第6話:克服の決意

 絢香さんの唐突な申し出に、僕の混雑した心はさらにかき乱された。

 顔が熱い。体も熱い。何もかもが火照っている。

 心臓が高鳴っている。先輩のお姉さんを、僕の男の部分が渇望している。


 自然と絢香さんを見る目が変わっていくのが分かる。

 ハリのある肌。豊満で柔らかかった胸。妖艶な唇に表情。

 絢香さんの全てが欲しい。そんな俗念が僕の思考を支配した。


 返事をしない僕の口元に、段々と近づいてくる綺麗な顔。

 絢香さんが、僕の新しい何かなのかもしれない。

 美人なお姉さんが、僕の悪夢を上書きしてくれる存在なのかもしれない。


 だったら僕は受け入れたい。


 欲望に支配されるままに、僕の両手は絢香さんを抱くように伸びていった。

 だが、華奢な体に両腕が巻きつく寸前に、あの光景が脳裏に浮かんできた。


 ホテルの前に立っている、寝取られた元彼女香澄と茶髪の男。

 二人があの後何をしたのかを無意識に想像してしまう。

 再び訪れた吐き気。そして、僕の両手は震えながら、段々と下がっていった。

 

 情けない。でも、正しい選択だった。

 

 寂しさのあまり、焦燥感のあまり、恋愛感情を抱いていない、しかも大切な先輩のお姉さんに手を出そうとしてしまった。 

 これは恥じるべき事だ。絢香さん達からしたら、ただ震えて黙っているだけの臆病者にしか見えないだろう。

 でも僕は、今物凄い自己嫌悪に囚われている。

 もう二度と、目先の快楽を求めて行動したくない。


 「よかった。ある程度は正常に判断できてるみたいだね。お姉さん安心したよ」

 「おい、姉貴。冗談が過ぎるぞ? もし涼太が受け入れてたらどうするつもりだったんだよ。軽率な発言はやめてくれ」


 「もし涼太くんが受け入れたら、私はエッチするつもりだったよ? 別に涼太くんは嫌いじゃないし、それに傷心した男の子を慰めるのは女の仕事だからね。でも、少しホッとした。篤も心配してくれてありがとね?」

 「いや、別に俺は姉貴の心配をしたわけじゃねーって」


 「もー、正直じゃないなー。たまに可愛い弟になると、お姉ちゃん寝込みを襲っちゃうよ?」

 「それだけは勘弁してくれ。頼むから」


 今の話の流れでも、神崎姉弟は最終的には笑顔になれる。

 やっぱり凄いや。この二人は、僕とは違う何かを持っている。それを羨ましいと思ってしまう、自分が恥ずかしい。

 

 絢香さんは僕を半分試していた。そして、僕は意図せずにそれを突破した。

 今のはただのまぐれだ。決して僕に正常な判断ができていた訳ではない。

 ただ、トラウマに怖気付いただけの弱虫。

 でも、弱虫でもいいのかもしれない。

 臆病で気弱なヘタレが僕。そして、そのヘタレ加減が僕の行動を正してくれた。


 今は無作為に何かを欲する時じゃない。

 そうすれば、僕は必ず間違った道に進んでしまうだろう。

 でも、模索するのは大切だと思う。絢香さんが僕を包み込んでくれたように、大人の階段を登らせようとしてくれたように、僕は新しい何かを感じる事で前に進めている。


 慎重に歩み続ければいつかきっと僕は変われる。


 「ありがとうございます。絢香さん、それに先輩も」


 二人はじゃれ合いをやめて、僕の憑き物が取れた顔を直視した。


 「やっぱり、私とエッチ、する?」

 「姉貴、もう黙っとけ。涼太にはもっと誠実でいい子がお似合いだ。ショタ狩りしようとしてる成人になんて渡してたまるもんk……ぐ、ぐるじい」


 先輩が絢香さんのチョークスリーパーの餌食になってしまった。

 なんだかんだで、仲のいい姉弟だな。


 「あんたは一言多いんだよっ。いくら美人のお姉ちゃんが後輩に寝取られそうになってるからって、嫉妬はいけないな〜、嫉妬は」

 「だでがじっどだんでずずが誰が嫉妬なんてするか

 「な〜に〜? なんか言ったかしら?」


 「二人は、やっぱり仲良しですね。僕は二人とも大好きですよ」


 「で、でベー、だにばがだごどいっでだがづて、テメー、何馬鹿な事いってやがる


 絢香さんの顔は先輩の感想に反して嬉しそうだ。

 でも、さっきよりも絞める力が上がっているような気が……まぁ、気のせいか。

 これはあれだ。一種の愛情表現なんだろう。絢香さんにとってチョークスリーパーは抱擁と変わらないんだろうな。


 「でも、先輩が泡吹いてきちゃったんで、離してあげてください、絢香さん」

 「しょーがないなー。可愛い可愛い涼太くんの頼みだから、特別だぞ〜」


 ゴトン、と荒々しく床に放り投げられた神崎先輩。

 ––療養を兼ねて、今度またフィギュアを取りに行きましょうね。

 そう念を込めて、笑顔を先輩に向けた。


 「りょ、涼太。いい顔してんじゃねーか。俺が殺されかけた甲斐もあったってもんだ」


 そう言って、先輩は立ち上がった。何故か両手を僕に伸ばしながら……


 「だからお前も同じ苦しみを味わいやがr……グハッ」


 僕に襲いかかろうとした先輩は、見事に一発KOされた。

 もちろん、僕の頭上から伸びている拳の持ち主は絢香さん。

 僕はただただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 


 気絶した先輩が目覚める前に、僕は母さんに今晩先輩の家に泊まる事を伝えた。

 僕の両親は基本的に放任主義で、僕みたいな気弱な息子が何か不祥事を起こすとも考えていない。

 一人っ子は大切にされるって聞いた事あるけど、うちはそうでもない。


 絢香さんに思い切ってご両親の事を聞いてみたら、両親とも海外出張中なんだとか。

 亡くなられてるのかと思ったから、少しホッとした。


 絢香さんは大学には行かないで、先輩のお母さん代わりを中学の時からしているらしい。

 だから生意気だけど可愛い弟が大好きなんだとか。

 とてもじゃないが、関東女連合の総長を務めてたとは思えない程に母性に溢れている女性だ。


 今、絢香さんは自室で誰かと電話していて、僕は絢香さんが上がった後にお風呂をいただいている。

 脱衣所には、故意だとしか思えない程、布面積が極小な脱ぎたての女性用下着が散乱していて、僕は少なからずそれに反応してしまった。


 数分前に一緒に風呂に入る、と言ってやって来た先輩にその事を話したら、いつもの事だ、と言われた。

 絢香さんは弟もからかい続けているんだろう。もしくはだらしないだけかもしれないけど、家は綺麗だもんな。


 ちなみに、神崎家の浴槽は男子高校生二人が入っても余剰分がある程に広い。

 少し恥ずかしくて縮こまっている僕の目の前には、足を全開にして堂々と湯船に浸かっている先輩がいる。


 「涼太、明日部活ないだろ。放課後に何人かで集まって遊ぶんだが、お前も来るか?」

 「それって、部活の人たちですか?」

 「まぁバスケ部のやつも来るけど、他もいるな。お前も知ってる人だと、千野愛せんのあいとか来るぞ」


 千野愛先輩、確か陸上部の美人エースだって噂を聞いた事があるな……


 「千野先輩って、陸上部の人ですよね?」

 「ああ。俺と同じクラスでな。中学一緒で今もたまにグループで遊んだりする仲だ。優しいし、プライド高そうに見えるけど、陸上の事以外では結構アホだからお前でも仲間に入れるぞ?」


 先輩にアホって言われる千野先輩はちょっと可哀想だな、でもきっと、勉強面で、ではないんだろう。


 「みんな三年生ですよね? 僕なんかが行っても大丈夫なんですか?」

 「明日は四人だけだからな。俺と、愛と、同じバスケ部の一真かずまと、陸部の飯島夢花いいじまゆめかだ。半分知ってんだから、大丈夫だろ?」


 山内一真やまうちかずま先輩とはあまり関わりないけど、でもおっとりしてて優しいし、これなら大丈夫かな。


 「じゃあ、お邪魔じゃなければお願いします。放課後に校門の辺りで待っていれば大丈夫ですか?」

 「おう、みんなに伝えとくから。きっと歓迎されるぞ? お前、自分では知らないだろうが、意外と有名人だからな」

 「え⁉︎ それってどういう……」

 「俺みたいな見た目ヤンキーとつるんでるのにクソヘタレ。女子の間では可愛いって言ってる連中もいるが、大抵は面白がってるな」


 喜んでいいのか悪いのか。

 先輩が人気者なだけに僕は望まぬ形で有名に……いや、噂は正しいな。

 でも、僕の基本ステータスであるヘタレ加減を知っていてもらえてるなら、明日も案外やり易いかもしれない。

 今まで関わったことのない人と遊びに行くのも、また小さな一歩になる。

 こうやって、僕は、いや、男は新しいモノを摸索しながら、過去の悲愴感をしていくのだろう。

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