第5話:妖艶の誘い
神崎家は案外裕福みたいだ。
昨日は僕が廃人状態で気がつかなかったけれど、家は僕の家と同じくらいの大きさだし、車庫には高級外車が停まっている。
どうやらお金がないのは先輩だけのようだな。
昨日と同じく柔らかいソファに腰掛けると、先輩も隣に座った。
絢香さんは何か料理をしてるみたいだけど、お母さんはいないのかな?
聞いてみたいけど、もし粗相があったら嫌だし、普通は直接聞くものじゃないし……
「ん? そんなオドオドしてどうした? 昨日も来ただろ?」
「い、いえ、その……すいません」
「ったく、人ん家でへたれるのはやめてくれよ。一応言っておくが、姉貴の料理は美味いから心配すんな。あんな性格だが腕は立つ」
「ちょっと篤、後輩の前だからって調子乗ってると殺すわよ?」
「す、すいません……」
声だけでも十分な迫力だ。流石は元関東女連合の総長。
キッチンからは美味しそうなグラタンの匂いが漂ってきている。
絢香さんは本当に料理上手みたいだ。美人だし、本当は優しいし、さぞかしモテるんだろう。
「はーい、お待たせ〜。絢香特性のエビのクリームグラタンでーす。熱いから気をつけてね、涼太くん」
ソファの前にあるテーブルに置かれたのは、大きなエビが何匹も入った、香ばしい焼き目のある、見るからに美味しそうなグラタン。
普通にお店で見るやつよりも美味しそうだ。
「おい姉貴、俺の海老はどこいった?」
不満げな声をあげた先輩のグラタンの中には、エビが一匹も入っていない。
弟へのあからさまな嫌がらせだ。
「あんたの分は涼太くんの分よ。傷心してる可愛い後輩くんはエビでの療養が必要なの。わかったら黙って食べなさい」
「っち、しゃーねー……」
「黙って食べなさい」
「はい、すいません。いただきます」
先輩は心の底から黙ってグラタンを食べ始めた。
二人の力関係は日に日に明確になっていく。僕にとっては優しくて面白いお姉さんなんだけどね。
「じゃあ僕も、いただきます」
「はい、どーぞ」
グラタンは見た目の通り超絶美味だった。味だけじゃなく、絢香さんの愛情も勝手ながらに感じてしまった。
それ程に優しくて、柔らかい味だった。
「ごちそうさまでした、絢香さん。すごい美味しかったです」
「ほんと? なら良かった。それで、もうそろそろ話し始めてもいいかな?」
すっかり忘れていたけど、絢香さんに放課後の事を話しに来たんだっけか……
思えば先輩にもまだ説明してないし、言葉にすると心が痛むけど、ちゃんと全て伝えないと。
二人のおかげで僕の精神は崩壊しないで済んでいると言っても過言ではないのだから。
「はい。じゃあ、全て包み隠さず話しますね……」
僕は、放課後に交わした短くも長い会話を、覚えている限り一言一句そのまま伝えた。
話している間、先輩は少し俯いていて、絢香さんは笑顔を絶やさなかった。
変に表情から同情の念を見せないのは、神崎姉弟の優しさだろう。
僕も同情してほしい訳じゃない。でも、話している内に僕の口調は荒くなっていった。
裏切り行為に対する怒り。そして十四年間も騙され続けていた自分への後悔。
今でも本当に信じられないし、最後に見た香澄の
でも、早く忘れたい。一つの人生経験として、永遠に封印してしまいたい。
話し終え、ひと時の静寂が神崎家に訪れた。
先輩は少し難しい顔をして考え始め、絢香さんはすぐに口を開いた。
「涼太くんには、本当になんの心当たりもないんだよね? 香澄ちゃんが愛想を尽かすような、自分の事を理解してくれてないって言えるような何かは」
「……僕としては、ない、と思います。ただ、僕は自分でも分かる程に気弱なので、もしかしたらそれが原因かも……」
「いや、それはねぇよ」
先輩が勢いよく僕の浅慮を否定した。
「お前は気弱だ。それは間違いない。だけど、お前は人の何倍も優しい。そして何より、俺はお前が香澄ちゃんの事を一番に考えていたのを知っている。だから、あんな女の言う事を真に受けるな」
あんな女、と僕がまだ好きな人を否定されると、不思議と心が救われる。
好きだけど、恨んでいる。だからこそ、香澄が悪者扱いされているのを無意識に満足しているのだろう。
でも僕は、そんな自分を最低だとは思わない。
「香澄は、なんで僕に愛想を尽かしたんだと思いますか?」
「俺は香澄ちゃんがお前に愛想を尽かした、と言うよりは新しく好きな人ができて強引に振ったように感じたけど、姉貴はどう思う?」
「そうね。私が浮気したとして、なるべく穏便に事を済ませようと考えたなら、意味もなく涼太くんを突き放して、自分を蔑んで相手にも別れてもらおうとするかな? でも、これは真実かどうかは分からないからね。なんにせよ、涼太くんは直ぐにその子の事を忘れるべきだと思うよ。辛いだろうけど、そんな冷酷な事を嘘でも口にできるような子に執着してるのも勿体無いし」
絢香さんは女性としての意見を述べてくれた。
それに、全くもって正論だと思う。
今、自分をこんなにも傷つけた香澄の事を好きでい続けているのは少しダメな気がする。
いくら幼馴染だからって、いくら好きだからって、いくら優しくて可愛くたって、放課後の屋上で彼女の口から発せられた言葉は紛れもない真実だ。
数日前、いや、もっと前から僕の事なんて好きじゃなかったんだろう。
それを思うと、今まで僕が費やしてきた時間と労力が無駄になったような哀感に襲われる。
でも、それだと僕は香澄を愛することに対価を求めていたことになる。
見返りがなければ僕は香澄を好きになれなかったのか?
最初は報酬なんていらなかった。でも、今は渇望している。
一度手に入れた宝物を手放したくないのは当然か。
それが自ら離れて行ったら、より一層喪失感に襲われるのは当然の事。
心の全てを持ち逃げした大切な人を忘れる事なんて、そう簡単にはできない……
「僕は、僕はまだ香澄を忘れられません。だけど、頑張って、嫌いになろうとしている自分がいます。だって香澄は自分勝手に浮気して、それでいてあんなに冷徹な表情で僕を弄んで……」
「もっと言いたい事あるなら言ってもいいぞ? 不満を胸の内にしまったままだと、いずれ身を滅ぼすからな。だから言いたいだけ言えよ、な?」
神崎先輩は優しく言ってくれた。
でも、僕にはもう言うことが無いかもしれない。
不満に思っているのは、浮気の事と、嘘をつかれ続けていた事だけ。
いや、それでも十分か。
十分な筈なのに、この深淵の憤怒を
どちらの感情が優位な訳でもなく、拮抗した状態。
「何かに憤って、でも悲しい。そして喪失感に苛まされて、無理だと分かっているのに、取り戻したいって思っちゃいます……」
再び言葉を失ってしまった。
これ以上は言いたくない。言葉にすると、僕はさらに手の届かない物を欲してしまう。
そんな僕の頭を、隣に移動してきた絢香さんがそっと撫でてくれた。
優しくされると、無性に泣きたくなってしまう。
昨日みたいに、また絢香さんの母性に甘えたくなってしまう。
でも、それでは前に進めない。
理不尽な現実に涙を流すだけでは、前を向くことなんてできない。
僕はもう十分に後悔した。例え選択肢があったとしても、どの道僕は同じ想いをしていたんだろう。
別れた直後は分かっていた筈、いや、分かっていたフリをした。
現実は必ず僕に追いついてくる。そして、望む物は同じスピードで僕から離れていく。
先輩はダメな時はダメでいいと言ってくれた。でも、その言葉に縋るのはただの甘えだ。
拮抗した感情は、僕の傷心の原因。
それは一時的な慰めでは治ることのない、とてもとても深い傷。
混沌とする僕の心を浄化してくれる何かが欲しい。
それを見つけるのが、今僕のやるべき事だ。
「でも僕は、前に進みたいです。きっと香澄、いや、長瀬の事を完全に忘れるなんて事はできないし、数年たってもトラウマのように思い出すかもしれません。でも、できる限りこの悪夢を上書きできるような何かを探したいです」
さっきと比べて、いくらか明るい声が出た。
先輩は納得したように頷いてくれて、絢香さんは子供の成長を喜んでいる母親のような目で僕を見ている。
それでも、二人の顔は何処と無く冴えていないように見えた。
実際には僕の空元気を見抜いている、そんな何もかもを見通すような二人の表情。
そして絢香さんが、唐突にソファから立ち上がり、僕の目の前でしゃがんだ。
美人なお姉さんが、僕の顎に妖艶な仕草で手を当ててくる。
「あ、絢香さん?」
目を火照らせて、甘い吐息と共に絢香さんが言葉を発した。
「じゃあ涼太くん、私と
「……⁉︎」「姉貴⁉︎」
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