第2話:シンデレラの現実
二歳の頃から、私には幼馴染と呼べる存在がいる。
理穂ちゃんよりも少しだけ出会うのが先だった、隣の家に住んでいる男の子。
弱虫で、事あるごとに泣いていた現在の私の彼氏、山田涼太は昔からどこまでも優しい存在だった。
理穂ちゃんのお母さんが訪ねてきたあの騒がしい夜の後、心配して様子を見にきてくれた山田さんと一緒に、涼太も着いてきてくれた。
「だ、大丈夫、香澄ちゃん? なんで泣いてるの?」
「理穂ちゃんとね、喧嘩しちゃったんだ……」
自分の部屋で、布団の中に閉じこもっていた私の頭をそっと撫でてくれた。
おどおどしながら、でもとても暖かい、優しい手つきで。
「だ、大丈夫だよ! 明日、仲直りできるよ、きっと!」
「……明日は、土曜日だよ。幼稚園お休み」
「あっ⁉︎ 嘘、嘘嘘嘘。じゃあ火曜日……じゃなくて水曜日……だっけ?」
「ふふ。やっぱり涼太くん、面白い」
「えぇ、なんで⁉︎」
涼太は昔、全然勉強が出来なかった。
年長にもなってるのに、時計も読めなくて、曜日も分かっていなくて。
小学校に上がってからも、成績は中の下。
公立の小学校だったのに、私が勉強を教えないと授業に着いていけないレベル。
それに加えて運動音痴と、学年で知る人はいない程のダメ男っぷりだった。
でも、あの暖かい雰囲気を与えてくれる涼太がいてくれたお陰で、私は理穂ちゃんの事で頭がいっぱいにならないで、無事に小学校も卒業できた。
その頃にはすっかり理穂ちゃんの事を忘れていた自分。
卒業式後の最後の春休みが始まった時は、二週間後に始まる涼太の中学生活の心配だけしかしていなかった。
「ねぇ、涼太は中学校に行ったら何部に入るの?」
「うーん、まだ決めてないかな。香澄は?」
「私は涼太に勉強を教える部に入ろっかな〜」
「……ぇ⁉︎」
涼太の家でお茶をしていた私たち。
日常的な軽い冗談を言ったつもりだったのに、涼太は凄い顔を赤くしてくれた。
返事をするのも忘れて、摘まんだクッキーを落としたことにも気づかないお間抜けさん。
ただヘタレな幼馴染の面倒を見ていただけだったのに、いつからか違う感情が湧いてくるようにもなったのは、確かこの頃だった。
特定の、例えばお姫様が王子様に出会った時のような劇的なシチュエーションは私たちの間には存在しない。
でもいつでも優しい、本人の知らないところで実は女子人気が高い涼太が隣にいてくれる日常を、私が心の底から望んでいたのは確かだった。
「私、涼太と同じ部活に入りたいな。だから教えて?」
「い、いや、本当に決めてないんだ。ごめん……僕、得意なこととかないからさ」
「えー! 折角なんだから何か試してみようよ!」
「例えば?」
「んー、バスケ部、とかは?」
「……流石に無理だよ。僕、バスケットボールなんて触ったこともないし」
「じゃあサッカー……も無理か。陸上……もダメだよね。ならいっその事、美術部とかh……」
私が部活の名前をリスト化しているうちに、涼太の表情がだんだんと暗くなっていった。
やっぱり不安なんだろうな、と、いつかのお返しに私が俯いている涼太の頭を撫でてあげていると、少しだけ幼稚園のあの日を思い出してしまった。
小学六年生。それも卒業生になった頃には、もう流石にあの日の自分の過ちを理解できる。
どうすればよかったのか。何をしなかった方がよかったのか。
言葉にするまでもなく、私の中では後悔の渦が広がり始めていた。
「ん? どうしたの、香澄? もしかして香澄も部活決まらないとか?」
「う、うん! 実はそうなの。だから涼太に決めてもらおうかな〜って、思ってたんだけどね」
「そっか。だからだったんだ。そりゃそうだよね……って、何言ってるんだろう、僕。あはは……」
急に慌て始めた涼太。
私の事を気遣ってくれるのはいい所だけど、直ぐに自分の方に戻ってしまうのは玉に瑕。
でもほんの少しの違いでも、涼太は気づいてくれる。
少し撫でる手の力が緩んだだけでも、少し頬の筋肉を引きつらせただけでも、私の異変に鋭く反応してくれる。
優しさはいつも通り。なのに、学年が上がる毎に少しづつ自信がなくなっているように思えた。
そして事ある毎に、こう言うようになった。
「でも、やっぱり香澄は僕なんかに構ってちゃダメだよ。きっと自分で決めた方が……さ」
そう言われた時の私が悲しい表情を浮かべているのに気が付いている筈なのに、涼太は私を突き放す。
一時期、好きな女の子でも出来たのかとも思ったけど、やはりそうでもないらしいから、ただ弱音が本物になりつつあるだけ。
ダメだダメだと周囲から冗談で言われ続け、涼太は挑戦することすらやめてしまった。
だから私は涼太が心配。中学に上がって、いじめられたりしないかどうかが……
「じゃあ……じゃあ私、帰宅部になる! だから涼太も一緒に帰宅しよ!」
「え? あ、うん。喜んで」
普段はこんなに元気よく喋れない私。なのに涼太の前だと、自然と素体になれる。
もう後悔はしたくないから、なのかも知れない。
涼太をあの時のように失いたくないから。
大切な人が、傷つくのはもう嫌だから。
でもそんな私の心配には気づいてくれない涼太。
自分に向けられた感情に対しては、鈍感なところがある幼馴染。
そんな所も、可愛いと思ってしまう自分が私は嫌いではなかった。
そして中学生になり、涼太はたくさんの男子生徒に囲まれるようになった。
女子人気は小学校の時ほどではなかったけれど、大人になりたがっている男子中学生にとって、根っからの弟気質な涼太はちょうど良い相手だったのかも知れない。
何かと頼ってくれて、でも本当にたまにしっかりしていて。
気弱だけど、こちらが嫌悪感を抱くほど自虐をするようなタイプではない。
あの頃の涼太は、自分に自信がないだけだったのだと思う。
私と二人でいる時は、特に。男友達には見せない弱い面を良く露出していた。
多分、自分が「長瀬香澄」と一緒にいていいのかどうか、悩んでいたのだろう。
涼太は私を完璧な存在だと思っているから。
でも中学三年生の春、学校帰りにこう告げられたのをよく覚えている。
「僕、ちょっと頑張るから」
唐突で意味の分からない発言に、私は、
「え? うん。頑張って」
と適当に返事をした。
前後に何があったのかは分からない。
ただその日から、涼太は私を避けるようになった。
私の友達に何やらこそこそ聞き回っていて、メールで「何聞いてたの?」と質問しても「……別に」と返事が来ただけ。楽しい思い出が作れると期待していた修学旅行も、体育祭も、文化祭も何もかも、涼太のそっけない態度のおかげで台無しになってしまった。
でも、『怒り』よりも先に込み上げてきたのは『悲しみ』。
涼太に嫌われたかもしれないことが、何よりも辛かった。
そのまま中学校生活最後の冬休みが明けて、受験期真っ只中。
なにかきっかけが欲しくて、例年通り、バレンタインのチョコを作った。
一応、受験勉強の邪魔にならないようにするために日付を少しずらして、久しぶりに涼太の家に行った。
山田さんは快く家に上げてくれて、慣れた順路を進んで涼太の部屋へと向かった私は、
「りょ、涼太⁉︎ 大丈夫⁉︎」
うつ伏せに倒れて、部屋のドアストッパーになっていた彼を発見した。
でも幸い、私が肩をさすると、涼太はすぐに体を起こした。
目元は隈だらけで、手の側面は真っ黒な状態。頬もかなりやつれていた。
そっと部屋の中を覗き込んで見えたのは、散乱している洋服と、一枚一枚びっしりと書き込まれた大量のルースリーフ。そして壁には『絶対に香澄と同じ高校に行く!』と書かれた自己啓発の張り紙が。
そこで私は、ようやくあの言葉の意味を理解した。
「……あ、香澄。……香澄っ⁉︎ なんで、どうして香澄がここに⁉︎」
「おばさんにあげてもらったから?」
「あぁもう母さん。えっと、なんというか、部屋の中は、絶対に見ちゃダメだよ」
「えー、なんでー?」
「そ、それは、その、なんというか…………汚い、から?」
「っぷ。なんで涼太が私に聞くの? まぁ、見られたくないなら見ないけど」
「よかった〜。じゃあまだ……じゃなくて、今日はどうしたの?」
「はいこれ。バレンタインのチョコ持ってきたよ」
「あ、ありがと。毎年悪いね……」
まだ床に座っている涼太の手元に、透明なラッピングで包んだトリュフチョコを置いた。
嬉しそうな涼太の顔を見て、心が高ぶる。やっぱり私は涼太が好きなんだと再認識した。
涼太が起き上がったときに顔を出した、とある私立高校の参考書も、その原因の一つだろう。
涼太なりに、私を驚かせてくれようとしたのにはもう気が付いてしまったけれど、私が推薦で入学が決まっている高校を選んで、猛勉強してくれたのが何より嬉しかった。
「ううん。好き、で作ってるから。じゃあ忙しいみたいだし、私、もう帰るね」
「うん。またね」
何にも気づかないのは涼太だけ。昔から変わらない大切な幼馴染。
でもあの日の涼太は、二年生までのヘタレっ子よりもずっとずっと成長しているように見えた。
……告白してくれた時は、それよりももっと。
そして高校に入って初めての夏前の今日、私は人生の九割を共にしてきた彼氏との待ち合わせ場所まで向かっている。
家が隣同士なのに、何故か駅前での集合。
心地よい朝日が頬を照りつける。そんな今日の目的地はニャンターランド。
可愛い猫がテーマの、夢の遊園地だ。
「お待たせ、涼太」
目の前に広がる現実は幸せそのもの。
だから私は……あの頃の記憶を振り返ったのかも知れない。
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