第64話 光の基礎式
あっという間なようで、いつもより長く感じられたようだった、そんな日も暮れる。特筆すべきことなどなく、これまで以上に穏やかな道のりだったのだ。
街道を逸れて木陰に入った。昨晩のような街の跡地もなく、ごつごつとした地面の上だ。三人は熾した火の周りを囲んで座り、味気のない携行食を口に押し込む。そしていつも通り先に食べ終えたイフレニィは、また反復練習を繰り返すことにした。
拾ってきた枝で地面に、古語だという文字を三角形だとかの形に見えるよう書き連ねていく。紙のように動かせないため、少々書き辛い。
昼間に渡された光の基礎式の解説図を参照しつつ、ひとまず三種類の構成要素とやらだけ、ひたすら書いて覚えているところだった。完成には程遠い。式の完成は、その三つの図を正確に重ね合わせなければならないという。しかも、その他の式の基盤にもなるというのだから、この時点で間違えば台無しだ、疎かには出来ないだろう。何度か間違いはないかとセラに確認した。間違って覚えたという悲劇を起こさないためだ。
昼間は紙を使ったが、もったいないため書く場所がなくなっても、上から重ねて書いていた。それで三つの形は朧気に頭に入ったが、次は見本がなくとも書けると自信が持てるまで、どうにか記憶のある今の内にと地面に綴っていく。
こんなに細かい言葉や概念が、あんな紙切れのあんな線に詰められていたのかと、改めて衝撃を受けないではいられなかった。なるほど専門の職人が必要だろう、国も後押しするわけだと素直に思えた。そして原料さえあれば書くだけで済むなら、なぜ誰もやらないのかといった疑問も、嫌でも解消される。それらの驚きが逆に闘志を燃やした。意地と呼ぶ方が正しいかもしれない。こうなるとイフレニィは見境がなく、ますます熱中して取り組んでいく。
感慨深いものがあった。
あれほど魔術式の勉強に身を入れたことのなかったイフレニィが、とうとう魔術式の理へと続く扉を開き、一歩踏み入ったのだ。もちろん、それ以上進む気は微塵もないのだが。
そこでようやく食事を終えた二人に、今日は初めに見張りをすると伝える。苦笑しながらセラは頷き。バルジーは何が気に障るのか、相変わらず膨れ顔を返した。
二人が寝入る横で胡坐を組んで座り込むと、今度は石を拾い土の上に書き付けていく。そろそろ紙を確認せずとも、戸惑わずに思い出せるようになっていた。
次の段階だと、試しに三つを重ねながら書く。そうすると、また違ったものに見えてくるが、ここで迷わず書けるようにならなければならない。
そうして今覚えた光の基礎式を忘れないようにと、さらに書き連ねていく。記憶するというよりも体に叩き込むような方法だが、そうでもしなければイフレニィが今さら覚えることなどできないだろう。今だけではなく、今後も度々繰り返していくしかない。
書いては土を払い、また書き綴る。しばらく熱中していると、背後に邪気が――。
「だから寝てろって」
もちろんバルジーだ。背後へと首を巡らせると、外套に丸まって目だけ覗かせている不気味な生物が音を発する。
「がさがさ」
「ああ悪かった。少し離れる」
物音が気になると言いたいらしい。初めからまともに話せと、心で文句をつけながらも位置を変える。
「……暗黒蓑虫が」
「何か言った」
「幻聴だろ」
運悪く耳に届いてしまったようだ。直後、後頭部に何かがぶつかって落ちる。横目に見れば枯れ枝だ。いくつか飛んできたが無視した。物音に文句を言ったバルジーだが、この女も見張り交代時には、暇なのか近くを歩き回っていることがあり、何度か目が覚めることがあった。人のことを言えないだろうと思うも、イフレニィはすぐに寝入ってしまうし、さほど気にしない性格だ。気になるという者の気持ちは分からないため口は噤んでおく。
少し場を離れ、火も遠く薄暗い中、交代時間まで書き続けていた。
朝の薄い木漏れ日が差しこむ木々が、途切れた場所で足を止める。丁度良い広さだ。二人がまだ寝ぼけながら朝食の準備を始めたころ、水浴してくると言って離れた。少しは一人になれる時間を稼げただろう。狭い川べりの木々の陰で、イフレニィは精霊力を印へと流した。印を通したのは、バルジーの話によれば、他人からは読み取りづらいもののようだと思えたからというだけだ。イフレニィからは、印を通そうが通すまいが符を利用できたのだから、どちらでも構わない。
覚えた光の基礎式を、精霊力で直接空中へと書き取る――それこそが目的だ。
魔術式そのものとは無縁の旅人だ。思いついてから試すまでに、本来ならここまで短時間で叶うことなどなかっただろう。
精霊力の調整が出来るようになりたいと、バルジーに告げたのは本心だ。そのための取っ掛かりになるのではないかと、魔術式の知識を得たいとセラに頼んだことも。
しかし、どうにもならないだろう、といった気持ちを払拭できないことも本当だった。
どうせ膨れ上がる精霊力を止められないのならば、それ以上に使えばいい。
そんな短絡的ながら、現状出来得る単純な方法として選んだのが、己の精霊力で以って直接魔術式を紡ぐことだ。これほど荒唐無稽なことはない。人体の帯びる微々たる精霊力で、魔術式を起動するほどの量が得られるはずはないのだから。だが今のイフレニィでは、そうでもしなければ堰を切ったように溢れる精霊力を食いつくすことなどできない。通常、物質に宿る微々たる精霊力を、魔術式を起動するだけの力に高めるのは、通しやすい鉱石を加工してさらに通しやすくした顔料による。その理屈ならば、起動できるだけの精霊力を直接利用できることに問題はないと考えていた。逆に、効率が良すぎて、おかしな動作をするのではないかとも思う。それらの答えは、ここで得られるだろう。
片手を前に掲げる。
――これで、少しは抑えられりゃいいが。
体へ取り込んだ精霊力を外へ向けて出す、などといった手順を意識する必要などない。意識を向けたときには、全身を冷ややかな風が通り抜けるように、精霊力は流れ込んでいる。
それから、以前のように手から精霊力を伸ばす。長いこと試してなかったから苦労するだろう、などといった懸念は消える。
指先に目を向けただけで、光の粒子が揺らめき、立ち昇っていたのだ。
絶句する。
未だ、この体は変化をしているとでもいうのだろうか。
やる気を、渋い気持ちが塗り替えて行こうとするのを押し留める。今は、考え事など放棄だ。
そんな感想を頭で並べている間も、意識の外で、指の光は糸を紡ぎだしていた。
腹の底が冷えるような感情を呑み込み、光の糸に意識を向ける。今は、糸くずのように絡まって伸びるだけの糸で、形を編むべく集中する。
「第一の構成要素、扇」
何を書いてあるのかなどイフレニィに意味は分からないが、必死に覚えた古語を書き綴る。書くといえども、そよ風に揺れるように不安定に空中に滲んでいる糸くずだ。溢れて伸びる糸を文字になるよう絞り出すのだから、操作は難しいものだった。細かい作業だから、自然と大きさも、基本的な魔術円並みになっている。三つを重ねれば、一回り大きなものになるだろう。それでも、そのまま符を使うより大きさを抑えられているのは確かだった。期待は高まり、真剣に、細かく書き辛い部分を仕上げていく。出力に慣れていく内に、どうにか半円に近い形を作り上げた。
「第二、勾玉」
次は、もっと楽に幼虫のような形状を紡いでいた。
「第三……角」
動物の角のように少し反った三角が、目の前で形になる。恐ろしいほどの対応力だった。持ち主の意思を越えているとしか思えないと、自分の体のことながら気味が悪くて仕方がない。邪魔な感情を押しやって、宙に書き出した図を見る。
これら三種を中央に寄せると、円に見えるように重なり合う。上手く端同士を合わせたものが基礎式である光の魔術式となるのだが。遠目に見るのとは違い、単純な記号ではない。以前なら、とっくに精霊力も尽き、糸は途切れているはずだった。今は全く苦もなく、それらを綴り維持している。そのまま途切れる気配もなかった。
慎重に、三つの図を崩さないようにと意識を傾け、中央へと近付けていく。いきなりぶつけるのではなく、少し前後の位置を離してから寄せて、イフレニィからは上手く重なって見える様な位置に置いてから、ゆっくりと距離も近付けていく。
しかし別の理由で、三種の綴りは、ぼやけて掻き消えた。
イフレニィは不満気に眉を寄せる。
セラの注意書きにもあったが、三つの記号を円形に見えるように、というだけでなく端のある点同士を重ね合わせるのは精度を要する。
まだ一度目だ。
再び集中して初めから、と、意識を向けたところで目を見開いていた。顔がひきつる。目の前に浮かぶ模様を、信じられない気持ちで見上げた。
手を翳し、意識を向けた直後、扇の形は現れていたのだ。
一瞬で、勝手に。
イフレニィは、なにも指示してなどいない。
思わず、模様をかき消すように乱暴に振り払っていた。微かに震える手の平を見下ろす。
――こうも、何かをする度に、変わる必要もないだろうが!
自らの体に文句をつけても虚しいだけだが、心臓に悪い変わり方に、そう思わずにいられなかった。
目を閉じ、深呼吸する。
指から紡がれた糸は勝手に模様を紡ぎ出した。なら他もそうだろう。気を落ち着けて、目を開く。意を決して再び右手を前方に伸ばし、その先の空間を見据える。
第一、第二、第三、読み上げる端から、それらは生まれる。
「……重なれ」
淡く白い光の糸で描き出された模様が、円を成し、一度強く発光する。これが、セラの書き付けにあった、正しく重なったという反応なのだろう。
光の魔術式――展開完了ということだ。
「よし。そのままで、いろよ」
わずかに意識を、印を通さない別の流れに集中させる。その精霊力を符を使う時と同じように、今形作ったものへと流すためだ。
空中に浮かぶ魔術式は、発動を示す黄金に塗り替えられ、輝いた。
成功したと思ったのも束の間、金の光は模様を飲み込むように膨れ上がり、破裂した。
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