(15) 水神祭編【11】

「この国の神だったとはの、まさかこんな可愛らしいお嬢さんが──」


 シスイ、と彼女はサラスヴァティーの視線を避けるようにして口にした。「うちの名前はシスイどす」


「ふむ、シスイ……良い響きじゃの」

「そらどうもおおきに」


 サラスヴァティーの顔をまじまじと見つめるとなぜか血流が早くなって頬が上気する。本殿の傍に造られたはなれに招かれてからも、そんな姿を見られないよう、視線だけは合わせないようにした。

 座布団の上で姿勢正しく正座をするシスイとは正反対に、サラスヴァティーは畳の上で胡座をかきながら手酌で酒を飲み始めていた。それにしても露出度の高い格好である。上はなぜか水着であるし、下もその脚線美を誇るかのようなショートパンツ。下着姿との相違点は、それが下着として造られたものではないというただ一点に尽きる、とシスイは思った。いやもしかしたら下着も付けてないかもしれないから、生地が薄いか厚いかの違いなのかもしれない。少なくとも彼女にはこういう格好は真似出来そうもないと言うのは間違いなかった。


「しかもこの国で噂に名高い最強の剣神とはの」サラスヴァティーは酒を美味そうに舐めながら言う。「ちょうど良かった。こちらから出向く手間が省けたというものじゃ」


 心臓が跳ね上がる。この人がうちに会いに?


「と言うと、いったいどう言う……」


 鼓動の高鳴りがふたりの周りに大きく響いてしまうのではないかと思ったがそんなことはなかった。

 はなれの部屋は魔力で灯した炎ではなく、今どき珍しいロウソクの炎が揺らめいていた。窓から差す月明かりの神秘的な光と相まって、優しい静寂と心地良さに包まれている。


「わしの剣術は我流での、そろそろ誰かに教えを請いたいと思っとったところじゃ。そこでぬしに──」


 なんと!シスイはなぜか口元が緩みそうになるのを懸命に堪え、両の手をぎゅっと握りしめる。そして酒をほんのひと口だけ呷ると、やおら立ち上がってサラスヴァティーを指さした。


「け、剣の道はそう簡単なものちゃいます」

「うむ、そうじゃろな」

「一日二日の付け焼き刃でどないなるものやあらしまへん」

「ぬしの言う通り、わしも覚悟しておる」

「一年二年の短期間でものになるとでも思てますか、そないな甘い考えならお断りどす」


 ちょっと期間を長く言い過ぎたかもしれないと、シスイは心配になってちらりとサラスヴァティーを見やる。そもそも元はと言えば外国の神、これから先どのくらいこの国にいるかはわからない。断られたらどうしよう……。が、


「ぬしの言う通りじゃ。わしの本気が伝わらないのも無理はなかったの。改めて──」サラスヴァティーは酒を置き、両手をつくと、深々と頭を下げた。「この通り、おぬしの剣術、教えて貰えぬじゃろうか」


 顔を上げたサラスヴァティーの目にはシスイの心をたやすく貫くほどの真剣さが宿っていた。シスイは狼狽しながらも務めて冷静に、しかしサラスヴァティーに視線を合わせたままだととても言えそうにないため、わざとそっぽを向いた。


「ま、まあ、そこまで言うなら教えたってもええどす。た、たとえ剣の才能のうてもウチの百万倍努力したらウチの足元くらいには届くさかい、ま、まあせいぜいおきばりやす」

「恩に着る、これから起こるであろう戦いに備え、わしも力をつけねばならんのでな」


 この時のシスイにとって、後の戦いのことなどどうでも良かったし、正直そんな言葉など耳に入ってはいなかった。長い間友達も作らずひとりで生きてきたシスイにとっての初めての弟子であり、また、形容しがたい心のざわめきから湧き上がる温かい何かが、サラスヴァティーとまた会うことが出来ると言う事実に高揚感を与えていた。


「善は急げ言いますさかい、早速明日から修行始めますえ」


 それからはシスイにとっては蜜月となった。サラスヴァティーは覚えが早く、剣術への才能もあったため、紫水蒼燕流のほとんどは半年も待たずマスターしていたが、あれやこれやと理由をつけシスイはイツクシマに通い詰め、ついには都にあった屋敷を売り払って神殿に押しかけると、巫女や他の神たちが居るとはいえサラスヴァティーとの実質的な同居生活を手にしたのである。その頃には自分の気持ちに気づいてもいたが、シスイはそれを言葉にすることも行動に移すこともなく、その想いは内に秘めたままであった。

 時には、


「オクトラス程度に魔法使うなんて剣士の風上にもおけまへんなぁ、いちから修行やりなおしてくれへん」


 やら、


「ウチならそないな魔物、一秒で細切れどすえ。センスあらへんのとちゃいますか」


 だの好意の裏返しのような言葉を浴びせたり、ある時には、


「ふん、それならぬしは剣術なしでわしに魔物討伐勝負、勝てるのかのう」


 と言う挑発に乗り、負けて不貞腐れ半日部屋に閉じこもったものの、結局サラスヴァティーのたまには背中流してやろうかのと言うあからさまな優しい言葉に文句言いながらも従ったりと、つかず離れずのこの微妙な距離が、シスイにとっては心地よかったのである。

 が、たったひとつだけ、彼女の胸を強く、切なく締めつけることがあった。それは酒に強いはずのサラスヴァティーが他の神々との宴で酔い、そんな状態の時にしか口にすることがない恩師の話だった。

 水天のヴァルナ。

 今は亡き水の四聖天である。彼女の話をする時のサラスヴァティーは他では絶対に見せないほどの幸せそうな笑顔と、そして何よりも深い悲しみをその横顔に滲ませていた。それを見る度に、シスイは胸に刺すような痛みを覚え、意味の無いことだとは理解しているはずなのに、言いようのない焦りと不安と苛立ちが鉛のように胸の底に沈んでいくのを感じるのだった。

 が、そんな生活も永遠ではなく、当然のごとく終わりの時はやって来た。

 以前から冗談で言っていた勝負をサラスヴァティーが唐突に受けたのだ。


「ぬしが勝てばこの神殿は譲ろう。その代わりわしもぬしからなにかひとつだけもらい受ける。無論、わしが勝てばそのままじゃ」

「ウチからもらい受けるちゅうのんはなんどすか」

「まあ、どのみちわしが勝つから関係ないじゃろうがな」


 安い挑発であったし、勝っても失うものがあるなら得のある勝負ではない。本来なら成立する勝負ではなかったが、シスイには剣士としてのプライドがあったし、これまで挑まれた勝負を断ったことは一度もなかった。何より、イツクシマの神殿に広がる美しい景色も、そこで育まれた思い出も、シスイにとってはかけがえのないものであった。これがシスイのものとなれば、自分の絶対的なテリトリーの中でサラスヴァティーと暮らすことになる。精神的に優位になれる気がした。無論、そんなものは錯覚であったし、冷静に考えればおかしいことは明白である。しかし、


「ええですよ、その代わり、同意書を作らせてもらいますえ」


 十枚にも及ぶ細かい同意書に、剣術だけの勝負である旨を小さく書き込み、結果シスイは勝利、無事に神殿を手中に収めることに成功したのだ。

 サラスヴァティーが姿を消したのはその翌日だった。シスイの愛刀ムラサメを手にして、彼女は忽然と消えたのだ。

 なにかひとつだけもらい受ける──。

 しかしムラサメはダミーであるとシスイは分かっていた。サラスヴァティーは彼女からサラスヴァティーと言う存在そのものを奪ったのだと。

 勝負によって神殿が奪われれば、世間的にはサラスヴァティーがそこに留まる理由はなくなる。彼女は最初から勝つ気などなかったのだ。そしてムラサメを奪ったのはきっと彼女の逡巡、迷い、あるいは優しさか──。

 神殿を奪ったとすればシスイは非難を受けるかもしれない、だから、シスイがサラスヴァティーを追ってこれる理由を作ったに違いない。ムラサメを返して欲しければ追って来いと。

 だが、シスイは追わなかった。あえて非難を受け、留まることにした。それは知ってしまったからだ。

 サラスヴァティーの故郷にある水神の神殿が、その頃活発化していた魔物たちに襲われ、サラスヴァティーの代理として守護していた神や神官たちが殺されてしまったことを。

 サラスヴァティーに帰る以外の道はなかった。それを知ればシスイが悲しむことを知っていたからだ。

 殿。その死後、サラスヴァティーが引き継いだわけだが、サラスヴァティーはどんなことよりも優先して神殿を守らなければならなかったのだ。誰よりも大切なヴァルナの神殿であったから──。

 そしてその一年後、魔塔大戦が勃発、シスイは黄道十二柱の一員として、サラスヴァティーと再会を果たすことになるのだが、それはまた別の物語──


 ──「嘘つき」


 シスイは口の中でその言葉を噛み砕くと、サラスヴァティーに向かって駆けながら追いすがる過去を振りほどいた。

 魔塔大戦が終わったあと、サラスヴァティーはまた旅に出た。死んだ盟友を探すためだ。そこに同行する手もあったが、この想いを悪い方向にぶつけてしまいそうで、シスイは諦めた。そして、長い間待ったのだ。その間に彼女は弟子を取ることもした。それは寂しさを埋めるためでもあったのかもしれない。

 今はふたりの弟子がいる。イツクシマの神殿の巫女たちだ。

 シスイはカキツバタを構え、サラスヴァティーに斬り掛かる。が、彼女が具現化した水のムチがカキツバタの斬撃を微妙にずらしていく。


「具現化はポコロンを大量に消費するさかい、ムラサメ出したほうがええんやない?」

「心配無用じゃ、


 シスイの繰り出す神速の斬撃を辛うじてさばきながら、サラスヴァティーは胸で揺れるネックレスに手を添えた。


 (あかん……あれを使わせるのんは)


 シスイは魔力を集中させる。すると足元に半径五メートル程度の魔法陣が現れ、それが薄らと輝く水の円を形成した。

 足元に剣先をそっと向けたカキツバタにも魔法陣が浮かび上がり、その刀身を輝かせる。

 と──

 カキツバタから、まるで雫のように光球が落ちたかと思うと、波紋のごとく水円全体にその輝きは広がっていった。


 ”水鏡入刃”


 その水円から数百本もの光を纏ったエネルギーの刀が現れ、前方にその剣先を向けたかと思うと、シスイの移動スピードよりも速く一斉に放たれた。

 森の木々を有無を言わさぬ圧倒的なパワーとスピードでなぎ倒し切り刻む光の刃。サラスヴァティーがいる方向、直径十メートルの範囲で無差別に攻撃するその様はさながらミサイルの弾幕であった。

 木の葉が枝が、抉り取られた地面が、土煙とともに飛散していく。

 シスイが使う魔法の中では最大の部類であるが、これの恐ろしいところは、発動前にシスイを中心に周囲直径十メートルにある全ての属性のポコロンを吸収するところにある。つまりこれが発動する時、攻撃範囲内にいる者は魔法を使えなくなるということだ。

 それはサラスヴァティーとて例外では無い。水を操って防御するどころか具現化すら不可能となる。彼女にこれを避ける術はない──

 が、シスイはそんなことはお構い無しにサラスヴァティーがいると思われる場所に駆ける。周囲は爆発したかのような土煙で溢れていたが、その気配がする場所へとカキツバタを振り下ろした。

 鈍い金属音。

 刀身から伝わるその魔力。

 土煙が晴れると、そこには今の一撃をムラサメで受け止めたサラスヴァティーが、涼しい顔をして立っていた。

 無傷どころか服装の乱れさえもない。が、これは想定内である。だからこそ、こうして追撃をしたのだ。


「なんじゃ、これで終いか?」

「冗談はネプチューンの眉毛だけで十分どす」


 シスイは斬撃を繰り出して牽制しつつ数歩後退する。

 水属性最強。

 なんでもありの戦いで、一対一であれば無敗。シスイが唯一心を寄せたのはそんな相手だ。誰よりも強く、そして美しい──


「そろそろ終わりにしまひょ!」


 終わりになど出来ない想いを胸に、シスイは吠えた。

 

 

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PO.C.O.~Record of narrative~ 水魚の交わり らんまる @ranmaru_poco

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