腐令嬢、癒される


 ところが数時間後。前世でも現世でも、一度眠ると耳元に雷が落ちても起きないと言われるほど寝汚さに定評のある私が、真夜中に目覚めた。


 するとゴゴォォォンン、と恐ろしい地響きが!


 驚いて跳ね起きてみれば何のことはない、それは夕飯を食べ損ねた我が腹の悲鳴だった。


 時計を見ると、日付が変わる寸前。こんな時間じゃ、シェフはほとんど皆休んでいるだろう。下拵えや皿洗いをする役割のスカラリーメイドはまだ働いているかもしれないが、彼らに迷惑をかけてはいけない。



 寝直そうとしたものの、腹は鳴る鳴るいつまでも。腹は減る減るどこまでも。



 目を閉じて寝返りを打ってを繰り返し、自分を騙し騙しやり過ごそうとしたけれど、一時間ほどで音を上げた。



 無理! お腹空いた! このままじゃ眠れない!!



 寝間着の上にガウンを羽織ると、私は部屋を出た。そしてそっと足音を殺し、一階のキッチンに向かう。


 狙うは、夕食の余り物。もしくは、朝食用に準備された食物。


 わかってる、盗み食いなんて令嬢としてあるまじき行為だ。でも我慢出来ないんだ。理性じゃ止められないこともあるんだよ……性別に苦悩しつつも求め合わずにはいられない、攻めと受けみたいに。



 キッチンスペースは、家事使用人達が暮らす側にある。さすがにこの時間になればもう誰もいないだろうと思っていたのに、厨房からは光が漏れ出ていた。


 さて、その仕事熱心な奴は誰なのかと内部を覗き込んでみたら。



「…………ネフェロ?」



 木箱を椅子にし、調理台にもたれて眠っていたのは――いつもの執事服ではなくコックコートを纏ったネフェロだった。



 私は慌てて彼に駆け寄り、肩を揺すって起こした。こんなところで寝ていては、風邪を引いてしまうかもしれない。それに見付かったら、アズィムとヘッドシェフに間違いなく怒られる。



「ん……ああ、すみません。うっかり眠ってしまいました。クラティラス様が、あまりにも遅いものですから」



 長い睫毛をゆるゆると開き、美しい翠の瞳を私に向けると、ネフェロは力なく笑った。寝顔も寝惚け顔も素晴らしくイケメンで大変に美味である。



「萌え……じゃなくて、遅いと言われても約束なんかしてないわよ?」



 尋ねると同時に、私のお腹がグォォンと鳴った。だって、厨房内にものすごく美味しそうな香りが漂っているんだもの!



「約束などせずとも、クラティラス様は来てくださったではありませんか。お腹が空いたのでしょう? ちゃんと用意してありますよ」



 ネフェロはそう言ってまた微笑むと、オーブンを開いた。


 取り出されたるは、チーズとハムと緑野菜のケークサレ。私の好物の一つだ。



「も、もしかして……私がお腹を空かせてここに来るって、わかってたの?」



 目の前に置かれたそれに胃袋が刺激され、ドバドバ分泌されるヨダレを飲み込みつつ、私は恐る恐るネフェロを見上げた。


 ネフェロがふっくら焼き上がったケークサレを切り分けながら、優しく頷く。それからカトラリーを並べると、木箱に座るよう私に促した。



「バレたら二人共怒られますので、ここでお召し上がりください。皆には内緒ですからね?」



 人差し指をくちびるに当てて軽くウィンクする様は、悪戯っ子を嗜める大人……というより悪戯を企む子どもそのものという感じで、私はうっかり笑ってしまった。



「やっと笑ってくださいましたね」



 ネフェロが私の頭に手を乗せる。イケメン奥義、アターマ・ポンヌポンヌだ。



「私がこの家に来て間もない頃を思い出します。クラティラス様が私に初めて笑いかけてくださったのも、今と同じ状況でした」



 フォークで口に運んだケークサレを噛み締め、その味が広がると――私の脳裏にも、当時のことが蘇った。



 彼がアズィムに連れられてレヴァンタ家にやって来たのは、私が大神おおかみ那央なおの記憶を取り戻す数ヶ月前だった。


 ゴミ漁りをして飢えを凌いでいる彼を見兼ね、数年前にアズィムの奥様が拾って世話していたそうだ。けれど私には、彼が元浮浪者だったようにはとても見えなかった。


 紹介された彼は驚くほど美しく気品があり、誕生日パーティーで遠目に見たイリオス殿下以上に王子様といった雰囲気だったから。


 なので気恥ずかしくて、うまく打ち解けられなかった。今じゃ捨て去ったに等しいプライドが邪魔をして、ネフェロが優しく語りかけてきても憎まれ口を叩いて逃げるばかりだった。


 そんな時、私はお母様と派手に喧嘩をして、生まれて初めて『わからず屋のお母様と一緒に食事なんてしたくないわ!』と告げて夕飯を拒絶し、部屋に引きこもった。



 それから後は、今と全く同じ。


 空腹に耐え切れず起きてきた私を、こうしてネフェロが好物を用意して迎えてくれたのだ。



 王子様は、絶対にこんなことしない。コックコートを着て、食事を作る王子様なんていない。それに、こんな夜中につまみ食いしに来る令嬢も。


 そう思うとおかしくておかしくて、ネフェロへの気持ちが解けて笑ってしまった。


 幻滅したんじゃなくて、思いっ切り恥ずかしいところを見られて開き直っちゃったんだよね。



「あの時のことは言わないで。ビックリするやら恥ずかしいやらで笑うしかなかったんだから」



 二年前と同じ味がするケークサレを食べながら、私は笑おうとして――だけどあの時と同じようにうまく笑えなくて、代わりにボロボロ涙が零れた。



 ネフェロがそっと頭を撫でる。


 大切なものを慈しむような手付きに堪らず、私は嗚咽と共に吐き出した。



「お、お兄様が……、エミ……イリオス……っ、二人共、ひどいよぅ……。あんなに、仲良しで……っ、いつでも、話せるって、思ってたのにぃ…………嫌い、二人共、大っ嫌い……っ!」



 まるで意味のわからない言葉の羅列だったけれど、ネフェロは黙って静かに頷くだけで、何も言わず何も問わなかった。



 ああ、あの時もこうだった。

 私の気が済むまで愚痴を聞いて、ずっと側にいてくれた。



 大神那央としての人生を思い出す前の、想いの記憶が胸に満ちる。それは甘酸っぱくてほろ苦くて、くすぐったくて、でも心地良くて。



 そうか、そうだったんだ。


 ネフェロは私にとって……ううん、『クラティラス』にとって、初恋の人だったんだ。




 お腹が膨れると気持ちも落ち着き、スッキリとまではいかないにしろ、蟠っていたモヤモヤは少し晴れた。


 ネフェロはやっぱり癒しの神だわ!



「あ、あの……ネフェロ。今日のことは」



 食べ終わった皿を洗うネフェロに、私はおずおずと声をかけた。もしかしたら、気付かない内に変なことを口走ってしまったのではないかと不安だったので。



「ええ、誰にも言いません。クラティラス様がちゃんと歯磨きをして、しっかり眠ってくださるならね」



 振り向いた笑顔は、出会った時と変わらず……いや、出会った時よりも美しさに磨きがかかり、目に痛いほど絢爛で眩しかった。



「ありがとー! ネフェロ、大好きっ!」



 細い腰に背後から抱きついたのは、つい見惚れてしまったことへの照れ隠し。うん、初恋の人だと認識した瞬間、急に顔見るのが恥ずかしくなったんだよね。



「コ、コラ、泡が飛ぶでしょう! ほら、早く寝室に戻りなさい。私ももう眠らねば、明日の仕事に支障を来してしまうので、お部屋にはお送りはできません。途中でオバケが出ても知りませんからね」



 焦りながらも軽口を叩くのは、いつものオカンネフェロで――とても安心した。



「この家に、オバケなんていないわよ」


「おや、聞いたことがないのですか? 他の使用人達の話では……」



 こちらに向き直ったネフェロが低く潜めた声で先を話す前に、私は慌てて厨房を飛び出した。


 聞きたくない聞きたくない聞きたくない!



「おやすみなさい、クラティラス様」



 背後から笑い混じりの挨拶が投げかけられる。仕返しに、からかわれたらしい。



 そうとわかっても、とても引き返して文句を言おうなんて気にはならなかった。


 だって戻れば、あの話の続きを聞かされるに決まってるもの!

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