腐令嬢、報告す
翌日、身を切る寒さを堪えてステファニと共に登校すると、いつも元気いっぱいなリゲルがドヨヨンと暗いオーラを纏っていた。挨拶にも笑顔にも覇気がない。
まさかクソノに変なことされたんじゃあるめぇな!?
……なんて皆の前では聞けないので、私は無言でリゲルのボブヘアをかき分けて首元を隈なくチェックした。
キスマークもなければ歯型もない。
えっちの印は必ずしも付けるものではないと前世で経験した友人から聞いたが、相手はリゲルにご執心だったクロノ様だ。彼女をゲッチュしたのなら、皆にひけらかしたくて『自分のものだよん!』と必ずや獣のようにマーキングするはず。なので今のところ、リゲルの身は無事と考えて良さそうだ。
柔らかなブラウンベージュの髪を持ち上げたまま、ほっと安心して吐息を落とすと――私の手で大人しくツインテールにされていたリゲルがそっと小さな声で私に告げた。
「クラティラスさん……例の件でお話があります」
こちらに向けられたのは、真剣な光を宿した金の瞳。
「ええ、放課後にゆっくり話しましょう」
私が頷けば、リゲルもしっかり頷く。
恐らく彼女も、真実を知ったんだろう。そしてそれは私と同じく、想像していたものとは大きく違って――。
「イリオス殿下? どうされたのですか! まさか、あの恐ろしきアステリエンザに……!?」
リゲルと物言わぬまま見つめ合っていた私は、ステファニの狼狽えた声で我に返った。
「いえ……ちょっと、調子が悪いだけです」
見ると、マスクをしたイリオスが席につくところだった。露出した目元だけでステファニに苦笑いをする彼に、私も慌てて駆け寄った。
「ど、どうしたの? 昨日は何ともなかったじゃん。ままま、まさか……改めて思い出したらやっぱりショックで、薬飲んで自殺未遂を図ったとかじゃないよね?」
こそこそ耳元で尋ねると、イリオスはぼそぼそと答えた。
「昨日切ったくちびるが、腫れて大変なことになってるんですよ。こんな目に遭わせた誰かさんが、リップバームを勝手に持っていったようでねぇ。帰ってすぐに新たなものを用意してもらったんですが、誤ってリップスクラブを持ってこられて……確認もせず塗り込んで死ぬような思いをしました」
至近距離からこちらを見る紅の瞳は、深く静かな怒りに燃えていた。ステファニには苦笑いでも微笑んでいたのに、婚約者差別もいいところだ。
どれどれ、とマスクを引っ張って中身を確認すると…………ごめん、申し訳ない。とても痛々しいことになってる。そこは謝る。
でも無理! 何これ、面白すぎる!
ちょうどくちびるの上下真ん中をざっくり切ったらしくて、めっちゃ腫れてんの。明太子みたいになってんの。なのに鼻から上はイケメンなの。イケメンなのに口元だけ残念すっ飛ばして明太子なの。イケ
だが、背後から心配そうに見守るステファニの手前、ここで笑うわけにはいかない。
腹筋をこれでもかと駆使して笑いの嵐を押さえ込む私を、イリオスは誰のせいでこうなったと言わんばかりに睨み付けていた。こっち見んな、腹筋死ぬ!
「そ、それは、グフッ、大変だったわね……っ、フヒョッ。わ、私の方はどこからか……ヌフェッ、に、入手したリップバームのおかげでこの通り、この冬一番のくち
吹き出すのを必死に堪え、私はゲームのクラティラス様と同様、ぷるっぷるのツヤッツヤなリップを見せ付け、ついでに口角を薄っすら上げた悪巧み中のクラティラスマイルまでサービスで披露して差し上げた。せめてものお詫びだ。
するとイリオスが、さっと目を逸らして俯く。
マスクのせいで顔色まではわからないけど、多分萌えてくださったんだろう。おし、これでチャラだな。
「クラティラス様、殿下のご様子は……」
満足してイリオスから離れると、ステファニがすかさず近付いて尋ねてきた。
「大丈夫よ、アステリエンザではないみたい。ただ喋るのも辛いようだから、今日一日はそっとしておいてあげましょう」
なるべく優しく微笑み、彼女の不安を拭ってあげてから――――私は大切なことを思い出した。
「よーし皆、席につけー。テストを始めるぞー」
教室に入ってきた先生が、答案用紙を配り始める。全身から血の気が引いた。
そうだ、今ってテスト期間中なんだった!
ヤバイ……昨日はリップケアに頑張って満足したせいで、テスト勉強するのすっかり忘れてたよーー!!
過去最低点を更新すること確定のテストを終えると、私はズンドコに落ち込む気持ちを振り払い、迎えに来た護衛にステファニを託した。昨日に引き続き、今日も一人で先に帰ってもらわなくてはならないので。
普段なら『二日もクラティラス様をお一人で残すなんてできません!』とごねたかもしれない。けれどそのステファニは、お昼から魂が抜けたようになっている。
ランチを辞退しようとしたイリオスに『そんなことでは良くなる病も良くなりませんよ!』っつって掴みかかって、無理矢理何か食べさせようとマスクずらして……見ちゃったんだよね、あの可哀想な顔を。
ごめんな、ステファニ。
愛しの殿下の麗しい美貌を、百年の恋も冷めるレベルのブッサイクにしちゃって。顔に惹かれたわけじゃないにしたって、あの無残な面にはショック受けたよな。
だけど数日もすれば元に戻るから……そこだけは理解してあげてほしい。
昇降口からステファニの見送りを終え、お次に向かうは旧校舎にある紅薔薇支部の部室。扉を開けると、中にはリゲルが一人、電気も点けずに待っていた。
暮れなずむ西陽を受け、こちらを向いて物憂げに微笑む姿はひどく大人びて見えて――私は息を飲んだ。
出会ってから、およそ二年。ずっと可愛い可愛いとは思っていたけれど、美しいと感じたのは初めてだったから。
これは、まさか……恋?
恋したら綺麗になるっていうアレか? リゲルが誰かに恋をしてしまったというのか!?
「リゲ……」
「クラティラスさん、キスの味の報告です。せーのでいきますよ」
問い質そうとした私を遮り、リゲルは真顔に戻って結論を急いだ。
有無を言わせぬ圧を受け、思わず頷く。
リゲルはそれを確認すると息を吸い込み、せーの、と掛け声を放った。
「血の味!」
「焼肉のタレ味!」
リゲルの黄金の瞳が、私を見て固まる。彼女の目に映る私も、同じようにアイスブルーの瞳を見開いて固まっていた。
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