現実と真実〜幼馴染に浮気された高二男子の物語〜

朝の清流

第1章:涼太の現実(本編)

第2話:神崎家

 あれは、現実ではなかったのだろう。

 目を覚ますと、僕の視界は最愛の人の笑顔で埋め尽くされていた。


「香澄、さっきの男は誰?」

「何のこと? 涼太ったら、相変わらず起きた後はいつも寝ぼけてるね?」

 

 香澄に膝枕をされたまま眠ってしまった僕は、ゆっくりと体を起こした。

 慣れないふかふかなベッドの上であぐらをかく。

 すると香澄がちょこんと頭を僕の肩に乗せて、甘えてきた。


 そう、僕たちは一年記念日に大人の階段を登ったんだ。


 生まれ持ったヘタレは卒業して、勇気を振り絞ってホテルに誘った。

 二つ返事で了承してくれた香澄は、ホテルの前に着くなり、雰囲気を確かめるために口付けを求めてきて…………………………………………あれ?

 

「寝坊助な涼太はもう忘れちゃったの? 初めてだったのに……」

「わ、忘れてないよ。だってほら、現に僕たちは–––」

「……だから涼太じゃダメなんだよ」

「え? な、なにが?」

「そんな事も分からないの? と言うか、涼太って気弱で頼りないからやっぱり無理。––––––くんを選んで正解だったかも」

「か、香澄?」


 頭の下から柔らかな感触が消えた。

 同時に、僕はなぜかコンクリートの道に這いつくばっている。

 目の前にいるのは、狂気の笑顔を浮かべた僕の幼馴染と浮気相手の男。

 僕に見せつけるようにキスをし、ピンク色のホテルへ入っていく。


「香澄ちゃん、あの冴えない男は知り合いかなんか?」

「え? あんなカスみたいな男、知るわけないでしょ? そんなことより、早く行きましょうよ、––––くん!」

「なーんだ。ただのストーカーか。キモいから死んでくれないか? それと、俺たちの前に二度と姿を現わすな。わかったらさっさと消えろ」


 違う、あんな顔をするのは僕の知っている香澄じゃない。

 香澄は優しくて、嘘もつけないような純粋な子だったはずだ。

 そうだ、違う。これは現実なんかじゃない。

 だって、香澄は今でも僕の彼女で––––


「––––涼太」


 誰か他の男の声がする。荒々しいけど優しい声。


「––––涼太、しっかりしろ」


 僕の体を、誰かが揺すっている。 

 

「…………?」

 

 眩しい。

 良いにおいがする。

 少しして視界が晴れ、僕の顔を心配そうに覗きこむ神崎先輩が見えた。

 ……ここは、どこだ?

 見慣れぬ高い天井とクルクル回るファン。

 ふかふかな寝心地のソファと、後頭部に当たっているもちもちな感触。


「目、覚めた?」


 慈愛に満ちた声が降り注ぐ。

 視線を向けると、見覚えのない黒髪ショートへアの美女が、僕の頭をそっと撫でていた。まさか、このお方は––––


「め、女神様……?」


 そう思える程に、この美女は安らぎを与えてくれる存在だった。

 未だ朦朧とする視界の中、神崎先輩が呆れたような顔をし、女神様が頬を紅潮させているのがかろうじて見える。

 

「女神様だなんて、あんたの後輩は中々口がうまいじゃないか〜。彼女に浮気されちゃったんなら、私がもらってあげてもいいけど?」

「姉貴、冗談は程々にしてくれ。涼太の将来を思うと悪影響でしかない」

「あ? なんか言ったか愚弟?」

「いえ、なにも言っておりませんっ!」


 先輩が怯えた子犬のような表情で女神様に謝った。

 いや、女神様じゃなくて、先輩のお姉さんか。

 てことは、ここは先輩のお家で––––


「…………ぅ」


 吐きはしなかったが、嫌な事を思い出してしまった。

 あれは、そういうことなのだろう。

 浮気。

 香澄が別の男と関係を持っている。

 そしてその現場を目撃されても、罪悪感すら抱いていなさそうなあの表情……。

 まだ胸が張り裂けそうな想いに支配されている。

 全身を襲う怖気。胸中で燻るのは愛する人の裏切りに対する怒りだろうか?

 いや、でもまだなにも分からない。

 もしかしたら、何か理由があって仕方なく、とか……。

 ……と、とにかく、先輩にお礼を言わないと!

 体を起こして、先輩に顔を向けた。


「あ、あの、先輩が運んでくださったんですよね? すみません、迷惑かけて……」

「おう。まぁ、気にすんな。今は色々複雑だろうけどさ、さっさと忘れて次行こうぜ、次––––いっ⁉︎」


 バシンっと先輩の後頭部から打撃音が聞こえた。

 いや、ただお姉さんが平手打ちしただけなんだけど、まるで鈍器で殴ったかのような威力。

 先輩がお姉さんを畏怖する理由がなんとなく分かったかもしれない。


あつし、あんた後輩が悲しい想いしてんのに、なに無神経な事言ってんのよ。全く、こんなに可愛い少年をいじめるなんて。ひどいわよねぇ、涼太くん?」

「は、はぁ。え、えーと、先輩のお姉さん、ですよね?」

だなんて、やっぱりいい子じゃない。そうだよ〜、私が篤の美人なお姉さん。絢香あやかっていうの、よろしくね」

「よ、よろしくお願いします、絢香さんっ!」


「ドキュンっ」


 と言いながら、絢香さんが背中からソファに倒れた。

 明るい人みたいだ。僕の曇った心が少しだけ晴れたような気がするよ。

 絢香さんは、起き上がると、豊満な胸を僕の顔に押し付けた。

 体はどうしても反応してしまう。こんな状況だっていうのに、男の本能だけは正常運行みたいだ。


「絢香さん、だなんて。涼太くんはやっぱり可愛いね〜。本当に私が食べちゃおっかな〜」

「姉貴、本当に勘弁してくれ。涼太は好きな人としかそういう関係にならない真面目なやつで––––」

「なら涼太くんが私のこと好きになればいいのよね? 涼太くん、私のこと、好き?」


 唐突な展開すぎて全くついていけない。

 絢香さんの口調はどう考えても冗談だし、何処と無く先輩が僕をからかう時に似てる。

 やっぱり、姉弟なんだな。


「ぼ、僕は、その……」


 すると、先輩が僕の首根っこを掴んで、絢香さんから引き離した。

 なんか母ライオンに守られている子ライオンみたいだ。

 でも、そんな事をすると絢香さんが先輩を……


「涼太、はっきりと言ってやれ。こんな年増には興味ねーってな」

 

 バキバキバキ、と不気味な音が部屋中に鳴り響いた。

 絢香さんが指を鳴らしながら、鬼の形相になっている。

 あぁ、なんだか二人だけなのに随分と賑やかな家庭だな……


「待て、姉貴、顔はやめr……グハッ」


 先輩は僕を離して地に倒れた。相当な威力の一撃だったんだろう、可哀想に。

 

「あ、絢香さん。落ち着いてください」


 と、僕が先輩を介抱していると、また優しく頭を撫でられた。


「ちょっとは元気になったみたいで良かった。君、さっきまで死にそうな顔してうなされてたんだよ?」


 言われてみれば、ちょっとは元気が出てきたかもしれない。

 少しだけだけど、笑顔を作る余裕までできている。

 この場の優しい雰囲気を作ってくれた神崎姉弟のおかげだ。


「ありがとう、ございます……」

「ううん。いいの。涼太君は、なにも悪くないんだから」

 

 絢香さんの言葉が緊張の糸を切ったのか、途端に、両目から涙が溢れてきた。

 どうしてさっきまで泣けなかったのか、不思議なくらいに。

 静かに涙を流す僕を、絢香さんはそっと抱きしめてくれた。

 先輩も、僕の頭をポンポンと叩いて励ましてくれている。

 

「辛かったわよね。私は男の子じゃないから分からない部分もあるけど、受け止めてあげることはできるから。今は、泣いていいんだよ」

「だな。辛いときは泣けばいい。泣いて泣いて、そして気が済んらだら前を向け。そうやって、男は成長していくもんだ」

「……プププ。カッコつけちゃって」

「るっせぇ!」


 泣いた。

 耐えきれなくなって、ワンワン泣いた。

 涙が出なくなったら、自然と前を向けた。


「絢香さん、先輩……」


 僕は一歩自分の足で踏み出し、2人の顔を見た。

 腫れぼったくて重たい口を動かして、なんとか言葉を絞り出した。

 

「僕は……これから、どうすればいいんですか?」


 なにも分からないから、聞く。

 これからどう現実と向き合っていけばいいのかを。

 絢香さんは、まるで準備をしていたかのように、すぐさま答えをくれた。


「明日、学校でその子を何処かに呼び出しなさい。現場を見られた以上は応じてくれると思う。そして、彼女の本心を聞いてから、よく考えて決断するの。感情任せはダメ」

「俺の経験則で言えば、多分、どの道を行ってもお前は後悔する。結果はどっちでも変わらないと思って、気楽にいけ」


 先輩も絢香さんも、違うけど似たようなことを言ってくれた。

 全ては僕次第。

 別れを決断するのも、昨日の光景を受け入れた上で関係を修復するのも。

 今、香澄という存在を失ったら僕はどうなってしまうのだろうか。

 まるで太陽を失った人間のように、道に迷ってしまうかもしれない。

 だからなるべく、理由を聞いて、和解した方がいいと思っている。


 いや、それは建前か。


 まだ別れたくない。

 香澄とこれからも一緒に人生を歩みたい。


 裏切られた事実は変わらない。

 でもその事実の裏に何か訳があるなら、僕は彼女を許す。

 

 だから香澄。

 お願いだから、ちゃんと『浮気』していて。

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