(5)
何が起きたのか分からなかった。
頭が真っ白だ。音も消えている。視界が揺らぎそうになる。
イーサが御神刀を手に取ろうとした瞬間、白狐が祭壇に飛び乗り御神刀を咥えて、そしてピカっと光って、それから──
「アイリス!」
その一言でアイリスはハッと我に返った。
背後から響く、身体を揺らすほどの大きな音。イーサは振り返ってそれを見つめている。音を発しているその原因を…。イーサの表情にいつもの笑顔はなかった。
アイリスはゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、入り口にあった大きな人型の石像が動き出すというありえないはずの光景。
アイリスは唾を飲み込む。
人型──とは言っても、土偶の大きな頭に細めの胴体、そこに太い手足をつけたような四頭身くらいの石像で、高さだけでもアイリスたちの三倍くらいはある。その腕だけで自分よりも大きいのではないか、とアイリスは思った。とにかく威圧感のあるそれが、今まさに動いているのだ。
その自重からか、ゆっくりとした動きだが足を踏み出す度に部屋が揺れた。そして、何故かこちらに向かってくる。
「イーサ、これ…ゴーレムだよ」
自分の声が震えていることにアイリスは気がついた。
ゴーレムとは魔力で動く人形のことだ。あらかじめ命令された通りに動き、魔力が尽きるか動けなくなるまで破壊されない限りその命令を遂行しようとする、というのを聞いたことがある。
「ゴーレムって、あの自動的に動く人形だっけ。でも、どうして動き出したんだろ」
イーサに訊かれたがはっきりした答えは返せなかった。この部屋に入ったから、それとも御神刀に触ったから。でもそうだとしたなら…御神刀を取りに行かせるなんてこんな危険なことを子供にやらせるだろうか?そもそも、とアイリスは考える。御神刀に触ったのはイーサではなく白狐──
「そう言えばあの白狐は?」
気がつけば御神刀を咥えていたはずの白狐の姿が消えている。少なくとも視界に入る祭壇にもその周りにも、白狐はおろか御神刀すら見えなかった。逃げたのかもしれない。
また一歩、ゴーレムが近づいた。
もうお互いの手を伸ばせば届きそうな距離だ。
「アイリス、逃げよう!」
イーサが叫んだ。
逃げる…アイリスは心の中で頷く。頭では分かっていた。しかし身体が言うことをきかない。どうしよう…アイリスは不安を露わにした表情でイーサを見た。
ゴーレムがさらに近づき、右手を上げた。
全てがスローモーションのようにアイリスには思えた。どこか現実感がない。
振り下ろされるゴーレムの巨大な拳。
「アイリス!」
イーサがさらに大きな声で叫び、アイリスの手を取った。そこでようやく呪縛が解けた。
アイリスの手を引きながら、もう一つの出入口へ向かって走りだすイーサ。
横目に、振り下ろされたゴーレムの拳が数十センチ先に見えた。
手を引かれながら走り出すアイリス。拳の風圧が彼女の美しい髪を揺らした。
ゴーレムの拳は大きなハンマーの如く石造りの床を貫き、その衝撃で石の破片が周囲に弾け飛ぶ。
ふいに右足に鋭い痛みが走り、アイリスは倒れそうになったが必死に堪えた。もしかすると飛んできた石が当たったのかもしれない。でも今は立ち止まっている場合ではない。
祭壇の部屋を出る時に一度だけ振り返ったが、ゴーレムが拳を振り下ろした床には小さなクレーターが出来ていた。もしあれを自分が受けていたらどうなっていたのか…アイリスは全身が冷たくなるのを感じた。
ゴーレムはこちらに顔を向け、土偶のように無感動で大きな瞳を一瞬だけ輝かせたかと思うと、再びアイリスたちを追うように歩き出していた。
その後、どこをどう走ったのかは覚えていない。大きな広間に辿り着き倒れ込んでしまうまで、アイリスはもう振り返らなかった。
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