第2章:香澄の現実
第1話:現実の始まり
長瀬香澄。両親がくれたこの名前を、私は誰よりも愛している。
数ある理由の中で、一番は勿論、清純さを連想させる香澄と言う名前だ。
お母さんのように綺麗で、落ち着いている、そんな大人な女性になることに、私は幼い頃から憧れを抱いている。
でも決して、小さな企業を営むお父さんや、創設者である父方の祖父母、それにお母さんから「清純な大人になりなさい」などと言われた訳ではない。
女の子なら誰でも、幼少期に憧れを持つプリンセスのように綺麗でありたいと、一度は願った事があるだろう。
勿論、私もその一人だった。
でも、有名なプリンセスは不遇な対応を受けている美女ばかり。
不遇を受けているのに美女。だからストーリが成り立つ。
どこかしらで恵まれていないとプリンセスのような好機はなかなか訪れない。
そんな歪んだ現実を思い知ったのは、私が幼稚園の年長だった頃の、とある一日が原因だった。
「香澄ちゃん。あーそーぼー!」
いつも私に優しい友達の理穂ちゃん。
そばかすがあって、でも色白で。いつもおさげの愛嬌のある女の子だった。
「いいよ! じゃあまたプリンセスごっこやろ!」
私はどんな時も笑顔の理穂ちゃんが大好きだった。
男の子たちからよくいじめられていた所を、守ってくれる強い理穂ちゃん。
いつもいつも私の側で強くいてくれる存在。でも、過度な期待を五歳になったばかりの幼女にしていたなどとは、高校一年生になった今でも思わない。
「じゃあ最初は香澄ちゃんがおーじ様ね!」
「えー。またー?」
「うーん、じゃあ今日は私が最初におーじ様やってあげる!」
「やったー!」
いつも交代でプリンセスの役をやっていた私たち。
トータルすると大体八割くらい、私が王子様を最初にやって、その後に理穂ちゃんと交代していた。
設定はいつもシンデレラの世界。それも十二時の鐘がなくて、意地悪な継母がいない幸せな家庭に生まれた美女のお話。
毎日繰り返していた寸劇を一言で表すなら、理想郷、だろう。
重労働を強いられていた訳でもなく、いじめられている訳でもない。そして、家にいるだけで王子様に出会える、そんな都合のいいお話。
そんな世界があると信じきっていたから、私たちの脳内は理想的なストーリーを紡ぎ続けられていた。
「おい! ながせとそばかす! お前らまーたシンデレラごっこやってんのかよー?」
そして三日に一回は、いじめっ子の大智くんが割り込んできた。
「そうよ。何か文句ある?」
幼稚園児にしては大人びた言葉遣いと仕草で、大智くんに立ち向かっていく理穂ちゃん。
その時私は、理穂ちゃんの後ろで隠れるのが仕事だった。
「あるに決まってんだろー! 俺知ってんだ。シンデレラって、意地悪なババァが出てきてシンデレラをいじめるんだかんなー!」
「そ、そんなのは知ってるわよ。でも別にいいの。私たちは私たちのシンデレラごっこしてるんだから」
大体の日は、ここまで言うと大智くんは逃げていく。
口喧嘩では勝てないのは、もう二年間の経験で散々学んでいる筈だったから。
でもあの日だけは違った。外は雨が降っていて、遊べなくて退屈だったんだと思う。
「じゃあ俺が意地悪なババァの役やってやるよー!」
「なに? 仲間に入れて欲しいの?」
「ち、ちゲェよ! 俺はお前らのシンデレラが嫌いなんだ!」
完全に大智くんは図星を突かれていた。
少し紅潮したあの丸っこい顔は、今でも鮮明に覚えている。
そんな大智くんの反応が面白かったのか、理穂ちゃんは珍しく挑発を続けてしまった。
得意げな顔をして、右腕を伸ばして私を守りながらも……
「そこまで言うならしょうがないから入れてあげる。でも私たちのシンデレラの方が絶対楽しいもん!」
「な訳ねーだろバーカ! それになぁ、お前みたいなブスがシンデレラにはなれねーんだよ!」
「なっ、何よ! なれるわよ。私にだって、シンデレラ」
「じゃあ試してみるか? ゼッテー誰もお前をぶどーかいになんて誘わないかんなー!」
「……いいわよ。やればいいんでしょ」
口論の論点。そんなものは存在していない。
あれはただの五歳児の口喧嘩。そう、大智くんにとっては、いつも通りの意地悪程度の感覚だったのだろう。
「理穂ちゃん……?」
「ごめんね、香澄ちゃん。ちょっとだけ付き合って」
「う、うん。いいよ」
あの時の私は何も理解していなかった。
理穂ちゃんのいつもと違う表情も、ただちょっと気が立っているだけなのかと思っていた。
何にも恵まれていないシンデレラ。その存在に気づかなかったのは、物語の王子様だけじゃなかったのかも知れない。
私がシンデレラ役で、王子様は適当に選んだ男の子。そして意地悪な役は大智くん。でも大智くんは殆ど悪口を言ってこなかった。
そして、私の相手をしてくれた王子様役の子が、最後に本物の告白をしてくれたのをよく覚えている。
幼稚園児特有の、ちょっとした事で好きになってしまう現象だったのだろう。
そして理穂ちゃんがシンデレラの役の番。
私に振られてショックだったらしい男の子の代わりに大智くんの友達が参戦して、寸劇とも呼べないシンデレラごっこが始まった。
掃除をするシンデレラ。そこに王子様が現れて、いきなり舞踏会へと向かうのが私たちのシンデレラごっこ。
でも今回は違う。まず最初に口を開いたのは、もちろん大智くんだった。
「うっわ、何だよそのソバカス! キッタネー」
ゲラゲラと笑い出す大智くんの取り巻きと、王子様役の子。
でも、理穂ちゃんは何も言わずに掃除を続けた。
粘土の箱を雑巾に見立てて、床をゴシゴシと擦り続けていた。
「こんなブッサイクじゃ誰も来やしねーよ! なぁ〜王子様?」
「うんうん。来たくねーなー、俺〜」
再び、大爆笑があたりを包む。
その時から、理穂ちゃんの手が段々と掃除を辞めていった。
そして幼稚園児の私でも、先生を呼んでこないと大変な何かが起こることは察しがついた。
自分で何かしないと、と思ったのはいいけど、自分で理穂ちゃんを守ると言う選択肢が浮かんでこなかったのは悔いても悔いきれない。
「おーい。ブース! こんなとこ掃除してねーで、ボロい自分の家でも掃除してやがれ!」
「そーだ。そーだ! お前んち貧乏なんだもんなー!」
完全に手が止まった理穂ちゃん。
半ばパニック状態になってしまった私は、走って職員室へと向かって行った。
幸い途中の水道付近で洗い物をしていた先生を発見し、急いで戻った。
かかった時間は多分三分程度。でも……それでももう、手遅れだった。
「うるさい! 黙れ黙れ黙れ! お父さんがいなくて何が悪いの! 貧乏だと何が悪いの! 私がシンデレラになったら、何がダメなのよ!」
大智くんに馬乗りになっていたのは理穂ちゃん。
荒々しい言葉と同じ数だけ、大智くんの顔を粘土箱で殴っていた。
血が出るほどに。目に見える痣ができている程に。
私は何も知らなかった。理穂ちゃんの家の事情について。
優しいお母さんがいつもお迎えに来ていたから、てっきり自分の家のような環境にいるものだとばかり思っていた。
「理穂ちゃん! 辞めなさい!」
先生が止めに入るも、理穂ちゃんは暴れ続ける。
持ち上げられて、大智くんが這いずるように逃げていくのを、殺意のこもった目で見ている理穂ちゃん。
何を血迷ったのか、その時の私は、先生に抱きかかえられる理穂ちゃんの前に出て、最後のトリガーを引いてしまった。
「理、理穂ちゃん! 理穂ちゃんはシンデレラになれるよ。だからまた私とプリンセスごっこやろ……?」
「……何よ。なんで香澄ちゃんばっかりシンデレラなの! 私はダメで、どうして……やっぱり、私が貧乏でブサイクだから……?」
「違う。違うよ。理穂ちゃんは……」
「うるさい!」
理穂ちゃんが投げた粘土箱は、私の顔面を見事に直撃した。
流血はしたけれど、当たったのは幸い額で、今も残るその傷跡は前髪で隠せる。
だけど、五歳だった私は痛みに耐えきれずに泣いてしまった。
絶対に泣いてはいけない場面で。私は何もしていないけど、何もしないことこそが正解だったあの状況で。
何かをするのだったら、もっと前から行動するべきだったあの場面で。
そしてその晩、理穂ちゃんのお母さんが家に謝罪に来た。
私のお母さんは別に怒っている様子も無く、ただ意味もなく理穂ちゃんのお母さんが頭を下げるだけの十五分間。
玄関からこっそりと顔を覗かせていた理穂ちゃんに、私はどうしても言葉をかけられなかった。
何もしていないのに、なんで私が。と、あの時は心から思っていた。
幼さが故の、一時的なトラウマになっていたのかも知れない。
言い訳ではなく、本当にそのせいで最後の別れの言葉が言えなかった。
あのプリンセスごっこの日が、理穂ちゃんとの最後になってしまったから。
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