飲みつぶれて迷子になる

白川 慎

第1話

「…これは何の罰だ?」

真冬の真夜中の公園のベンチで凍り始めているのかと思えるほど冷え切った両手を擦り合せつつ考えるが、答えはどこからも出てこない。罪に問われるほどの犯罪を犯した覚えはないし、凍死に追い込まれるほどの恨みを持たれるような人間関係もない。仕事は真面目にしているし、生きているうえで誰かに大きな迷惑はかけていないはずだ。

「…志田さん?」

誰もいないはずの暗闇から自分の名前を呼ばれ、驚いて勢いよく振り向いた。

「…佐原、さん。」

視線に捕らえた人を確認して、確かに知っている人だったので妙な安堵を覚えた。思わずほっとして彼女の名前を呼び、そしてすぐに何でこんな時間にこんなところにいるのかと別の驚きが出る。同じ会社に勤める女性で、部署は違うしあまり接点はないが名前ぐらいはお互いに知っているという程度の関係だ。ジーンズにダウンジャケットというラフな服装を見れば会社帰りというわけではないのはわかるが、真夜中の2時過ぎに人気の全くない公園を女性が一人で歩いているのはあまり普通ではない。

「何、してるんですか?」

あからさまに怪訝な顔をされ、それはこっちのセリフでもあると心の中で思ってしまう。

「あ、いや、接待でかなり飲まされて、気が付いたら荷物も何もなくここに…。」

何ともばつの悪い話だが、それでも人生初めての非常事態に偶然出会えた知り合いに気が緩んだのかもしれない。恥ずかしいとかそんなことを押しのけて、つい真実を語ってしまった。

「何やってるんですか。」

あからさまにドン引きしつつ呆れた声で言われてしまえば、さすがに項垂れるしかない。先ほど目が覚めてからすでに何度も自分に向かって言った言葉だ。

「タクシー代貸しましょうか?あ、でも、家の鍵すらないとか?」

まさにその通りと頷けば、彼女は小さくため息をつき、こっちはさらに身を縮めるしかない。

「っていうか、顔真っ青じゃないですか。凍死されても困るので、とりあえずうち来ますか?」

天の助けか、と提案を口にしながらすぐそばまでやって来た彼女をぱっと見上げた。どちらかというと綺麗系の顔が呆れた表情を浮かべて見下ろしている。

「迷惑かけて悪い。でも、本当に死にそうに寒い。」

促されるが早いかベンチを立ち、幾分早足で進む背中を追いかける。公園からわずか数分のところにあるマンションのエントランスに入り、もうそこでさえ暖かく感じてしまう。エレベーターはさらに温かく、降りてから部屋までの吹きさらしが反動で嫌に寒かった。招かれるまま部屋に上げてもらい、差し出された毛布に遠慮なく身を包む。エアコンを最強にし、キッチンでやかんを火にかけるその姿に人生で初めてというぐらい感動を覚えた。

「どうぞ。」

差し出された入れたてのコーヒーを両手で受け取り、冷え切った手をマグカップを包み込むようにして持って温める。やけどしそうなほどの熱さだと頭ではわかっていても、一口飲んであまりの熱さに顔をしかめてしまう。それを繰り返しつつも飲み干すころになって、何とか体の感覚が戻る程度には温まって来た。

「少しは落ち着きましたか?」

とにかくコーヒーを飲むことに集中していて、声を掛けられてはっと顔を上げた。

「…ごめん。ありがとう。」

言われて初めて自分がどれだけ動転していたのかを思い知る。いくら緊急事態に陥っていたとはいえ、こんな時間に女性の家に上げてもらって助けてもらうなど情けないこと極まりない。

「困ったときはお互いさまとも言いますし。」

もう一杯飲みますかと聞かれ、遠慮できるはずもなく頷く。すぐに継ぎ足されたマグカップが差し出され、今度は礼を言って受け取った。二杯目を飲み干すとやっと寒さも落ち着き、思わず大きくため息をついてしまう。

「とりあえず携帯かけてみたらどうですか?」

そう言ってスマホを差し出され、頭を下げた。

「ありがとう。」

すぐにかけてみるがつながらないし、もちろん自分の近くでもならない。

「だめだ。」

「じゃあ、それ使っていいんで、携帯とカード会社連絡したほうがいいですよ。」

言われるがままカード会社にも連絡する。

「じゃ、交番行きますか。駅まで行かないとないですけど、紛失届は早いほうがいいですもんね。」

そう言って彼女は一度脱いだダウンジャケットを着た。

「ここがどこかもわからないんでしょう?道案内しますよ。」

そう言ってやさしく笑う。情けなさしかないが、彼女の言う通りではあるので頭を下げるしかない。


彼女について駅まで行ってみれば、そこは自分の家の最寄駅の反対口だった。

「出口を間違えたって、詰めが甘すぎ。でも、ここまで戻ってきてるってことは荷物もこの辺までは持ってきてるんじゃないですか?定期なかったら電車降りられないでしょう?」

その指摘に確かに、と頷いた。急いで交番に行くと奇跡的に届けられていて、思わず二人で喜んでしまう。

「ついていないようで、ついてますね。」

自分のことのように喜んでくれる彼女にもう一度頭を下げた。

「本当にありがとう。助かった。」

彼女はふふっと笑って首を振る。

「今度コーヒーでもおごってください。それでチャラです。」


交番の前で彼女と別れ、家に着いた時には明け方近くになっていた。熱々のシャワーを浴びて体を温め、出てきたところでやっと一息つく。今日が土曜日でよかった。平日であればこのまま出勤しなければならない。心身ともにやられていては使い物にならないで終わるところだった。

「コーヒーぐらいじゃ悪いよな。どこか飯でも誘うか。」

テーブルに置いたスマホを見て、止めたまま解除していないことを思い出す。パソコンからでもできたかなと思いつつ画面をタップすると着信アリになっていた。見ても登録されていない番号で、着信の時間を見てやっと彼女の番号だと気付く。一応かけてみたらと言われてかけたときのものだ。電話帳に登録しようとして下の名前を知らないことに気づく。とりあえず苗字だけで登録して、パソコンから解除できなかったかとスマホは一旦置いた。


あの日から半年。あれ以来コーヒーをおごるだけで終わらず、二人で飲みに行ったり昼休みに一緒に外に食べに行くようになった。そして今日、美味いところ見つけたから飯食いにいかないかと彼女を誘い、必死になって探した隠れ家レストランで狙いよりはるかに満足のいく美味い夕飯を堪能した。外に出ればもうすぐ夏も終わりだと思わせる少しひんやりとした空気にほろ酔いの彼女はまたあの日の事を持ち出して笑う。

「今日みたいにあたたかければ、あんな死にそうな状態にはならなかったのにね。」

食事もワインもとてもおいしかったからだろう。とにかく上機嫌だった。

「杏。」

少し前を行く彼女の名前を呼ぶと、顔だけ振り返る。

「好きだ。」

彼女ははたと立ち止まり、きょとんとした顔をする。

「俺と付き合って。」

数歩の距離を詰め、早くなる鼓動を無視して言う。

「…吊り橋効果って、男の人にもあるんでしたっけ?」

彼女は僅かに眉を寄せ、首まで傾げながら呟く。

「何だよ、吊り橋効果って。」

人の真剣な告白に、わけのわからないことを言わないでほしい。

「だから、凍死するかもって時に助けたから。いわゆる吊り橋効果なのかなって。」

ああもう。頭を抱え込みたくなる。

「それでも何でもいいよ。杏が好きなんだ。」

多少以上に彼女は酔ってもいたのだろう。酔わせようとしていつもよりワインを勧めていたのだから。その上で吊り橋効果なんて言葉が出て来るとは思ってもいなかったが、ここまでくればそんなことはどうでもいい。

「俺と結婚を前提に付き合ってください。」

もう一度言うと、彼女はしばらく固まって、そして突然顔を真っ赤にした。

「え。え!?」

やっと正気になってくれたらしい。あたふたとする彼女を抱きしめた。

「ちょ、っとまって。人が」

通りのど真ん中なので、多くはないとはいえすれ違う人がちらちらとこちらを見ている。

「じゃあ、場所変えよう。」

そう言ってあっさりと体を離し、混乱する彼女の手を引いてさっさと歩きだす。タクシーを捕まえて先に彼女を押し込み、自宅の住所をドライバーに伝えた。

「え?どこ、行くの?」

いまだ真っ赤な顔で混乱中の彼女はしっかりと握った手を気にしつつ言う。

「俺んち。」

一言そう答えると、ぎょっとした顔をして何かを言いたいのか口をはくはくと動かす。それがあまりにもかわいくて、繋いだ手を持ち上げて彼女の手の甲にキスをした。慌てて手を引こうとするがそんなこと許す訳がない。

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