(3)

「では二人とも気をつけて。何かあったらすぐに戻ってくるようにね」


 魔力によって蒼白い炎を灯したランタンをアイリスに持たせ、神殿の地下へと続く扉から二人の少女を送り出したヴァルマは、再び執務室へと戻ってきた。

 巫女は朝の日課である神殿内の清掃に、もう一人の神官──名をラヴィと言う──は執務室のデスクで既に書類と格闘していた。


「ラヴィ君、それは例の書類かな」


 金髪の若き神官は、ヴァルマが戻って来たことに今気がついたような素振りで顔を上げた。


「あ、大神官様。ええ、夏に執り行われる水神祭に関するもので…まだ春ですが今のうちにやっておかないと」

「人手が足りない、か」

「はい残念ながら」


 ラヴィは笑いながら肩を竦め、再び書類に目を落とす。ヴァルマも微かに苦笑して自分のデスクに腰を下ろした。

 確かにこの水神の神殿は常に人手が足りない状況だ。辺鄙な村外れにある、ただ広いだけの寂れた神殿でぜひにでも働きたいと思う若者は少なく、神殿を見学に来る観光客は予想以上──あくまでもヴァルマの想定する数より上──にはいるものの、国からの援助金だけでは雇いたくても軽々には雇えないというのが正直なところだ。しかもつい先日、#神楽__かぐら__#を踊る役目の若い巫女と老年の神官──ヴァルマよりも一回り年上であった──が一人ずつ辞めてしまい、人手不足はさらに深刻な状況である。ヴァルマ自身、大神官となったのはその老年の神官が辞めたせいでもある。

 イーサとアイリスを養ってはいるものの、もともと子供はなく早くに妻を亡くしたせいで時間を持て余していたため、仕事の忙しさは苦にはなっていない。しかしそんな経緯もあって、イーサとアイリスを正式に巫女として雇うことにしたのである。なにより子供なら賃金は安い。学校にも通っているため仕事量と比例すればそれでもまだ賃金は高いが、先行投資として考えれば良いだけのことだ。少なくとも一人には神楽を舞える巫女になってもらわなくてはならないが、幸いなことに素質のある子はいる。勉強はいまいち苦手のようだが、イーサには向いているのではないか、とヴァルマは密かに思っていた。

 巫女としての証──とはいうもののあくまで形式的なものである──御神刀を取りに行く儀式はそう難しいものではない。神殿の地下は通路が多く多少複雑な構造ではあるが、目的地である祭壇の間へはそれほど迷うこともないはずだ。

 御神刀は神殿の宝でもあるため、それを守護する目的として石造りのゴーレムを一体配置している。が、御神刀に触れた時のある一定量以上の魔力に対してのみ反応するようになっているため、今のイーサとアイリスの魔力なら十分安全圏と言える。何か間違いが起きる可能性はないと言い切っても良いはずだ。

 そう、何か想定外のことさえ起きなければ──

 想定外。

ふと何か嫌な予感がして、ヴァルマは思わず地下への扉がある方向に目を向けていた。と同時にイーサの顔が脳裏をよぎる。たちまち、あの子なら想定外のことをやりかねないかもしれない…そんな不安がむくむくと胸に湧き上がってきた。そう言えばつい先日、調理中に味見のつもりで渡したサラダの入ったボウルが、目を離している間に空っぽになっていたことがあった。高度な転移魔法の可能性もなくはないが十中八九イーサのお腹の中に消えていたはずだ。もちろんそれだけではない、料理を手伝わせると調味料を間違えるのは日常茶飯事であったし、何度焼き魚が消し炭になったかわからない。

 いや…と、ヴァルマは苦笑しながらすぐにゆるゆると首を振った。思えば失敗の多くは食べ物絡み。御神刀は食べ物ではないから大丈夫だろう。少なくとも、この簡単な儀式で過去にトラブルがあった例など聞いたことはないのだ。

 ヴァルマは気を取り直し、溜まった書類を片付け始めた。

 結局のところ、この時の彼の予感は当たっていたと言っても良い。もっとも想定外だったのはイーサではなく、ましてや優等生のアイリスでももちろんなく、それは儀式に登場するはずのなかった一匹の狐だった。

 

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