腐令嬢、流血す
「ないです。クリスマスに一度だけホテルに行きましたが、別々で寝ましたし」
「ホテッ!? ホテル!? 何で!? 何でホテル!?
しかし、私にとっては奴から飛び出たとんでもねー単語の方が重要だった。
だって、ホテルって
「
私の質問に溜息と共に答える頃には、イリオスの瞳からは先程まであった憎悪にも似た強い嫌悪の色は失せていた。代わりに、残念な子を見るような哀れみの視線を寄越してきやがったぞ。生意気な。
だがそれに文句を垂れるより、何故そんなことになったのかが気になった。
何というか…………美鈴、何でこんなもん好きになったんだ?
自分でホテル予約したってことは、こんなもんに初めてを捧げるつもりだったんだよね? 腐妄想すら不可能なキモオタイガーなんかを相手に、裸んぼでむんぎゅり抱き合って、アハンウフンとまぐわって、世界は二人のために的なロマンチックムードに浸りたい、と……。
想像するだけで気持ち悪くなり、口を押さえて吐き気を堪えていると、イリオスは天井を仰ぎ、呟くように言った。
「大神さんの反応が正常ですよ。僕だって、自分なんかとは絶対に付き合いたくありませんから。
その物言いが、私にはちょっとだけ引っ掛かった。
しかし何が引っ掛かったのか、わからない。
美鈴の想いをドライに捉えすぎてる?
それもあるけど、もっと何かこう、江宮自身が自分をひどく突き放してるというか……。
「この話はもういいでしょう。キスの味が知りたいなら、僕に頼るより自分で誰かとキスした方が早いんじゃないですかね?」
「
突然のフリに、私は椅子から飛び上がった。
「……といっても、今のクラティラスさんでは無理でしょうなー。そんなガッサガサのくちびるじゃ、相手の男も逃げますよぉ? 一応は一爵令嬢なんですから、お手入れくらいしたらどうですかぁ? ゲームのクラティラス嬢はくちびるも髪もお肌も美しくて、アップで見てもツヤツヤだったのに、今のあなたときたら」
「う、うるせーな! 令嬢でも冬はくちびるが荒れるの! ゲームとリアルを一緒にすんじゃねーよ!」
お前こそ、と言い返そうとしたが、見るとイリオスのくちびるは皮剥け一つなくツルンツルンだった。
聞けば、王室御用達の特製リップバームを使用してるという。式典やら何やらで人前に立つことが多いし、どこにいても注目されやすいから、王子としての品格を保つために細かな部分にも気を抜けないんだって。
「えー、そんないいもの持ってるの? 私にも一個譲ってよ」
「構いませんけど、念の為にテストした方が良いと思いますよ。肌に合わなくて、更に荒れたら大変ですからなー」
そこでイリオスがバッグから取り出したるは、いかにも薬品といった見た目の白い小瓶。売り物でもなければ表で使うこともないから、こんなにショボ……いえ、シンプルなんだそうな。
「へー、これが噂の王室御用達かー」
「待ってください! 直接指を突っ込まないでくれます!? このスパチュラを使って……」
さっと小瓶を奪って蓋を開けかけた私を止めようと、イリオスが立ち上がる。ところが、指もガッサガサだったもんだから手が滑り、そいつを落っことしてしまった。
「うわ、やべっ!」
「ちょっ……!」
割ってしまっては一大事と慌ててスライディングして追いかけたおかげで、王室御用達バームは何とか床に接触する前に受け止めることができた。
が、その代償に、イリオスが私の蹴倒した椅子に躓き、倒れてしまった。
着地先は、私の上。
「ぐえっ!」
奴の全体重を背中に受けた私は、間抜けな悲鳴を上げた。
「いってえな! てめー、ふざけん……」
「すみません、クラティラスさん! 大丈……」
ここで、いきなり振り向いたのがいけなかった。
心配して覗き込もうとしたイリオスと、私の罵声が重なる。
声だけでなく、くちびるも重なった。重なったというより、ガツンと盛大にぶつかった。
――――焦点も合わないほどの距離から見つめ合ったのは、ほんの一瞬だった。
イリオスが飛び退く。同時に、私も飛び下がる。
「…………今、当たった……? 口、に」
震え声で尋ねるとイリオスは口を押さえたまま、がっくり項垂れてボソリと零した。
「…………ゴツンからの、ガサッがきました。口、に」
それを聞くや、私は絶叫した。
「いやあああああ! ウソだあああああああ! 夢だ、悪夢だ、信じない! 十九年プラス十二年強、合計三十年以上待ってやっと迎えたファーストキスが、こんなクソみてーなことになるなんて! 信じない、信じられない、信じたくないーー!!」
「クラティラスさん、くちびるから血、出てます……」
「は!? 血? うおおおん、血いいいいいーー!!」
ぶつかった拍子に割れたようで、くちびるに触れた指には大量の血がついてきた。
ついでに、イリオスの方も血塗れである。あちらは頭突きならぬ前歯突きで、切れたらしい。
血を拭うこともせず、ただただ呆然とする彼は、こんな顔色が人間に存在するのかというほど真っ青だった。
流血して血の気を失ったせいではなく、人の肌に触れてしまったせいだろう。しかも、くちびるっていう繊細な部分だ。
どれだけ接触恐怖症を拗らせてるのかは知らないけど、今にも死にそうな顔をしている。
ヤベーぞ……このままじゃ、フラリと屋上から飛び降りかねない!
「え、江宮、大丈夫? 生きてる? その何だ、口当たったくらいじゃ死なねーって。な、だから元気出そ?」
自分のせいで王子が自殺なんてことになったら、それこそ処刑待ったなしだ。そこで私はショックを堪えて、仕方なく慰める側に回った。
イリオスは小さく頷き、ゆらりと緩慢な動作で立ち上がった。
「と、とにかく、クラティラスさんも血を拭いて……うがいしに行きましょう……。徹底的に洗浄して……忘れましょう……」
「う、うがいな! オッケー、わかった!」
幽鬼のようにフラフラになっているイリオスに半ば強引に促され、私もガラガラペッペペとうがい洗浄作業に勤しんだ。
うがい薬を二人で丸々一瓶使い、心ゆくまで洗浄し終えると、イリオスもやっと落ち着いたらしい。
「今日のアレは事故なので、経験値にはノーカンです。だからクラティラスさんのくちびるは、まだ清らかなままです。いいですか、ノーカンですぞ? クラティラスさんは清らか、ノーカン、清らか、ノーカン、清らか……」
思い出したように詫び倒した後、彼はさらにこのようにしつこく念を押し、ついには私まで復唱を求めてきた。仕方ないから、それにも付き合ってやったよ。
二人でノーカン清らかを無限リピートしながら昇降口に向かい、ノーカン清らかと口ずさみつつ靴を履き替えると、我々は『また明日』『ごきげんよう』と挨拶する代わりに『ノーカン!』『清らか!』と合言葉みたいに言って別れた。
家に帰った私は、ボロボロになっていたくちびるの皮を綺麗にこそげ落として剥き取り、返し忘れて持ち帰ってしまった王室御用達バームをたっぷり塗っておいた。
よし、これで間違いなくノーカン清らかだ!
けれど――――前のくちびるの皮に触れた味と感触は、ちゃんと覚えている。とても忘れられそうにない。
うむ……明日、リゲルに報告せねば!!
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