プロローグ~物語の始まり、あるいは過去への旅立ち~
母親は本棚を整理しながら、娘のことを考えていた。
そろそろ、歯を磨き終わったかしら…ちゃんと出来たかな。口の周りを泡だらけにしている光景が容易に思い浮かび、思わず頬が緩んでしまう。いつもなら手伝うのだが、今日も一人でやると言って聞かなかったのだ。昨日はパジャマの下まで泡の洗礼を受けていたというのに…思い出し笑いをしながらもテキパキと本を片付けていく。
──と、ある本のところで手が止まった。
白を基調としたシンプルなデザインの本。いつか娘に読み聞かせてあげようと考えていたものだ。
そろそろいいだろうか…。本を開き、ページを捲る。紙の柔らかくも硬い感触が指先に心地良い。でも、きっと途中で寝ちゃうよね…娘の寝顔が脳裏に浮かび自然と笑みがこぼれた。それだけで幸せな気持ちになれるということが、彼女が幸せな毎日を送れているという証拠なのかもしれない。
懐かしさを感じながらページを捲っていると、娘の幼いながらも快活な声がその小さな体とともに飛び込んできた。
「かあさまー、できたー」
「どれどれ」
見ると、案の定パジャマの上には、歯磨き粉による島国がいくつも生み出されていた。なかなかの力作だったが、昨日の大陸に比べればまだ可愛い部類だ。
「あら、あなたの世界地図にはまいにち新しいお国ができるのね」苦笑しながらも母親は近くにあったタオルで歯磨き粉を軽く拭き取ってやる。そして娘に口を開けさせるとその磨き具合いをチェックした。
「うん、良いね、八十点。頑張ったね」
「おー、八十点!」
たちまち娘は嬉しそうに飛び跳ねる。おでこが隠れるくらいのショートヘアーが揺れ、優しい花の香りがふわりと舞った。
「じゃあ明日は百点だね!」
「あら、ずいぶん背伸びをすること」笑って娘の頭を撫でる。「じゃあ、明日頑張るためにそろそろ寝ないとね」
母親は娘をベッドに寝かせ、少しだけ考えてから例の本を横目に口を開く。
「ねえ、八十点のご褒美に、お母さん本を読んであげようか?」
「おー、ごほうびごほうび」
「聴きたい?」
「うん!」
そのつぶらな瞳には打ち上げ花火のようにキラキラした輝きが宿っていた。
「どんなお話なの~?」
「そうねぇ」
母親は本を手に取ると、娘の隣に体を寄せる。娘の体温が心まで暖めてくれるようだ、と彼女は思った。
「気が遠くなるほど、ながいながーいお話。それからね──」
母親はゆっくりとページを捲り、言葉ひとつひとつを噛みしめながら娘に向かって微笑んだ。
「とても、大切な物語よ」
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