#2 ピース・ライト

 マキはその時、自分の胸にある感情が彼への怒りや失恋の哀しみといったものではないことを分かっていた。腰かけた足の長いチェアの一つ横では、目が痛くなるほどに原色が使われた柄のシャツを着た青年が懸命に女性へ話しかけている。大きな目が背中に大きくプリントされた不思議なデザインだ。マキは未知の世界にいるという今この時と自分自身への陶酔と興奮とを以て、この不気味な一つ目と視線を交わしていた。時折、喧騒とは切り取られた静寂な空間に自分独りだけが閉じ込められているような気持ちになるたびに、マキは手元のグラスを傾けた。ちょっとでも勢いよく呷るとなくなってしまいそうな量のウイスキーが、ちびりちびりと減っていく。そうしてまた静かな物思いに耽り、我に返ってグラスに口をつけると、氷が溶けて水っぽい味になっていることにさびしくなった。ひとくちめに感じたあの豊かな甘さはすっかり姿を消してしまっていた。

 ふと横目で見ると、あの一つ目がなくなっていた。それは青年がこちらを向いたことだと気付いた時には、時すでに遅かった。青年の、本当の目がこちらを見つめている。マキの視線を受けると、青年の両目はマキの足元から頭までを素早く、しかしじっくりと見回した。

「お姉さん、一人でどうしたの。あ、彼氏と別れたとか」

 見事に図星をつく会話の切り出しにマキは面食らった。その短い間が、慣れてなさを演出したのだろう。青年は堰を切ったようにしゃべり始めた。

「いやあ、お姉さんみたいな子捨てるなんて見る目のない男だね。別れて正解だよ」だとか、「さっさと忘れちゃったほうがいいよ、せっかくこういうところに来てるんだしさ」だとか、果てには「俺なんてどうかなぁ、節穴の元カレくんと違って見る目には自信あるんだよね。あぁ、さっきの女の子とはちょっと合わなかっただけで」だとか、訊いてもいないことと一緒にずかずかと踏み込んでくる。肯定にも否定にもなっていない相槌をマキが打っていると、青年の身体が近づいてきた。むせ返るほど香水の臭いがする。マキの嫌いなバニラの香りだった。無意識か、彼を思い出してかはマキにも分からなかったが、青年がマキの腕に触れようとしたその時、マキは小さく声をあげてその手を振り払った。驚きと苛だちとが青年の目に露わになった。その変化を見て、マキはすうっと、額が冷たくなるのを感じた。血の気が引く、これが血の気が引くってことなんだ、と、マキは他人事のように思った。しかし青年が口を開こうとしたその瞬間、マキの頭上から伸びてきた手が青年の頭を押さえつけた。

「ナンパはいいけど、思い通りに行かないからってイラつかないの。酒癖悪いんだから、アンタ」

「げっ、サヤカ」

「迷惑かけるのは身内だけにしなさいよ」

 青年はちらとマキを見ると、小さく頭を下げて立ち去ってゆく。空っぽになったそのチェアに、サヤカと呼ばれていた女性が腰かけた。黒い川のように流れる髪がたなびき、分かれたしなやかな線がその通った鼻の先をくすぐった。それを片側、耳の後ろに流すと、頬杖をついて、彼女はマキの顔をのぞき込む。その色は、夜、それと同じ空の色をしていた。

「ごめんね。あれ私のツレなんだけど、お酒に酔うと女の子見境なく話しかけちゃうの」

「み、見境なく」

「なんか色々、褒められたんでしょ。彼の言うことは信用ならないから気をつけなさいね。あ、でもあなたは、普通に可愛いと思うけど」

 そう言うと、サヤカは夜色の瞳を再びマキに向けて微笑んだ。露わになった肩が近づいてくる。離れるかどうするかマキが迷っていると、サヤカは「待ってて」と言って、ハンドバッグから財布を取り出すと、席を立った。それから程なくして、サヤカがカクテルグラスを二つ携えて戻ってきた。颯爽と、場に淀む空気を切り裂くように歩いてくる。自分の魅力を自覚していて、それを武器に使える女性だ。そう思わせるような自信に満ちた表情が、マキと視線を合わせると柔らかな笑みに変わる。マキには、彼女が聖母や、あるいは女神に見えた。身勝手なイメージが脳内の彼女をどんどんと色づかせてゆく。オレンジ色の液体で満ちたグラスをマキの前に置くと、彼女は、雪をまとったような白いカクテルを持ち上げた。

「私、サヤカ。あなたは」

「マキです」

「マキ。マキね」

 噛みしめて、味わって、確かめるように二度、サヤカはマキの名を呟いた。

「私とお友達になってくれないかな、マキ」

 サヤカは促すようにグラスを揺らした。マキがおずおずと持ったグラスに、サヤカが自らのグラスを重ねる。ガラスの擦れる甲高い音がしたかも、触れたかどうかすらも分からない、出会ったばかりの二人の距離を曖昧にするような乾杯だった。

「これはツレが迷惑かけたお詫び、私の奢りね。ここからは各自、自腹で」

 いじわるな微笑み。それすらも美しく、しかしするりとマキの心に入り込むような気さくさで、サヤカという人間はマキの中に現れた。サヤカはその仕草も容姿もマキが憧れる大人の女性だった。緊張感を持ちながらもぽつりぽつりと自分のことを話すマキに、サヤカは一つ一つ覚えていくように相槌を打つ。そうしてマキが言ったことを、自分の場合に置き換えて話をした。その仕草を見る度に、マキの心がほぐれてゆく心地がした。出身、年齢、立場、。好きな音楽、映画、趣味、お酒、食べ物。自己紹介のキャッチボールが進むたびに、二人のグラスを空けるペースが速くなった。いつしか二人は席を立って、あの不愛想なバーテンダーのいるカウンターの目の前に陣取って会話に花を咲かせた。バーテンダーがサヤカに向けた意外な笑顔に、マキが可笑しさを堪えきれなくなって笑いだすと、バツが悪そうにバーテンダーは頭をかく。その様子を見ながらサヤカはグラスを傾け、マキの目を横から見つめていた。やがて夜は深まり、マキの意識がなめらかなクリームのような、気持ちのいい酩酊に包まれ始めた頃、ふとバッグに伸びたサヤカの指が、紺色の紙箱と赤いジッポとを取り出すのをマキはぼんやりと見てとった。その視線にサヤカは気が付いた。

「煙草、吸ってもいいかな」

 箱を持つ手をサヤカが揺らす度に、かたかたと小さな音が立つ。マキが頷くと、サヤカは嬉しそうに「ありがと」と呟くと、箱から煙草を一本取り出し、口づけた。キンッ、シュボ、カチンッ、と、小気味良い三つの音がマキの鼓膜を震わせる。サヤカは目を細めゆっくりと吸い込むと、煙草の先が赤いリングのように燃え始めた。ため息のような小さな声と共にけむりが吐き出される。流れるようなサヤカの、その一連の動作を、マキは惚けたように見つめていた。

「きれい」

 ぽつりと漏れたその声に、最初に驚いたのは、マキ自身だった。思わず口を手で覆う。ちらりとサヤカを窺うと、サヤカは丸くしていた目をくっきりと笑みの形に変え、またひとくち煙草を吸った。けむりがマキの目の前で踊り、見えなくなる。

「吸ってみなよ」

「えっ」

「これ、あげるから」

 戸惑うマキをよそに、サヤカは自分の煙草を手の中でくるりと器用に回すと、青い二重線が描かれている方、煙の出ていない方、さっきまで自分が口づけていた方を向けて差し出した。おずおずと受け取ると、バーテンダーが小さな灰皿をマキの前に置く。

「口にくわえて、吸ってみて」

 言われるままに吸い込んだマキは、口腔とのどとにあふれてくるけむりの感触に目を見開き、せき込んだ。

「あー、強く吸いすぎかな。キスするみたいに静かに、ゆっくり、ね。焦らないで」

 からかうように言い、マキの指から煙草を受け取ると、サヤカはお手本を示して見せる。先端に表れた赤いリングが、じわりじわりと煙草を短くしていく。その形を保ったまま、危ういバランスでくっついたままの、地面が割れたようなグロテスクな、灰。煙草から離れたサヤカの唇が艶やかに光るのをマキは見ていた。一条のけむりがサヤカの手に添い、ゆらと遊んでから消える。サヤカは灰を落とすと、再びマキに差し出した。マキはサヤカを真似して吸ってみた。一瞬強く燃えた煙草だったが、それからは、赤いリングを境界線に灰がじわりと煙草を侵し、その身体を焼いていく。先ほどとは違い、ほのかに甘い味がマキの舌に触れた。マキは口をすぼめ、誰もいない方へけむりを吐き出して見せた。

「うん、上手。どう」

 問うサヤカの表情は、麗らかな色を幼くしていた。はしゃぐ子どものようなその無邪気さに、マキは素直な笑顔を浮かべることができた。

「まだちょっと煙たいけれど、なんだか甘いです。煙草ってこんな味なんですね」

 もっとえぐく、苦みのある味を想像していたマキにとって、その煙草は拒否感を抱かせるそのイメージと違い、上品な表情をしてマキに微笑んだ。それが意外で、面白くて、マキは心地よい酔いをまた意識いっぱいに感じた。

「ま、最初だしね。慣れたら煙たさも感じなくなるよ。香ばしくてちょっとバニラみたいな味がするでしょ、けむりも、箱も、いい匂いがするの」

 そう言うと、サヤカは紙箱を開いてマキの鼻先に近づけた。ふわりと立つその香りは、マキの知っているバニラアイスの甘ったるいそれとは違い、鼻の奥を優しくなでた。

「本当だ。私、バニラ味って嫌いなんですけど、これはいい匂いだしおいしかったです」

 バニラ味。嫌い。好き、愛してた。突拍子のない連想ゲームがマキの脳裏で暴れ始める。彼のことを思い出すのは簡単だったが、それから逃れるのは難しかった。

「ピースは、メジャーで人気な煙草なの。オススメ。箱のデザインも綺麗でしょ」

 マキの手に煙草の箱を握らせるサヤカ。とめどなく生まれ、けれど出口を失った様々な感情がその細い指と紙箱の柔らかな感触に消えていくのをマキは感じた。深い海のような色に、金色の装飾が煌めく。Peaceと書かれた白い字を、マキは目でなぞった。

 箱を開けて見ると、中にはまだ十本近くの煙草が収められていた。

「どれくらい吸うんですか」

「二日に一箱ペースくらいかな。イライラしたとき、落ち着きたいとき、起きたあとと、ごはんのあとと、あとはー、セックスのあととか」

 意地悪く笑うサヤカ。咄嗟に目を逸らした先に見えたグラスに映る、酒で赤らんだ自分の頬が恥ずかしくなって、マキはグラスを一息に傾けた。

「かわいい反応ね」

 カラカラと笑うサヤカに合わせて、マキもおぼつかない笑い声をもらした。ふと、サヤカの長い黒髪が耳から落ちる。マキはサヤカに見惚れていた。そしてサヤカもまた、その視線には気づいていた。

二人の違いは無自覚と自覚。相手に対するその感情に、明確な名前がつけられるかどうかだった。サヤカはやっかいな自分に気がついていて、だからこそ、目の前の彼女を見定めようとしていた。こちら側かどうか。サヤカにとってそれは、毎朝眺めるネットニュースや明日の天気や、世間で起きているどんな出来事なんかよりも大切なことで、決して間違えてはいけない選択なのだ。湧き上がってくる衝動を押さえつけるために、サヤカは煙草を求めた。それを分かっているかのように、カウンターの向こうの男が吸い殻の溜まった灰皿を差し出す。こういうところに気が回って、自分のことを好いている彼が、『彼』でなければどんなに良かったか。サヤカはそんなことを思いながら、付き合いの長い、哀れな男の気遣いをありがたく頂戴することにした。日付が既に変わっていることをサヤカは知っている。そして自分の帰る手段が失われていることも。マキはどうだろう。もし同じで、それを分かっているとしたら。それでもなお、椅子から立ち上がらないその行動に、つけこんでもいい気がした。

「マキ、家はここから近いの」

「はい。ちょっと歩きますけど。サヤカさんは大丈夫ですか」

 まだ照れたようにはにかんで答えるマキ。小さな指で箱のふちをいじるその様子に、胸の奥の、普段は顔を出さない気持ちがぞくりと蠢く。

「私は、ついさっき終電なくなっちゃったとこ」

「えっ。ごめんなさい、言ってくれればよかったのに」

「いいの。じゃあ、さ」

 今にも叫びだしそうな欲情を、サヤカは上手く飼い慣らす。手綱を握り、決して押さえつけず、その勢いを無くさず、自分の満足いく方向へと。

「マキの家に泊めてよ。始発まででいいから」

 驚いたようにピクリとマキの指先が跳ねる。煙草の箱がカウンターに落ち、そしてマキは戸惑いながらも、頷いた。男が肩をすくめるのを視界の端に見る。サヤカはテーブルのコースターを一枚取り、バーテンダーに投げつけた。二人のお酒は氷が溶け、その色を同じように薄くしていた。

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