3、心の穴を埋めるもの。(第一話 完)

翌朝。


男の腕枕に紗良は目覚める。


間近に、改めて見ても鼻筋の通った端正な顔立ち。

落ち込んでいた気持ちも、良質な行為をしたせいかスッキリしている。


愛の伴わない行為でも、この男は甘い快楽を紗良に感じさせてくれた。

そして、真吾しか知らなかった紗良に、奥深い官能の世界を垣間みせてくれた。


もう、長居は不要だった。


思い描いた快適な人生設計は昨晩、崩れ去ったのだけど、このいい匂いのする男により、驚くほど早く紗良は立ち直れそうである。


そっと起こさぬようにベットを抜け出してシャワーを浴びる。




「、、、朝食を食べていかないか?」


服に袖を通す紗良に、低い声がかかる。

その声は彼の纏う匂いのように、心地よい響きのする声だった。


「もう行かないと」


履き慣れないヒールで、かかとが痛い。

鞄に押し込んでいたベタ靴をはく。

スーツはスカート長目のいつものリクルートスーツスタイルだ。

化粧も控目、だけど、以前よりは濃いめにめりはりをつけてする。

髪は、弛く結んだ。


「泊めてくれて、一緒に過ごしてくれてありがとう」


おなじ服なのに、以前よりも魅力的になったような気がする。

男の纏う香りが、紗良にも移っているからだからだろうか?


「また、来週会えるか?名前を教えて欲しい」

男は紗良を引き留めようとする。


「紗良。でも、これでさよならよ」

それだけいうと、紗良はもう振り返らない。

恋人に振られた自分が、引き留めようとする男を残して行く。

傷ついた自尊心が、なだめられるような気がする。


真吾が中心だった人生はもう戻らない。

入社以来ずっと楽しみにしていた寿退社の夢は昨晩終わった。



紗良に残されたものは、いままでは辞めること前提で、腰掛け気分だった今の仕事だけだった。


メイクは自信を失っていた女を立ち直らせる、魔法をかける。

そんなメイクに関わる仕事をしている自分が、誇らしく思えた。

自分だって確かに救われた。


もっと真剣に取り組もうと紗良は思う。


この世界はもっと奥深いと思うのだ。

女を美しくするのは、メイクや服はもちろんのことながら、さらに匂いもそうではないか、と思う。


あの男が、あんたはいい匂いがする、と言ったとき、ぞくぞくした。

紗良は香水も何も付けていなかったのだけど。


彼の纏う和の匂いも、彼の体臭と混ざりあっていつまでもその男の胸に抱かれていたいと思った。


もう二度と嗅ぐことはないと思うと、ホンの少し残念な気さえするのだった。


そういえば昔し、香りで助けられたことがあったな、と紗良は思い出した。

落ち込んで泣いて帰った中学校の帰り、見かねたのだろう、見知らぬ着物の男に、


「これをあげる。嗅いでごらん?」


といい香りのする匂袋をもらった。


それを嗅ぐと、辛かったことが厚い雲が消えていくように、少しずつ薄れていったのだ。

紗良はそれをいつも持ち歩いていた。

匂いが薄れて、消えてなくなっても、何年も紗良は持ち続けていた。




ホテルから自宅への帰宅中に、ひとつの企画案を紗良は思い付いた。


企画案の提出は、社員全員に課せられた課題である。


現場から上がる企画案の優秀なものは採用され、実際に店舗で活かされたり、製品化されたりする。

製品化にはプロジェクトチームもできたりするのだ。


家に帰ると、その構想を勢いで一気に書き上げた。

それは週明けに提出する。

一夜限りの男のことも忘れて、平凡な日常生活に戻るのだ。



第一話 トップノート完

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