第53話 心の準備

 胸に重石を乗せられたような息苦しさに、イフレニィは意識を現実へと戻した。

 思い出そうとしたのは、丘の上に建つ城を麓から見上げたときのように、あまり良い気分ではないが印に関連しそうな事柄だった。忘れるべきではなかったと、考えている記憶の方ではない。

 寝台で体を起こすと座りこみ、片手で頭を押さえた。それで過去の出来事が消えるわけではない。よりによって、祖国での子供時代が息苦しいものに変わった時のことが真っ先に思い出されたことに戸惑う。過去を紐解くならば、それらにも触れるのは分かっていた。だからこそ決心が必要だった。心が平穏を取り戻すまではと、封じ込めていたものと向き合うには、想像以上の気力が必要だったのだ。望んだ旅ではないために、自分で思うよりも疲労が溜まっているのだろう。

 その旅も少しばかり落ち着いたからこそ、こうして精神を痛めつけるようなこともできるのだろうが。

 ――あの場所も、なくなった。

 十年間、忘れてきたことこそが、今は罪として圧し掛かってくるようだった。だからといって、あの頃を肯定はできない。もし他人の家庭のこととして、現在のイフレニィがその場に通りかかったならば、手を差し伸べたいと考えるに違いないからだ。

 一度思い出したからか、その後のことも断片が脳裏に瞬いては消える。それらは沈殿したような色合いだった。イフレニィの心情を通して見たものだからだろう。流れていくのは、そんな思い出ばかり。そして、変わらず嫌な思い出のままだった。

 だからこそ、だろうか。

 嫌な気分になるのは変わりない。それでも。何故かは分からないが、胸の内を掻き毟りたくなるような感情の裏に、別の想いが潜んでいるのに気づいた。短い期間でしかないが、家族そろって過ごした記憶が瞼の裏に甦っては移ろい、過去へと遡っていく。記憶に残る最も古い親子三人の思い出は、イフレニィがまだ手を引かれて、まどろっこしく歩く小さな頃だ。少なくとも記憶の中では、父と母の笑顔は心からのもののように思えた。重なるイフレニィの笑い声も、無邪気で屈託がない。それが失われてしまったのは、いつからなのだろう。恐らく明確な区切りはない。徐々に心が削られ、いつしか、苦しいだけの空間になっていた。それでもと、思うのだ。たまに三人が揃ったときは、とても大切な時間だったのだと。

 ――昔に、そう思えていたなら。 

 幼い心には、幾つもの真実が重なり合う心の機微など、到底理解が及ばなかったこともある。悲しいことに今でも大して成長しているとは思わないが、もう少しだけ我慢強くあれば、ましな態度をとれたのではないかと思ってしまう。

 感傷に浸ってしまいそうになるのを止めた。思い出すべきことは別にある。しかし残念ながら、あの頃は印のことなど気にしたことも、その余裕すらもなかったのだと分かっただけだった。初めから期待してはいなかったが、手掛かりはなしということだ。

 頭を振って、淀んだ記憶を払いのける。顔でも洗ってすっきりしようと、立ち上がった。



 夜が明けきると、組合に向かうことにした。

 未だ途方に暮れたような気分から抜け出せたわけではなかったが、そんな時こそ、とりあえず行ってみればいい場所だ。階段を降りようとして物音がした。セラたちの部屋だ。朝支度をしているのだろう。ふと足を止め、顔を出そうと扉の前に立った。セラにパンの礼を言ってなかったはずだ。

 扉を叩くと、一拍の後に「開いてる」と、くぐもった返事が聞こえた。開けっ放しらしい。不用心なと思いつつ開けば、姿は一つ。既にバルジーが出た後だったようだ。

 セラはパンを片手に、真面目な顔で机に置いた紙切れの束に向かっていた。まだ試験でもあるのだろうか。

「申請の方は、うまく行ってるか」

 こんな時は反応が鈍い。一呼吸待つ。

「ああ、終わったよ」

 セラは忙しなく何かを紙に書き付けながら、呟くように言った。その手元に視線を落とすが、イフレニィには、ほつれた糸屑のような筆跡が見て取れるだけだった。魔術式の構造か何かなのだろう。そういうことにして触れないことに決めると、聞かされたことへと考えを戻す。

 こんなセラの言い方からすると、幾つかあったはずの申請も無事に通ったということだ。

 ならば、帝都を出るのも近い。

 そのことに、今現在の生活が戻ってきたようだった。旅支度を整えておくことを、予定に加える。

 そこで、はたと、再び付いて行く理由を考えることになり溜息が漏れそうになる。もうこうなったら押し通してみるべきだろうか。なぜ、こんなことに頭を捻らなければならないのか。内心で愚痴りつつセラの表情を窺うが、開いているのか分からない目付きで紙を睨んでいる。こんな時は会話にならない状態だ。作業の邪魔にならないよう、静かに退出した。

 礼には、また晩飯でも買ってくればいいだろう。


 幾ら人の多い本部とはいえ、朝も遅い頃合いになれば、室内にも比較的のんびりとした空気が漂っていた。競争率も高いだろう、今から入れるましな依頼があるとも思えない。そう思えば、やはり掲示板を見るのも億劫で、ついつい気軽に受付へと直接訊ねていた。

「通常依頼で、今日の分と、明日も一日入れるのはないか」

 セラの様子から、さっそく明日から出かけるということはない。ついでに、翌日の依頼についても確認していた。以前の例を思えば、またやり手の少ない仕事でも押し付けてくるのだろうが、それも驚きがあって面白いものだった。それに、何でもいいから、心身を煩わせるものから離れて仕事に打ち込みたいというのが本音だった。

「短期依頼だと、もう少し割がいいですよ」

 周りに人がいないせいか、受付譲も普段より余計な情報を付け足してくる。しかし短期依頼は、最短でも三日は拘束される依頼だ。

「一時滞在中なんだ。いつまで居るか分からないから、下手に受けられない」

「あら残念ですね。では単発依頼ですが、この報酬と仕事内容で問題ありませんか?」

 すかさず提示された二点の依頼書を見た。相変わらず、誰でも出来る単調な力仕事ではある。今日の分は、昼以降から倉庫街での荷の積み込み作業。だが明日の分は興味を引いた。臨時市場開催の為の搬入要員とのことで、都でのものなら、さぞ盛況だろう。

 掲示板を見ていても思ったことだが、報酬の幅は広いものの相場は全体的に高めだった。イフレニィの身からすれば、この受付嬢が懸念するような額とは思わなかったが、ここで働く者にとっては低いということだろう。そんなことをわざわざ知らせる必要はない。その依頼で良いと頷き、最も優先順位の高い理由を伝える。

「時間の方が重要なんだ」

 セラ次第でどう動くか分からないため、いつでも出られるようにしておきたかった。

「それでも、この条件で受けて頂けて助かりますよ」

 了承した依頼書と控えに、受付嬢は手早く署名し判を押す。

「こっちの都合だ」

 なんとなくで相槌を打ち、依頼書を渡されるのを待つ。受付嬢は、依頼書を机上に滑らせながら、やや身を乗り出した。怪訝に見ると、もったいぶって声を落とす。

「大きな声で言うことではないですけれど、割の良い仕事を求める方が多いんです。依頼は多いのですが、希望がなかなか合致しなくて。帝都だからと期待が高いのでしょうね」

 なるほど、そういう事情もあるのかと相槌を打った。住人からすれば、他の街と変わらず普通に依頼をしているはずが、勝手な期待をされて値上げせざるを得ない、などといったことがありそうだった。無論、そんな問題があるなら組合も対策してないはずはないのだろうが。

「私も助かりますし、あなたのような働きの方には長く居て欲しいですね。もし居住をお考えでしたら、滞在資格を融通しますよ」

 突如、受付嬢はそんな事を言い放ち、よそ行きの笑みを浮かべる。その目元は、相変わらず曖昧だ。イフレニィの緩んでいた気分は引き締まる。

 これまで無駄な会話など一言もなく、短期間の滞在で、お世辞など言われるほどの仕事を受けたわけではない。そこに、黒い思惑が見えた気がした。

「残念だが、今は必要ない」

 それ以上話を聞くのは不味いと考え、依頼書を掴むとその場を離れた。


 組合を出ると、イフレニィは出来る限り早足で離れる。新たな疑問に思考が埋め尽くされてうんざりしていた。煩わしい考え事から逃れるためにきたのに、余計なものが増えるなどたまったものではない。

 受付嬢が滞在資格を扱う。そんな権限まであるだろうか。都だから特別といった話なのか、それとも、上からの指示。

 有力な下僕見習いを、勧誘するようにとでも言われているわけではあるまい。それにしては大盤振る舞いな提案だ。

 ――俺、だから。

 すっかり追いやっていたがオグゼル、というより組合の方も、何か企んでいるようだった。多少は身構えてはいたが特に接触もなく、居所さえ分かっていればいいのだろうということで、ひとまずは片づけていた。今のやりとりが、その接触とでもいうのだろうか。強硬手段には出ないが、なるべくなら留まってもらおうという魂胆でもありそうだ。

 そうなるとオグゼルの伝言に、嫌でも、暗に込めた意味があるといった妄想に信憑性が増す。どちらにしろ、去る時期については漏らさないほうが賢明だろう。

 ひどい脱力感に襲われるようだった。

 面倒だ。

 何もかもが、面倒だった。

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