#3 それぞれの火

少しふらつく足取りで二人がたどり着いたのは、よくある学生向けのアパート。エントランスやオートロックというような大層な設備はなく、価格重視で選んだ物件だった。裏手に回り、階段を上がってすぐの自室へサヤカを連れて歩く間、マキの心臓は早鐘のように音を立てていた。さっき知り合ったばかりの人間を家に入れるというのがどれほどの行為なのか、経験の乏しいマキには見当もつかない命題だったが、サヤカさんは女の人だし、という一つの言い訳が免罪符のようになっていたのは否めない。ドアノブを回すと、鍵がかかっていなかった。またやってしまった。

「鍵かけてないの。ずいぶん不用心だね」

 たしなめるように言うサヤカに愛想笑いだけを返し、マキは、この癖を直さねばならないと強く思った。あの男との、物理的な何かを越えたつながりを一刻も早く消し去りたいと。ただ喪失感だけを浴びせ続けられたマキの心が初めてその残香を拭うことをゆるしてくれたのだ。それがどうして今になって、と考えることはしなかったが、マキはそのあまりにも唐突に訪れた契機に戸惑いを覚えた。その感傷と一歩とを、何も知らないサヤカは気付かなかった。彼女の思考はアルコールの波に身を委ねつつも狡猾で冷静にその手を止めてはいなかったのだ。

「どうぞ、散らかっていますが」

「ありがと。綺麗だと思うけどな」

マキの部屋をざっと見渡し、サヤカはまず物の少なさに驚いた。背の低い小さな本棚、テレビ、少し大きいシングルベッド、サイドテーブル。風呂とトイレは別。その部屋の素顔が初めて訪れたサヤカにも手に取るように分かる。だが、大学で扱っているであろう専門書や、本棚の上に並べられた映画のDVDといったものが時折顔を見せる度、部屋の質素さを足掛かりにマキの匂いを立ち込めさせている。所在なさげにベッドに腰かけるマキのしおらしい様子に、サヤカはまた、内なる欲望が声をあげるのを感じた。ハンドバッグを本棚の上に置き、ポケットに入れたままにしていた煙草の箱をその傍らに添わせて、サヤカはマキに声をかけた。

「洗面台、借りるね」

 俯かせていたマキの視線がサヤカの顔と首筋とを見ていた。頷くマキに礼を言いながら、マキはまとっていたストールをベッドにかける。リビングからバスルームまではほんの三歩でたどり着いた。サヤカは手を洗いながら、見つけておくべきものを見つけた。サヤカにとって、それがない方が都合の良かったことは言うまでもない。ピンク色と青色の歯ブラシ。マキの身体に手をかけている男の影をサヤカが見て取るのに時間はかからなかった。理性の水に打たれて獣が首を寝かせるのを感じる。自虐的な笑みを浮かべている自分が、鏡に映った。だが、それと入れ替わるように言いようのない寂寥が湧き上がってくることにサヤカは驚いた。遠い記憶にあるような感覚だった。それは、性欲をはじめとするたくさんの欲望から離れたところで明滅する、精神的な恋しさの明かりが、儚くも消えようとしているときの感情だった。その答えにサヤカは気付いたが、その思考は冴えていた。そして冴えていたからこそ、この感情に名前をつけようとする。だがそれはサヤカには敵わない行為だった。そのこともまた、サヤカの明瞭な意識に、もや、薄手のカーテン、をかけるには充分だった。

 サヤカはリビングに戻り、脱いだばかりのストールを身にまとう。不思議そうに見上げるマキの頭を撫でると、くしゃりと手の中で動くその髪に、サヤカは微笑んだ。

「ごめん。そういえば、ツレがいたんだった。今日はそっちの家に泊まるよ。暇なときにでも連絡して。マキの誘いなら飛んでいくから」

 流れるように出てきた言葉とウインクが強がりであることは承知していた。それでもサヤカには、この複雑で曖昧とした感情を的確に操りながらマキと朝を迎えることはできそうにもなかった。身体を重ねようと、語り明かそうと、その両者は今のサヤカには同じことのように思えたのだ。連絡先は店で交換していた。それをはるか遠い過去の出来事のように思いながら、サヤカはハンドバッグを手にして玄関の扉を開ける。

「サヤカさん。どうしたんですか、いきなり」

 見送りについてきたマキの言葉に、サヤカは返答しなかった。言葉が見つからなかった。そのくせに、話を逸らす言い訳はいくらでも思い浮かんだ。サヤカはその中から一つを選んで口にする。

「鍵、ちゃんと閉めなきゃだめだよ」

 閉まる扉の、冷たい音を聞きながら、サヤカは階段を降りた。表の通りに出ると、ざわめきが胸に巻き起こる。向こうから、若い男が歩いてくる。なぜだか、通り過ぎてゆく男にサヤカの目は吸い込まれた。だがそれは顔の整った男に見惚れるといったようなポジティブな行動ではないと、サヤカは思った。そうしてサヤカは、寄る辺なく、夜の街へと戻っていった。


店に戻ると、共に飲み歩いていた友人とバーテンダーとが話しているのすぐに目に入った。

「てっきりお持ち帰りだと思ったぜ。しかも俺をかませ犬にしてさ」

「今リョウヘイの愚痴を聞いてたとこ。またサヤカが好みの女の子を毒牙にかけたかってね」

 酒に赤らんだ頬を大きく動かして笑う女、ヨウコは、リョウヘイの肩をしきりに叩きながらグラスを仰いだ。リョウヘイは自分がナンパしていた女の子をサヤカに取られたとみて、バーテンダーとヨウコ相手に愚痴を垂れ流していたのだろう。二人が割れる海のように横の席に逸れた。サヤカを中心にして、何があったか聞き出すつもりだろう。サヤカはそれに気を悪くすることなく腰かけ、ウイスキーと一緒に酔い覚ましの水をオーダーした。

「あの子、普通の子だったんだろ」

 グラスを滑らせながらバーテンダーが口を開く。サヤカは金色の液体を喉に流し込み、頷いた。

「サヤカが見定め損ねるなんて、そりゃリョウヘイがナンパ失敗するわけね」

「俺は失敗してねぇ。サヤカに邪魔されただけだ」

「難儀だな。家まで行ってとんぼ返りか」

 サヤカの脳裏にはマキの家で見た歯ブラシがどっかりと居座っていた。未練がましく切り替えられないのは、サヤカにとっての異常事態だった。

「マキには彼氏がいたの。家に歯ブラシがあった」

 顔をしかめるヨウコ。だがリョウヘイは足をぶらぶらさせながら口を尖らせる。

「でも、別れたみたいだったぜ。あれは絶対図星だね」

「えっ」

「そんなん聞いてナンパとか、ダサ」

「うるせぇ」

 ぎゃんぎゃんと口論する二人の会話は、既にサヤカの耳には入っていなかった。マキに彼氏がいたことが確定したのはいいとして、その彼と既に別れたとはどういうことだろう。ならあの歯ブラシは何だったのか。ぐるぐると目にも止まらない速さで回転する思考を加速させるため、サヤカはハンドバッグを探る。

「……あ」

 そこで、マキの家に煙草を忘れてきたことにサヤカは気が付いた。

「詳しいことは知らねぇけど、別れようってのと、諦めたくないってのがごちゃまぜになってんじゃねぇの。その、マキちゃんの中で」

「若いね~。アタシだったらすぐ次いくわぁ。サヤカもあんまり一人に縛られないタイプだよね、男女は違うけど」

 あっけらかんと言い放つヨウコに、昨日までのサヤカなら肯定していただろう。自分が普通と違うことを理解しているサヤカだからこそ、特定のパートナーを作ろうという気持ちにはなれなかった。その相手がいなかったというのもあるけれど。沈黙に、サヤカの様子がいつもと違うことを聡いヨウコは勘づいた。

「まさか、そのマキって子に恋しちゃったとか言うんじゃないよね」

 それは、半分気がついていて、最後まで認めることを拒み続けたことだった。いくら月日を遡れば出会えるのか、もう分からないほどの感情だった。こうなるともう、サヤカには自分を律することができない。顔の熱が一気に上昇する。否定しようにも声が出ない。そしてそれは何よりも、肯定を示していた。

「ねぇサヤカ、やめときな。サヤカが言ってたことだよ、私みたいな人間は恋なんてしちゃだめなんだって。自分も相手も不幸にするからって」

「それは、そうだけど。でも」

 男二人は呆気にとられたように目を丸くしている。バーテンダーが持っていたグラスの中で溶けかけの氷が音を立てた。

「仕方ないじゃん。好きになっちゃったんだもん。そのことに、気づいちゃったんだもん」

 我ながら幼い言葉、と、心の中では冷笑するサヤカもいた。だが彼女は瞬く間に溶けてなくなってしまう。それだけの熱があった。サヤカは財布から千円札を取り出すと、ヨウコに押し付けた。

「私、行ってくる」

立ち去るサヤカに、声をかけたのはヨウコだけだった。だがその言葉ではサヤカは止まらない。サヤカは上気した頬を撫でては吹きすぎてゆく心地よい夜風を感じながら、マキの家へと足を早めた。

 

サヤカを見送ったあと、マキは、その後ろ姿をかみしめるように思い返していた。魅力的な女性だった。同性であるマキから見ても、それは揺るぎないサヤカへの絶対評価。マキは、自分とはまるで違うオンナに対する胸中のざわめきに不安と興奮とを確かに覚えた。未知の世界。それはマキの中で、夜という世界から、マキとサヤカとの二人が息づいているこのワンルームへと姿を変えていた。葛藤はある。この想いを吐露したとして、サヤカはどう思うだろうかと考えると、へんなかたちをした顔のない獣が口を開け、にんまりと笑っているかのような心地さえした。その感情に名前をつけることは、マキにはできなかった。ただ、未経験という名の檻で、その獣を閉じ込めるしか方法がなかったのである。リビングに戻ったマキは、ベッドに寝転がり、目を閉じた。瞼の裏にサヤカの指や唇、大きく主張していた胸やほっそりと流れる腰つきなどが浮かんでは、すぐに爆発しそうなほどの動悸と共に目を開け、首を振ってその残像を消そうと躍起になった。何かおかしい。こんなこと、生まれて初めてだ。そう思うにつれ、マキの中でサヤカという人間の存在が大きく膨らんでいく。女神はどこか得体のしれない企みを抱く魔女に姿を変えていた。だが恐怖はない。あるとすればそれは畏怖で、マキにとって焦がれるような存在だった。スマホを見たり、テレビを点けたり、音楽を聴いたりしても、サヤカが自分のすぐ近くにいるように思えた。それがサヤカの魔法だった。一瞬のようで、長い時間が経って、マキは、本棚の上にぽつりと置き去りにされた煙草の箱に気がついた。サヤカさんの忘れ物だと気づくや否や、急に目の前から消えてしまった彼女を追おうとマキは決心した。終電はないって言ってた。ツレってあの男の人だよね、なら、あの店に戻ってるかもしれない。会えるかもしれない。そう思うと、マキにはもう逸る気持ちが抑えられなかった。逡巡の末、煙草を手にしなかったのは、サヤカがまたこの部屋に来てくれるかもしれないという淡い期待だったのかもしれない。スニーカーのかかとを踏んで履くのはいつぶりだろう。そんなことを思いながら玄関を出ようとしたマキの視界に、一人の男が飛び込んできた。世界が震えた気がした。喉は張り付き、呼吸が上手くできない。

「ユウト」

 やっとの思いでマキはそれだけ口にした。つい先日まで、マキの頭の中の半分以上を占めていた恋人の名前だった。

「マキ、あれから連絡取れなかったから。俺、どうしても、マキと話したくてさ。その、謝りたくて」

 申し訳なさそうに訥々と紡がれるユウトの言葉は、しかしマキの意識には届いていなかった。今にも煙草を忘れたことに気付いてサヤカさんが戻ってくるかもしれない。絶対に、サヤカにはこの男と共にいるところを見られたくなかった。その想像は、身が引き裂かれるような痛みでマキを襲った。マキはユウトの手を掴み、引っ張りながら部屋から出た。階段を降り、表通りに出てすぐにまた裏路地へと入り込んだ。

「もう、部屋にも入れたくないってこと」

 マキが足を止めたのを見ると、ユウトはその手を握ったまま言った。悲痛な声だった。その痛みは触れ合った腕を通してマキにも伝わる。だがマキは、ユウトを、目の前の男を、かつてのように愛せない自分を自覚した。稲妻のような、一瞬の気付きだった。しかしそれが、マキにとって、どれだけ大きな変化だっただろう。ユウトの言葉も、表情も、何もかもを、マキの脳に届く前にサヤカが塗り潰していた。

「ユウト。私、もうユウトとは付き合えない」

「ごめん、マキ」

「謝らないで。許せるわけ、ないじゃん」

 劇しい言葉だった。それは、およそ今まで、マキが口にしてこなかった言葉だった。胸は血の滲むほど痛いのに、マキの目から涙が零れることはない。今日は、自分のことなのに、何も分からないことだらけだった。

「さよなら、ユウト。早く私のことを忘れてね。私も、早く忘れるから」

 痺れそうになる舌を無理やりに動かして、マキは言い放つ。腕をつかむユウトの手が力なく離れていく。ユウトは何も言わず、マキの横を通り過ぎるように去ってゆく。小さくなるユウトの背中を、マキは見送りながら、自分の中で更に輝きを増すサヤカの姿を想っていた。ふと、マキはサヤカの忠告を思い出した。鍵をかけないままにしておく、ユウトから伝染った悪い癖。マキは、すっかり見えなくなったユウトの面影を探しすらせず、アパートの部屋を目指して振り返った。その道を駆けるマキの胸中は熱に浮かされたように燃え上がり、肌は狂ったように叫びをあげた。サヤカのことが好きだと、その時のマキには世界の誰よりも明瞭に分かっていたし、星がまばらに輝くこの夜の下に息づく何ものよりも、今、マキは生きていた。

サヤカさんに会って、もう一度会って、この想いを伝えよう。上手く言葉にはできないかもしれないけれど、それでも伝えよう。サヤカさんなら聞いてくれる。それでもし、サヤカさんがもし頷いてくれたら、私と一緒にいると言ってくれたら、キスをしよう。女性同士だけど、関係ない。唇を合わせて、舌を絡ませて、肌を重ねて、言葉を交わそう。もっとサヤカさんのことが知りたい。もっとサヤカさんに知ってほしい。もっと深く、もっと熱く、もっと、もっと、もっと。

マキの中で、炎が灯った。大きく、すべてを飲み込まんと燃え盛る激しい炎だった。その炎が、マキの歩む足を、呼吸を、生命を、輝かせていた。


サヤカは、住む世界を夜の下品な喧騒から、強く、かがやきを湛える火のような恋しさを与えてくれるワンルームへと移そうとした。まとわりつくような禁忌に対する後ろめたさは燃料となり、その火をより純粋な炎へと変えてくれるはずだった、特別な日になると期待する気持ちが抑えられなかった。諦めていた幸せが自分にも訪れてくれると望む気持ちは新鮮だった。

だが、マキのアパートの階段に足をかけたとき、目に飛び込んできたのは彼女に手を引かれる知らない男の姿だった。オトコ。自分にはないものを生まれながらに持っている存在に、息を忘れたのは一瞬で、それからサヤカはうるさいくらいにがなりたてる心臓を押さえつけながら彼女たちから隠れていた。二人が見えなくなると、サヤカは、ふらつく足取りで彼女の部屋におもむいた。鍵は開いていた。さっき注意したのに、と、抵抗なく回るドアノブにマキの姿を思い描いた。彼女をまだ信じていたいと願っている自分から目を逸らせなかった。彼女の照れたようにはにかむ笑顔。もう幻想と消えたその光景をかき消すように目をつむり、サヤカは忘れていった紙煙草の紺色の箱を手に取ろうとして、思い立ったように本棚の上へ戻し、逃げるようにリビングから立ち去った。玄関に、鈴のついた鍵が置かれているのが目についた。サヤカは震える手でそれを掴み、しっかりと鍵をかけた。しばし、無機質な鍵を見つめる。これを持ち帰ったらどうなるだろうか。この部屋に、また、私は来られるだろうか。その思考がザラついた魅力でサヤカの指に刃を押しつける。サヤカは息を呑み、傍らのポストにその鍵を押しこんだ。哀れな盲目の亡者になるつもりはなかった。ただ、戻ってきた彼女が閉まっている扉とポストの鍵に気付いたとき、それが自分の存在を示してくれますようにと願ったのだ。ささやかで、みにくい抵抗。それくらいは許してほしいと、サヤカは身勝手に祈った。


ドアノブに手をかけると、強い違和感がマキを襲う。鍵がかかっている。閉めて出てくる余裕はなかったはずだ。まさか、サヤカさんが戻ってきた……。マキは今にも飛びだしそうになる鼓動を手で押さえつけながら、インターホンを押した。部屋の中でチャイムの音が虚しく響いて消えてゆく。マキは、ポストに手を伸ばした。指先が金属に当たると、小さく鈴が鳴った。取り出したそれは、紛れもなくマキの鍵だった。こんなところに鍵を入れる習慣はない。鍵穴に鍵を差し込み扉を開くまで、マキの脳裏ではサヤカの美しい顔が微笑んでいた。

部屋に入ったマキは、すぐに変化に気がついた。本棚の上、置き忘れられていた煙草の、その位置が違っていた。マキは、サヤカがこの部屋に戻って来たことを確信した。そしてこの煙草を持たずに再び立ち去った意味もまた、痛いほどに理解した。先ほどは少しも動いてくれなかった涙腺が、大きく揺れた。遺された紺色の箱を胸に抱き、マキは泣いた。零れた雫は粒となって、箱がまとったフィルムを濡らして床に落ちてゆく。雨が降り始めた。窓を叩く雨粒の音が、マキの涙を拭うことはない。夜の街からも、鮮烈な恋からも、日常からも世界からも、切れ離されたような気分だった。マキは少しでもサヤカを感じていたかった。

彼女の遺していった煙草を取り出し、ゆっくりと口にくわえる。だが、それを燃やす火がないことに気付いたマキは、大きな嗚咽を漏らし、その場に泣き崩れるしかなかった。


もう電車がないことなど分かっていたが、夢中で歩き続けたサヤカは、駅前へと辿り着いた。家に帰るためではなく、各々の選択のためにたむろする様々な人々を見ながら、サヤカは彼らに親近感を得た。サヤカはコンビニに立ち寄り、煙草を買った。紺色の箱、ピース・ライト。箱を開けると立ち昇るほのかな甘い香り。サヤカは一本を取り出すと、火をつけ、大きく息を吸いながらけむりを肺に落とし込んだ。吐き出した紫煙を目で追うサヤカの姿は祈るようでもあり、恋焦がれる人のようでもあり、決意を胸に抱いた人のようでもあった。呆けている間にも煙草は燃え尽きてゆく。けむりが夜に溶け、目に映る夜空が元の灰色に戻ったころ、サヤカはふと手にした煙草を名残惜しく愛おしむように口づけ、強く、しずかに吸った。それはこの煙草が燃え尽きるまでは、と、心のどこかで繰り返しながら吸い続けたサヤカの最後のひとくちだった。煙草とかろうじて繋がっていた灰が風に吹かれて落ちる。サヤカはそれをじっと見ていた。

冷たいフェンスにもたれかかりながら、おもむろに目をそらしても、その傍らには誰もいない。工場のようなタクシー乗り場にも、喧騒の止まない通りにも、サヤカの求める彼女はいなかった。目を閉じた暗闇のぬくもりと吹き抜けた風の冷たさとを抱いて、吐息がけむりをまとって口から洩れる。まっすぐに昇り、透くように凍るため息。たゆたう煙草のけむりだけが形を成さずにかき消えた。祈りは届かず。夜に溶けた恋は雑味となり、サヤカの胸で渦巻いていたぐちゃぐちゃの思考は歪なかたちに固まった。フェンスから背を離し、自らの足で地に立ったサヤカは、ほとんどフィルターだけになった煙草を排水溝へ投げ込み、もう二つ前の愛の形見となってしまったジッポー・オイルライターをポケットに仕舞おうとして、ハートのモチーフと目を合わせた。サヤカの指が冷たくなった無機質な金属をなぞる。ふとサヤカは、頬を濡らす粒を感じた。それは瞳から零れたしずくであり、サヤカの中で一人の人間が死んだ証だった。雨が降り始めた。嘲笑うかのような、あるいは、サヤカの流す涙を包み込み慰めるかのような、そんな雨だった。街のネオンが雨霧にぼやけ、サヤカの姿は、その渦中、前も見えない悲哀の世界へと立ち消えていった。

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