第2話 それでもこの冷えた手が

「こちらは『それでもこの冷えた手が』でございます」


 私の前に置かれたのは、升に入ったグラスだ。

 凍らせている?

 いや、グラスの形に削った氷そのものらしい。


「升酒か、いいね」

「いいえ。こちらをご用意したしました」


 マスターが、大きなボトルのキャップを開ける。

 香りから、梅酒だと分かった。


 凍ったグラスに、シャーベット状の液体が注がれる。


「どうぞ」と、マスターがグラスをこちらに寄せた。


「ほう、みぞれ酒かい?」


 みぞれ酒とは、シャーベット状に凍らせた日本酒のことである。

 四〇年前から開発され、今では梅酒も凍らせることができるのだ。


 凍結酒という呼び名もある。


「寒い季節に凍結酒は、と思ったのですが、リクエストでしたので」


「いただこう」


 うーん! 口当たりは冷えているのに、腹が熱くなる!

 凍っているのに温かさをくれる。

 このアンバランス! たまらない!


「はああ」と、ため息を漏らす。


「この酒はもう、この店では味わえないんだね。また、私の手から大切なモノが消えるんだね」


「申し訳ありません」


「いいよ。酔っぱらいの独り言さ」



 ちょうど数年前の今頃、私は女房と別れた。

 仕事が軌道に乗って、家族との距離感を掴めないでいた。

 だが、今更てを留めるコトはできない。

 家族を妻に任せっきりにした罰が当たったのだ。


 二人の子どもの親権は向こうにあり、私はお金を送るだけの関係に。

 

 家族を失い、冷え切った手。


 それでも冷えた手は、温もりを求めた。


 直後、変わり者のマスターと出会った。

 私はぽっかりと空いた心の穴を埋めようと、マスターを手助けするという考えに至ったのだろう。


 自分は、手を取り合う相手を失ったから。


「マスターは、どうしてこの事業をやろうと思ったんだい?」


「私も家族がおらず、孤独でした。ですが料理が、私と社会を結びつけてくれたのです」

 

 彼は腕を磨き、自分の店を持った。

 客の出すお題に応え、期待以上の料理を提供し続けた。


 すべてはお客さんの満足のため。


「私は、皆さんに恩返しがしたかったのですよ」


「マスターも、苦労したんだね」

 彼の話を聞いていると、自分は利己的な人間だと思い知らされ、気恥ずかしくなる。


「ありがとう。しばらく会えなくなるのは辛いけど、今度会うときは、また料理を頼むよ。食材はこっちでよういしたっていいからさ」


 私は、帰ろうとした。


 だが、マスターに止められる。

「お客様、もうしばらく、ここにいてくださいませんか?」


「なんだい。生娘みたいに」


「もうしばらくお待ちを。あ、いらっしゃいました」

 

「ん? 私が最後の客だと思っていたけど?」


 ドアが開くと、女が入ってきた。


「また会いに来たわ、あなた」


 元女房と、二人の子どもが。



 マスターは続けた。


「では、当店最後のメニュー『また会いにきたよ』をお楽しみください」

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