レスト・イン・ピース・スモーカー
木淵 荊
#1 夜の世界へ
階段を下り、扉を開けるとすぐに襲いかかってくる音の波に、マキは思わず肩をすくめた。慣れてしまえばそれも一時のことで、次第にその濁流が気分を高揚させる音楽になる。勝手の分からない場所に迷い込んでしまったという恐れと、今まで自分の人生に存在してこなかった夜の世界への興奮が入り混じったままきょろきょろと周りを見渡し、マキはやがて室内の端にバーカウンターを見つけ出した。ステージと広まったフロアが向かいあうように位置し、店中に漂う激しい旋律の中で、年齢も性別も様々な人々が思い思いに酒を飲み、煙草を吸い、言葉を交わしていた。そこは寒さで身も凍りそうな外とは真逆の場所だった。皆が笑顔で、酩酊にその身すべてを任せている。しかしそのバーカウンターは、そんな空間とは違って、ひっそりとマキを待ち受けていた。もちろん酒を飲み、おしゃべりに興じる人々はその周りにもいるが、一人で夜遊びなど経験のない彼女にとって、その喧騒から隔絶されたようなカウンターはまだ馴染みの深い暗さと雰囲気を醸し出しており、居心地がよさそうに見えたのだ。マキは人にぶつからないようにフロアを横切り、必死の思いでそこにたどり着いた。
「何にする」
ひどく不愛想に投げかけられた言葉にマキは頭を上げる。長髪をオールバックにした男がカウンターの向こうからこちらをジトリと見つめていた。耳はおろか眉や鼻にも銀色のピアスが光っており、この男がマキにとって未だ馴染みのない種類の人間であることは一目瞭然であった。マキは身がすくむのを感じながらも、男の手元にあるメニュー表に目を走らせた。
Beer・whisky・liqueur・Nonと英字の続く読みにくいメニューを泳ぐマキの視線は、少しでも見覚えのある文字列を探してさまよう。やがて飛び込んでくるようにジャック・ダニエルの姿を認めると、考える間もなくその名を告げていた。小さな、震えた声だった。男は一瞬マキを見ると、不愛想な声で「飲み方は」と訊いた。予想だにしない返答にマキは息を詰まらせる。その時、マキは昨日まで愛し愛されていると思っていた男の声を思い出した。男がよく告げていた言葉が、自然と口をついて飛び出してくる。
「ジャック・ダニーをロックで」
「ん、800円」
え、意外と高い。マキは思わず男の顔を見つめてしまったが、男はその視線を意にも介さず、指先でメニューをとんとんと叩いた。マキはまたも慌てて財布を開き、ちょうどの金額をトレイに載せた。男は金を受け取ると慣れた様子でレジに金を放り込み、小さなグラスに大きな氷を入れて、黒いラベルが貼られたビンから黄金色の液体を注ぐとマキへ差し出した。マキは、早々にカウンターから離れることに決めた。この男の視線をこれ以上受けると気がおかしくなりそうだった。グラスをしっかりと手に持ち頭を下げると、男はその不愛想な表情を崩さないまま、片方の口端だけを持ち上げると、「ジャック・ダニーなんて呼び方する奴は、初めて見たぜ」と言い捨てた。
マキはなるべく人の少ない壁際に狙いを澄ませて足を早めた。普段飲まないウイスキーは喉を焼く辛みをマキに予感させたが、このウイスキーはほのかに甘い香りがして、口に含むと優しい風味が広がった。上唇に当たる氷の冷たさと想像以上に飲みやすいお酒を楽しみながら、しかしマキは一刻も早く忘れたい記憶をそのグラスのふちから取り出していた。
付き合っていた彼氏。いや、厳密には、まだ別れ話を切り出したわけではないし、あの日からマキが意図的に連絡を避けているから、まだ彼は、もしかしたらのうのうとマキは自分の恋人だと思っているかもしれない。それとも、あの女の子に気持ちはすべて移ろっていて、マキのことは彼の中でなかったことになっているのだろうか。彼の、過去の女というフォルダに自分の名前が羅列されているのを想像するとマキはこみあげてくる空しさを感じた。体調が悪いから、と晩ごはんを一緒に食べる約束を断った彼を心配して、マキはおかゆのもととスポーツドリンクとを買って彼の家を訪れた。残念ながら料理はあまり自信がなかったが、初めて作ったハンバーグを、べちゃっとすると言いながらもすべて食べてくれた彼の苦笑が好きだった。彼の家に行くと、決まって買い置きのアイスをくれた。彼の好きなバニラ味が苦手なマキのために、彼の好きではないキャラメル味のアイスをいつも買っておいてくれた。いつも手をつないでくれたし、マキがつらいときは何時間でも電話に付き合ってくれた。身体の相性も悪くなかったし、彼の少し骨ばった背中に浮かぶ肩甲骨の感触とともに迎える朝は心地よかった。彼のアパートに向かう道すがら、普段は隠れていて目に見えない小さな幸せがマキの頭にはいくつも浮かんでいた。彼には部屋の鍵を開けっ放しにする癖があった。いつしかマキのものにもなってしまった悪い癖だ。カチン。いつものようにすんなり回ると思っていたドアノブが小さな音を立てるだけで動かなかった。マキはぞくりと背筋に走る悪寒に眉を顰める。違和感を覚える。治したのだろうか、癖を。目に見える景色だけが変わらない奇妙な世界に取り残されたような感じがした。マキはバッグに入っている合鍵で扉を開いた。誕生日に靴と一緒にくれた合鍵で。すぐに目に飛び込んでくる見覚えのないヒール。スニーカーが好きなマキは、ヒールなんて一足も持っていなかった。かすかに漏れてくる、高く甘ったるい声。マキは、予感めいたものに突き動かされるようにリビングの扉を押し開けた。浮かんでいた幸せが、一斉に弾けた音がした。ベッドで彼と交わっていた女は、学内で見たことのある女だった。すれ違ったときに、彼からサークルの後輩だと紹介された記憶がある。名前は覚えていない。ふんわりとした茶髪のロング。顔のパーツ一つ一つが、バランスとアンバランスとが入り混じって絶妙だ。べつに可愛くはない。だがスタイルは抜群で、マキには、とても「私のほうが」とは言えなかった。マキは合鍵を彼のお腹あたりにめがけて投げつけた。怯えたような甲高い声が聞こえてきた。耳障り。広がっていた気味の悪い光景。その中で、彼の形をした奇妙な人間が何か言葉を投げかけてくる。マキはお腹の奥から吐き気が込み上がってくるのを感じて、逃げるようにアパートを後にした。引き留めるような声には聞こえないふりをした。というより、きちんとした言葉には聞こえなかった。ただ、彼の声だということだけが分かった。だが彼女とつながっている状態の彼がマキに追いつけるはずもなく、マキは静かな路地に、まるで宇宙遊泳をするような、自由、ただしいきなり手を離されたような軽やかで底冷えのする恐るべき感覚、と共に飛び出した。彼が追いかけてくる気配はなかった。仮に来たとして、その時のマキには彼と言葉を交わせる気はしなかったのだが。
それからマキは抜け殻のような日々を一週間ほど過ごした。不思議と怒りは沸かなかったが、代わりに身震いするほどの切なさと寂しさとが常につきまとうようになった。彼に大学で会わないように、出る気もしない授業はすべて休んだ。そんなマキを心配して、友達が電話をかけてくれた。その時、マキは今までの自分をどこか醒めた目で見ていることを自覚した。今思えばヤケになっていたのかもしれない。マキは、友人に、翌日の授業には出席すると告げて電話を終えた。その言葉通り、一週間ぶりにマキは月曜四限の授業へ顔を出した。先週マキが休んだことなど、教室に退屈そうな顔で座っているほとんどの人は知らなかったし気にも留めなかっただろう。ただ、教授が持っている名簿のマキの欄に、無機質なバツがつけられているだけで。マキは教授の話をうわの空で聞き流し、昨晩から湧き上がっていた名前の付けられない衝動を満たしてくれる場所を求めてあれこれと思いを巡らせていた。そして今、マキは、今までの自分が知ることのなかった世界へとその足を踏み出したのであった。
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