか言葉を絞り出して告げると、私は急ぎ足でお兄様の部屋を辞去した。



 ドアを閉めた瞬間、堪え切れず涙がボロボロ溢れた。



 ――わかっていたはずなのに。

 お兄様が大人になるなんて当たり前のことなのに。

 私のためを思って、相応しい扱いをしていただけだと理解したのに。



 それでも――――永遠にあの頃は戻って来ないのだと思い知らされると、やっぱり悲しい。悲しくて悲しくて、涙が止まらない。

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