第52話 零時間へ

 散策から宿に戻れば日も暮れており、押し付けられるように用意された食事を二人の部屋で摂ると早々に引き上げた。今度は引きこもるためではなく、一人で考えたいことがあった。

 明かりもつけずに寝台に横になり、バルジーが話してくれたことを思い返した。彼女の子供の頃の変化というのは、いつだろう。イフレニィの印の変化などと共通点を探るならば、あの大異変が起きた頃ではないのかと考えていた。空の帯が関わるのだか利用されているのだかすると推測したならば、そこへ戻るのは当然のことだ。空が割れた後なら、バルジーの変化は時間的にも状況的にも合う。

 ――俺は最近始まった。

 本当に、そうだろうか。胸中で呟いた言葉に、別の意識が疑問を呈す。

 日々を生きるだけで精一杯だった。ずっと、何も感じないようにして生きてきた。父に関連することは、悲しみごと全て忘れたかったのだ。必然として、その背後にある祖国のことも。それこそ印についてなど、真っ先に考えないようにしてきた。

 コルディリーに再び異変が表れ昔の事も思い出さざるを得ない状況に陥ったから、それで最近になって気付いたように思えるだけで、実は変化し続けていたのではないのか。バルジーの話を聞いてから、そんな風にも思えてくるのだ。

 ――そんな筈はない。

 組合の依頼で、精霊溜りを消すのについてまわった。その度に符を使ったが、今のように異常な増幅はなかった。最近の、過去のものに比べれば小さな空の異変が起きるまで、イフレニィの体に変化はなかったといえる。精霊溜りを見つけ易くはあったが、他の者より精霊力が強かっただけであり、それも祖国で確かめたときから分かっていたことだ。特に主王家に連なる者の特徴でもあり、その中でいえばイフレニィが特別優れていたわけでもなかった。

 それでも常識外れとは言われていたが、コルディリーの中ではと注釈が付く程度だ。帝国軍の魔術式使い達を見てからは、より強くそう思った。

 それが違ってしまったのはなぜだといえば、忌々しい印しかない。これに精霊力を流してしまってから、全てが変わっていった気がするのだ。痛みが行動を促したのだとしても、印に力を与えてしまったのはイフレニィ自身だ。そう考えるに至り、乾いた笑いが、我知らず漏れていた。

 旅に出てから練習などと称して、何かを掴めないかと確かめてきたが、あれで益々強めてしまったかもしれないのだ。確かにイフレニィは、バルジーの言うように馬鹿者なのだろう。いや、人の本質などそうそう変わりはしない。

 ――昔から、こうだ。

 印に関するためだと言い聞かせ、さらに記憶を探る覚悟を決める。

 諦めの境地からではあるが、そこでバルジーに与えられた微かな希望となる情報が、記憶の奥地に封じ込めていた過去の傷と向き合う勇気となった。父の死を乗り越えるために封じた記憶の中には、忘れるべきではなかったことも含め、全て一緒くたにして無かったものとして扱うしか、当時のイフレニィに術はなかったのだ。

 在りし日のトルコロル共王国。その限定された場所についての記憶に触れる気になっていた。


   ◇◇◇


「母さんは、また部屋か」

 イフレニィは剣の稽古の手を休め、室内を振り返った。

 風を通すために開け放たれた籐の扉。その向こうに、寝椅子が見える。寝椅子は淡い土色の生地で、沈んだ緑の葉が絡む中に、くすんだ赤や桃色の花柄が浮かぶ。その端で、母は凛と首を伸ばし腰掛けていた。その前には、繊細な形の茶器が並んでいる。

 緑も眩しい広々とした中庭パティオがある。柔らかな日差しの下で飲むお茶の方が、美味しいだろうとイフレニィは思うのだ。なのに母はいつも、庭に面した居間の日の当らない奥で過ごすことを好んだ。時には、庭で父や従士らと剣を交えるイフレニィを眺めていることもある。けれども大抵は、薄緑と薄桃色が交互に並んだ、格子模様の壁紙に向かって静かに佇んでいた。正しくは、壁に掛けられた、大きな額縁に向かってだ。額の中には、大ぶりで色鮮やかな花々に囲まれた、立派な屋敷が描かれている。母の生家という話だった。

 たとえその絵を見つめる横顔に憂いを帯びていようと、もうイフレニィが口を出すことはない。もっと分別のつかない幼い日に、ここが嫌いなのかと聞いたことがあった。そこへ帰りたいのかとも。イフレニィを見下ろす母の顔は穏やかで、優しさに満ちている。そして、その微笑はいつも同じ。だが、その淡く鮮やかな青い瞳は、硝子のような冷ややかさを湛えてもいて、イフレニィは身が竦んでしまった。それをどう捉えたのか、母はただ諭すように言った。

「帰りたいわね。でもイフレニィ、お父様とあなたのいるこの家も、とても大切な場所なのよ」

 ――嘘だ!

 何故か、強く心の中でそう叫んでいた。

 絵の中にある屋敷は春の喜びに満ちている。この北の国では天の恵みといってよい季節が閉じ込められたようだった。あんな屋敷で暮らしていたならば、人が多く窮屈な城下町の中にあるこの家が嫌いでもおかしくはない。

 ここは、父のように王位継承順位の比較的高い者達が住まう、寮のような場所だった。中庭を囲むように、幾つかの棟が連なる二階建てのそれらは、縦割りになっており、それぞれの家族に割り当てられていた。周りを気にせずに過ごせただろう以前と比べれば、母にとっては自由など感じられず息苦しいだろうと幼心に思ったのだ。

 イフレニィはこの家で生まれたが、六歳も過ぎると父の外遊に付き従うことになった。外を回る内に、この場所への息苦しさを感じ始めていた。

 継承権を持つのは父だ。

 母は、そんな父に見初められたせいで、ここに閉じ込められることになった。その父こそ、この家にいるよりも外を出歩いている期間の方が長いというのに。

 理不尽さに腹を立てて当然だろう。イフレニィはまだいい。父の仕事に付いていき、外へ逃げる機会がある。だが母は、父子が出かけている数ヶ月もの間、この場所で過ごすのだ。

 無言の想いは刺繍に綴られていた。外から戻る度に増えるそれらの布は、食卓や寝台を覆う。年々、覆い尽くしていく。そこには母の知る思い出の場所が、巧みに描き出されている。そして、父やイフレニィと共有する思い出などない。

 自分の居場所など、母の中に存在しないのだと突きつけられているようだった。一人だけ逃げ出す理由があることを、責められているようにも思えた。罪悪感で胸が詰まり、だからといってイフレニィに何ができるわけでもなく、泣きたくなる気持ちを必死に堪えるしかできなかった。

 イフレニィにできたのは、新しくできたそれを見ることで、そっと母から視線を外すことだけだ。

「綺麗だね」

 それ以上のことは、なにも言えなかった。

 何かを聞いたとしても、母はただ、微笑んでくれるだけだ。寸分たがわず同じ微笑みだけが、イフレニィに与えられる唯一のものだというように。

 この家は、王城に住まうことを許されなかった者を、監視するために作られたのだろうか。そんな気さえ、していた。

 父と共に中央大陸へと海を渡る際、港から国を振り返った。

 闇神殿の回廊と呼ばれる、干潮時には大陸同士が地続きになる場所。その、国の端からでも、小さくだが王城にある塔が見えた。その先端は、やや距離を置いて三つある。三人の王が、それぞれの城に住んでいるためだ。他の国で王様といえば、一人が普通らしいと聞いた。不思議なものだと思った。イフレニィには、自分がここで生まれ育ったという感覚があまりない。

 父が言うには、外を周ってばかりなせいだろうと言う。それに、そういった国を想う気持ちは、成長するにつれて育っていくものだとも。

 イフレニィは城に呼ばれたことはないし、継承順位の低さから、今後も機会があるとは思えない。見も知らぬ王様たちを敬うなどという日が来るとは、到底思えなかった。


 そんなイフレニィだったからこそだろう。一行はアィビッド帝国領内に入り、帝都へ向かっていた。村々へ滞在し、その生活に触れるにつけ、イフレニィの胸に羨望のようなものが湧いては強くなっていった。

 ある日、つい軽い気持ちで口にしてしまった。

「父さんは、トルコロルって、変だと思わないの?」

 その言葉に対する反応にイフレニィは心底驚くことになる。父は、それまで見せた事のない険しい顔付きへと変えた。片膝を地につけて目線を合わせ、イフレニィの肩を掴む。その手に、いつもの優しさはない。稽古中でも、見たことのない厳しい目に飛び上がった。

「私は、祖国に誇りを持っている。無用に見えることにも、意味があるのだ」

 恐ろしくもあった。悪いことを言ったのだと、謝罪したくもなった。それでも、わだかまっていたものが噴出してしまっていた。

「でも、でも母さんは……!」

 言いかけたことで、父にも何を気にかけていたのかが理解できたのだろう。眼差しは和らいだが、イフレニィはどうしていいか分からず泣きそうで口を噤んだ。

「イフレニィ、少しずつでいい。お前にも大切なものが出来れば分かる。それに、分かるような未来であって欲しい。私は、その未来を作る仕事に携わっている」

 イフレニィに辛抱強く言い聞かせると、父は口を閉じ、最後に、静かに微笑んだ。そこには哀しみや寂しさや、諦めがあった。それでいて、その全てを受けいれて、なおも強さが垣間見えた。それにイフレニィは感動もしていた。しかし、空恐ろしいものが、じわりと背筋を這い上るようでもあった。

 その笑みは、母の見せる微笑と、同じものだったのだから。

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