#4 煙草のけむり、あれから
マキは、楽しげに笑う女性と腕を組みながら、騒々しいフロアを横切り、バーカウンターの前の席へと腰かけた。あの長い夜から数年が経っていた。マキの傍らで笑うのはまるで彼女のような長い黒髪を携えた女だった。もう、彼女と会うことはないだろう。既にその炎は枯れ、今は記憶の中でほのかに揺らめくショーウィンドウの飾りのようになっていた。あの不愛想なバーテンダーが、マキの前に灰皿を置く。あれから幾度となく、彼女の姿を求めてマキはこの店を訪れていた。結局、ただの一度も出会うことは叶わなかったけれど。初めて来たときには恐る恐るだった注文も、今では口をついてすらすらと出てきた。お酒の種類も、味も覚え、自分がアルコールに強いこともわかった。マキはバッグから、白い紙箱を取り出した。山なりを描く金のラインの表情は、マキに寄り添うように安らかで、その手の中で落ち着きを保っていた。彼女が忘れていった煙草を、マキは吸い始めた。最初はコンビニの安いライターだったが、ある日、目にしたジッポ・ライターが忘れられず、今ではそれを愛用している。一箱を吸い終わる頃にはもう、喫煙はマキの習慣になっていた。彼女と自分とに残された唯一の繋がりだと思っていた時期もあった。今の恋人、隣で美味しそうにグラスを舐める彼女に、同じ銘柄を吸おうと誘われて、紺色の箱を手にすることがなくなった頃には、その残骸も姿を消していた。思い出してしまうとつらくなることは分かっていて、しかしその光は、ないともっとつらかった。自分の目すら届かないところに、在るだけで良かったのだ。炎が消えず、未だ灯っていることは、コンビニに立ち寄って、「ピース・ライトを」と言って目が覚める夢を見る度に確かめることができた。
グラスを傾け、煙草をくわえ、吸う。キスするように静かに、ゆっくりと。味わうように、噛みしめるように、浸るように。ふと、後ろの席から漂ってくるけむりがマキの鼻腔をくすぐった。香ばしくほのかに甘い、バニラの風味。マキは決して振り返らなかった。振り返ってしまえば、総てが終わる気がしたのだ。今、マキの隣で、口を尖らせながら仕事の愚痴を不満げに零す恋人も、この煙草の味も、あの夜に流した涙の意味すらも。マキは、胸中のショーウィンドウが揺れるのを感じた。炎が一際強く燃え上がるのを感じた。押し殺した衝動は、再びマキの涙腺に優しく触れる。
「マキさん、泣いてるんですか」
「煙草のけむりが、目に沁みただけだよ」
心配そうにマキをのぞき込み尋ねる恋人に、マキは、嗚咽交じりの声を返した。言い訳。だがその中に込められた思いを知るのは、この夜に何人いるだろう。マキはいじらしい顔で、でも、と呟く恋人を引き寄せ、キスをした。驚いたように彼女の舌がピクリと跳ねる。
「どうしたんですか、いきなり」
「ごめん。かわいいなぁって、思って。本当になんでもないから、大丈夫だよ」
マキは彼女の髪を指ですくように撫でた。納得がいかないような顔で、しかし次第に気持ちよさそうに目を細める彼女を、マキは愛し続けることができる。そう、思った時、マキの手元の灰皿に置かれた煙草から、長くなった灰が音もなく、静かに落ちた。
レスト・イン・ピース・スモーカー 木淵 荊 @kibuchi_key
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