第145話 過去に見る未来

 立ち尽くしたままイフレニィは、赤く染まる空を仰いだ。いつも、なるべく目に留めないようにしていた厄災の象徴を見つめる。あの日から、光の帯は空の果てまで翻っている。夕日の下でさえ、既に降る金の輝きが強まったようで、イフレニィは目を眇めた。自分達は、区切るものなどなかった空を知る最後の世代なのだと、思い知らされたようだった。降りしきる粉の一粒一粒に、バルジーの声に込められた想いの一つ一つが重なり、全身に浴びているような気分だ。それらはイフレニィの精神を、幾度も刺すように苛んだ。

 単純な同情からなどではなく、イフレニィ自身の奥底に眠る痛みに呼応してなのだろう。未だ、こうも苦しめるのかと、異変による影響の大きさに心は慄く。変えてしまったのは過去だけではなく、今後にも及ぶのだ。振りきれた者もいるかもしれないが、振りきろうと努めている者もいる。イフレニィは、そちらの側だ。しかし、女騎士のように、取り戻そうと足掻く者もいる。そして、バルジーは、立ち止まったままでいるのかもしれない。

 今は川原に蹲る姿を見下ろした。こんな風にバルジーの心は、十年前のあの時、あの場に縫い留められてしまっているのかもしれないと思えた。彼女の心の持ちようのためだけではなく、稀有な体験と、それを起こした精霊力のせいで。

 だからといって、たまたま旅に居合わせた赤の他人であるイフレニィに、何ができるわけではない。それを少しばかり歯痒くも思う自分に、意外なものを感じた。ただの旅の供というには、些か踏み込み過ぎたのだ。

 下手な慰めなど意味はない。全てを引き受ける気もなく手を差し出せば、共に沈むような類のものだ。ふと目が合ったセラにも、同じ無念が見えた気がした。

 だからイフレニィは、ただバルジーの隣に腰を降ろした。セラも反対側に座る。

「それでも、生きてきたんだろ」

 絶望した世界の中にいてさえ、自ら決断して村を出た。一人で苦しみを抱えて、ここまできたのだ。誰かが手を貸さずとも、バルジーは、それだけの生きる力を持っている。

「……うん」

 バルジーもセラも、どこかずれていて、それは自分にも当てはまるのだと思えた。そう素直に受け止めれば、これまでの、三人にとって無茶な旅にも意味があったように思えるのだ。

 イフレニィが告げた曖昧な理由を信じたバルジー。

 バルジーの訳の分からない精霊力が示している行き先に合わせたセラ。

 どこか歪だからこそ、完全になれる何かを夢見て、探し求めていたのかもしれない。そんなもの、ありはしないと分かっていてもだ。旅の間の、短い夢だ。

 これからも、イフレニィに出来ることなど、せいぜい精霊力の謎を追うために一緒に歩くことくらいしかない。

 肩を並べた三人は黙り込んで、最後の日を受けて赤く輝く川面を見つめていた。




 消えかけの火に、枝葉をくべる。定まらない視点でイフレニィは、火の粉を見下ろしていた。とても見張りとして役立っている状態ではないと自覚はしているものの、どうにも居たたまれない気分に支配されていた。

 バルジーの立場に置き換えてみれば、イフレニィの女騎士達への態度は、突き放し過ぎていると思えるものだ。それだけで彼らの一方的な押し付けに譲歩できるわけではないが、けれども誰かの信ずるものを悪し様に言う必要はない。

 感情と思考が、板挟みのような居心地の悪さをイフレニィに感じさせる。

 枝が爆ぜ、意識が焚き火へ向く。

 そこで自分自身の信念へと立ち返った。

 他人がどうあれ、イフレニィにとってトルコロル共王国は、振り返る気のない国だったのだ。クライブは、頑固なイフレニィの面倒を見てくれた。組合仲間や街の皆も、イフレニィが名前を覚えなくとも、そういった個性としてありのままを受け入れてくれた。だからこそイフレニィだって、少しでも認めてもらえるようにと、決して仕事で根は上げずにこれたのだ。

 ――コルディリーが、故郷で、それが本心だ。

 しかし、そこに至るのも、父の仕事があってのことだとは理解してもいる。

 そのせいで、国に残したまま別れた母のいた光景が、嫌でも甦った。

 父に嫁いできた城下町で、母が外出する姿を見たことはない。生まれ育った地の絵ばかり見て過ごしていた横顔だけが、最も目にした姿だろう。母の嘆く姿を見たことはないが、そんな生活では第二の故郷足り得なかったはずだ。それでも、いつか帰ることなども考えてはいないようだった。

 イフレニィにとっても、居心地のいい場所ではなかった。そのせいで認めたくないのだろうか。トルコロル共王国が、祖国なのだと。

 生まれ、幼少時代を過ごしたはずなのに、よく知らない国だ。

 異変後の記憶は曖昧だった。最近になって、思い出そうとすれば思い出せると気付いたが、必要に駆られるまでそうはしなかった。

 ずっと忘れようとしてきたのは、悲しみから逃れるためだと考えた。だが、そもそも、事実をなかったことにしようとしてきたのだと気が付いた。それでは、決して元には戻らないと分かっていて過去を取り戻そうとする女騎士らを、イフレニィが詰る資格はないだろう。

 子供の頃に見た忘れがたい悪夢であり、妄想の産物なのだと、自分自身に言い聞かせてきた。だが、実際に起きた災害だ。

 変異した回廊が脳裏に浮かび上がる。

 無かったことには出来ない。今度は、コルディリーにまで届かないとは言い切れない。

 そうなれば――イフレニィは、寒気が襲ったように外套を掻き合わせた。

 バルジーが見た光景を、次にはイフレニィが見ることになるかもしれないのだ。

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