第72話 雑念

 小さな格子窓から見えるのは、地面くらいのものだ。よく見れば薄明るい。光など見なくとも、いつものように自然と目は覚める。風に土埃が舞うのを見ながら出かける仕度をしていると、寝ぼけた頭に昨晩の会話が思い出された。

 新たな頭痛の種となりそうな、旅の行き先。

 このまま帝国内を巡るということで、ともすれば不安が湧き上がるのを抑えていた。

 荷物を確認していた手が止まる。

 ――なぜ、海を渡る話などした。

 二人で示し合わせたように。

 これまでも報告を兼ねた情報交換はしてきた。今日は何があった、どうだったと話すだけのささやかなことだ。

 今回のように、セラから明確な行動計画を聞かされたことは無かったように思う。些か唐突に思えた。まずは符の在庫を増やすと聞かされていた。旅立つとしても、まだ幾日か猶予はあるのだ。

 バルジーが何かしら話したことが理由なのは間違いない。あの女のことだ、どう話を通したかの方が気に掛かってくる。

 まさかセラの方にも、すでに同行するものと思われているのだろうか。

 それも、おかしなことではないだろう。バルジーがイフレニィの持つ情報に期待しているならば、どうにか説得したのかもしれない。毎回、イフレニィが同行を頼むときには渋るのだから、それだけで簡単に頷くとは思えなかったが、バルジーが押し切るような何かを告げたことはありえた。そう考えれば、わざわざ予定を聞かせたことに、深い意味はないのだろうか。単に早めに話して、この後どうするつもりか聞きたかったのかもしれない。

 出会ってから日も浅い。勝手に受けた印象で決め付けた性格なんてものを当てにしても、良いことはない。目的を確かにし、目の前のことから地道に取り組む。いつも通りに。

 頭がはっきりしてきたところで、宿を出る。

 依頼を受けた時に、鉱山入口前にある管理所に行くよう説明されていた。恐らく、その目的地だろう眼前にあるものは、どう見てもただの掘っ立て小屋だ。既に幾人かがその前に集まっていた。ほどなくしてイフレニィらは並ばされ、監督者に引率されながら簡単な説明を受ける。

 採掘自体は専従者がいる。旅人のような臨時雇いは、鉱石の運び出しが主な仕事で、合間のほとんどは掃除をして過ごしてもらう。慎重に岩の破片や屑をかき集め、なるべく散らさないよう、手押し車で運び出していくようにとのことだった。

 イフレニィは周囲に倣って端切れで鼻と口を覆って縛る。道具を渡され数人ずつで班を組むと、他は慣れている者ばかりらしく、迷いなく鉱山内部へと縦列で進んでいく。通路には縄で道を示しており、ところどころに火が掲げられ、わずかな視界を確保している。

 こういった仕事は、初めに気をつけていれば後は単調だ。だからこそ無心になれる、その感覚がイフレニィは好きだった。

 そのはずだった。

 気が付けば雑念が混ざり、意識が現実に引き戻されてしまう。あれこれと考えることも、思い悩むことも多すぎた。こんな生活をしていればしかたないのだろう、ことが片付くまでは我慢だと懸命に手を動かすのだが、やがて諦めた。

 どうせ雑念が邪魔をするならと、今朝気になったことに思考を委ねる。

 急な行き先の変更を聞かされたために、この街での残りの予定などを聞きそびれていた。符のことも。

 基本となる、たった一つの式とはいえ魔術式を覚えたことで、以前とは違う視点で気になっている。セラが符を作っているところを見学してみたいと思えるくらいには、興味が湧いていた。今となっては想像以上に集中する作業だと分かるし、邪魔ならば無理を言うほどではない。

 ただ、実際に他人が紡いでいる挙動を見ていれば、以前に暴発させてしまったようなことは防げるかもしれないと思えるのだ。浅はかだろうが、他に手もない。

 手持ちの、イフレニィが北の街で買った符。事情を知らずに、質が悪いなどと文句を付けていた。まさか原料の、市場へ流す総量が制限されているなどとは知らなかったのだ。苦労して遣り繰りしているだろう。あれでさえ、最低限の顔料で発動できるだけのものを大量に作っていたということなのだ。セラも酷い出来だと漏らしていたが、それは拘りがあるからこその発言だろう。商売だ。質の良い物を作るだけが正しい事でもない。

 ともかく、それだけ調整できる技術が彼らにはある。そう思えば、もっと肝心な部分のコツを掴むことは重要な気もしていた。

 自らの精霊力のみで編み上げた魔術式を使いこなすこと――たかが一度、失敗したくらいで、やめるつもりはない。

 しばらくは人の多い場所が続くために控えているが、自らの起こす異常さに精神的な負担が大きく、すぐに試すのは躊躇われるということも本心だ。それでも、機会があればいつでも試せるよう、寝る前に復習はしていた。

 考えは、海を渡ることへと戻る。

 それこそが、雑念を起こす最大の憂いだ。

 よもや、またあちらへ向かうことがありうるなどとは考えもしなかった。考えたくはなかったのだ。

 セラの話を思い返す。他の職人に進められたと言っていたが、思えばセラが饒舌なことは限定されている。あの口ぶりだと、魔術式推進船とやらの方に興味がありそうだ。魔術式のお陰で、風任せではなく自在に操舵可能という代物だ。現在では使用されてなかろうと、かの国を訪れれば見聞きする機会はあるのだろうか。

 ただ、イフレニィは眉唾ものだと思っていた。元老院が権威を維持するために喧伝した噂の一つ、とでも言われた方が納得できる。

 転話具ほどの大きさでも高価であり、符のように小さなものでさえ作成には手間がかかる。それを船の大きさで再現するなど想像もつかない。それだけの質量を動かすほどの、莫大な精霊力も必要と思えば余計に――現在の自分ならば可能ではないかといった考えが過り、恐ろしくなって追いやった。

 帝国は元老院の宣託を受けて、回廊の確認の為に、わざわざ北へと軍を派遣した。本当にそんな便利なものがあるなら、あの時に使っていてもいいはずだろう。もちろん、あの、海上でさえ変異した光景を思い返せば容易に近付けるとは思わない。だが、海伝いに近付けばもっと早く確認も済んだろうにと思えた。結局のところ、個人的な不満なのかもしれない。

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