第26話 霧の箱と心の洗濯

 淡い光が地平線辺りに侵食を始める頃合い。イフレニィはすでに街道を歩いていた。昨晩に確認したところ、目標の位置が、わずかではあるが想定より大きくずれていたためだ。

 歩きながらも時折地図に目を落としつつ、旅程の変更を考えているのだが、それがどうにも難しい。手持ちの地図は父が持ち込んだものの中から残しておいたもので、古さも問題はあるように思える。たとえば前の小さな街などは、一応地図にも印はあったものの、よく見直せば小さな拠点であると判別できる程度だ。元は物見用の小さな拠点などを街として整えたのかもしれない。

 やはり、方角のみを頼りに未知のものを追うような、いい加減な目算ではこんなものだろう。

 イフレニィにできるのは、ひたすら歩き続けることだけだ。

 ――そうだ。急いでるわけでなし、地道に追えばいい。

 次の街まで進むことに変更はない。初めの街に寄っただろうという予測も当たっていたのだ。どのみち、寄っておくに越したことはない。北方自治領とはいうが北東一帯に留まる方面は、土地の広さに反して街も人も少ないのだ。補給はもちろん、また何か情報が得られる可能性もある。

 変更はその先だ。帝都に向かうのではないなら何があるというのか。地図上では山の図もちらほらあるが結構な空白地帯なのだ。しかし、初めの街でさえ変化があったとするなら。

 新しい街。

 出来ていてもおかしくはない。初めの小さな街が、街道の分岐辺りという結構良い位置の割に寂れているのも、その手前に興味が移ったためではないだろうか。

 ――いやそれはないか。

 全く商売っ気のない人々の顔を思い返して、あれが素だろうと思えた。

 それから、あちらこちらの街が変わることなど、当然かもしれないと結論付ける。この十年の間に、殺風景だったコルディリー周辺でさえ村が幾つもできたのだから。


 決めたように、ただひたすらに歩き続けたイフレニィは、数日の後に次の街へ差し掛かっていた。すでに周囲に広く見渡せるような平原はなく、幾つもの丘で遮られている。その内の小高い丘を登ると、道を下ったすぐ側に街が見えた。

 見下ろすほどの高さはないので全体は分からないが、そこそこの規模があるようだった。コルディリーよりは小規模な感覚を受けたが、村が出来た分そう感じられるだけであり、元は同じようなものにも思える。

 空を目の端で捉えて戻す。日暮れまで、まだ時間はある。

 イフレニィは丘を、街とは逆側へと下りた。目標を探っておくことにしたのだ。

 茂みの陰で印を発動させる。一度ずれてからの方向こそ変わってはいないが、街からは逸れている。やはり、すでに移動中なのだ。

 それにしても、この街には比較的長居していたように思える。今晩はイフレニィも滞在するしかないが、お陰で明日は同じ街道に乗れるのではないかといった期待が湧いていた。

 意外だった。

 まだ追い始めてから、そこまで日は経っていない。予測がそれなりに正しかったことはあるにしろ、こんなに早く追いつけるとは思ってもみなかった。もちろん、追いつけそうな感触が得られただけではある。

 まだ完全に追いついてはいないのだから喜ぶには早いが、気持ちは明るくなるというものだ。

 イフレニィがひとまず帝国内で予定を見積もっていたのは、追っているものが遠すぎると心が折れそうだったからだ。なんせ方角しか分からない上に動いているのであるから、下手をすれば国境を越えた砂漠国家や、さらには西側諸国内であることさえ否定できるものではなかった。当然それは考えた上で魔術式や精霊力に関連するなら、そこまで離れて働く方がおかしいということもあって判断したのだが、王の印に起こったことが未知のものだから常に幾つもの可能性がちらつくのを消せはしない。

 とにかくも、イフレニィは追いつけそうだという事実に目を向ける。目標の動きは緩慢で捉え易いために、ここまで来れた。

 どうやら前提に思い違いがありそうだった。行商人ならば当然、馬車での移動だと考えていたが、それにしては遅すぎる。むしろ徒歩の速度に近い。それならそれで追う側にとっては楽でいいのだが、そんな動き方をするなら、近場の村から野菜などを運ぶような者達くらいしか浮かばない。だが、一度でも大きく逸れたことで、目標が長距離を移動しているのは確実となったようなものだった。自分の身に起きていることを想えば、常識を前提に考えるべきではないのかもしれない。


 今はこれ以上急ぐこともできない。発動させたままでいた印に集中することにした。そのまま多少はこつを掴み始めていた制御の練習を続ける。

 精霊力を糸のように伸ばしていたのを止めた。代わりに、箱に閉じ込めたように想像して体の回りを漂わせている。精霊力が固まりはしないので霧のようにまとわりついているだけなのだが。

 信号の振動に合わせ、精霊力を強めた霧の箱に響かせる。すると、示す道を求めた信号は霧の一点に集約していく。穴のような一点から吸い出されるように、すうっと流れ出すと消えていった。

 成功なのかは分からない。一度消して、初めのやり方を行う。その結果から示された方向は、今までのやり方の答えと同じだった。

 ひとまずは、成功したといえるだろう。

 知らず安堵の吐息を押し出していた。

 飛距離を縮めることはうまくいかなかったから、考え方を変えてみたのが功を奏した。これでどうにか室内で使える範囲に収まる。相手に届きそうな頃になって今さらというのが悲しいが、無駄にはなるまい。

 そこで日が傾いたのを確認すると、改めて丘を越えた。


 街の境界に、堅苦しさの欠片もない警備兵らしき者達が立っていた。自警団と言った方がしっくりくる、まとまりのない軽装だ。この規模の街なら一通りの設備は揃っているはずだというのに、そこまで人手がないのだろうか。しかし躊躇して足を止めたところ、こちらの姿も認められたのが合った視線でわかる。諦め気味に急ぎ、兵に尋ねた。

「旅人だ。組合はあるか」

 追えるだけ追うつもりもあり時間を取られては困るので、今のところはまだ仕事を受けるつもりはなかった。単に他の街の組合がどんな場所か、違いはあるのかなど、やはり興味はある。

「道なりに進んで、十字路を東に進め」

 兵は丁寧だが、手で追い払うような仕草で早く行ってくれとの感情も露に答えた。

「どうも」

 顔をしかめて引く兵の横を通り過ぎる。川があれば水浴くらいはしたが、頻繁にあったわけではないし、衣類はそう洗うわけにもいかない。汚れも目立ってきているのは自覚していた。

 通りを急ぎながら、宿を取るかどうか考え込んだ。

 この先もしばらくは歩き続ける予定だからこそ、あまり金を使わないようにと街の外で野宿するつもりでいたのだ。しかし一度、人間らしい生活を思い出した方が良さそうだ。

 ――ついでだ。組合で宿を聞こう。

 木の柱に土壁が目に付く組合の建物は、通りで見かけた他の店と同じような作りだった。内部は、まるで酒場のようだ。少ないが、壁際に机や椅子も置かれており、元々の店を流用したことが窺える。壁に掲げられた掲示板が、まるで品書きのように見えた。真っ直ぐにそこを目指す。

「見ねえ顔だな」

 壁際の席で、酒場にすら行くのも億劫なのか駄弁っている者達が、イフレニィに向けて『挨拶』を投げかける。

「着いたばかりだ」

 視界には入れるが、そちらを向きはせず掲示内容に目を通す。呆れたような声や面白がっている声が、イフレニィを評しているようだったが自然と無視していた。

 内容が、気になったのだ。

 これが平均なのかの判断はつかないが、通常の依頼はあまり多くない。隣のもう一つの掲示板へと一歩移動する。そこに貼り出された、臨時依頼の多さと内容に目を瞠った。

 主に、コルディリーからのものだったのだ。

 北部方面軍を置くための、その他諸々の準備は、着々と進んでいるということだ。臨時依頼には、それに関連したものが並んでいた。大量に必要なのは物資関係だが、現地で調達するにも限度があるのだろう。木材や布革等の資材から、薬や食品、職人などの人手まで多岐に渡っていた。

 しかも、組合直々の依頼とあって割りもいい。背後の帝国が出しているのだろうから当然ではある。この内容では、この街だけに依頼されたものではなさそうだった。今後、旅人や軍関係者の流入に目を付けた商人が現れ、商売にも波及するだろう。状況はそれどころではないかもしれないが、国が制限しない限り、人の流れを止めるのは無理だ。

 ――おっさん、頑張れよ。

 心の中で、家主であるクライブに声援を送った。

 これは十分な収穫だ。ようやく情報らしい情報が、一つ手に入ったと思うと満足して受付を向く。

 そこはどう見ても厨房に続く出入り口で、調理台といった趣だが、受付らしい。そこに座る女性の脇には不似合いな書類束などがある。妙な気分で、宿や雑貨屋などの場所を尋ねるとすぐに踵を返す。出るときにも暇人達の話題になっているようだったが、絡まれなかったのは汚らしい恰好のお陰らしい。その雑音を後にし組合を出た。


 宿の洗い場を借りた。井戸が側にあり、楽に洗濯できるのは助かる。手持ちの石鹸も残り少ない。後で買い足そうと決めた。

 木桶の中に染み出す汚れを見ながら、考え事に没頭する。コルディリーの組合の動向も、少し気になっていた。もしイフレニィに用があるなら、クライブから街を出たことを知っただろう。逃げたと思われているかもしれない。

 それでも構わない。半ば事実のような気はしている。

 街を出ることになった原因。目標の、予想外の移動先。意外にも早く追いつきそうなこと。それらにも疑問は湧いてくる。

 そもそも相手は、どこから来たのか。

 イフレニィが追い始めるまでは、どこに居たのか。

 イフレニィが出た頃、コルディリーに行商人が来ていたなんて話は聞いていない。

 知らなかっただけかもしれないが、一応は商店街近くに住んでいたし、クライブも商売人だ。小耳に挟んでもよさそうなものだった。それなのに行商人が、北から南下していったとしか思えない。ああ、地図の問題もある。新しい地図があるか組合に確認しよう――そんな風に考えが移ろいながらも手を動かし続け、上着から靴まで全て洗い切ると、満足感に満たされていた。

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