第58話 お姉ちゃん不敬罪リターンズ/お姉ちゃん愛護法違反


 あれから三日。

 浄化の塔の整備や、壊れた家屋の補修、そして魔物による内部汚染の被害に関してはひとまずの目処がついたそうだ。

 その辺り衛士たるリュディガーやレオディゲル、或いはあの保護した塔の権限者は忙しかっただろうが……シラノの周りは特に変わらずだ。

 強いて言うなら、また何かに備えて冒険者たちに街に留まるような依頼が出された――その程度だろうか。


「イアーッ!」


 ……ともあれ。早朝の今には関係がない。

 未だに薄暗い冬の朝の静謐な空気の中、かかり打ちを終わらせたシラノは手拭いで肌を拭った。

 我ながら、酷い有り様であった。

 服をはだけた上半身には、彫刻に金槌を叩きつけたかの如き火傷肌めいた傷痕が無数に浮かぶ。

 エルマリカに貫かれた胴は、心臓の程近くを抉るような大傷となった。

 そして移動の反動で骨が飛び出した前脛部。折れた大腿骨。割れた骨盤と潰れた脊椎。砕けた肋骨――。

 大小の血管は破裂し、腎臓と脾臓も損傷した。重度の火傷と長時間の圧迫による骨格筋の壊死……これだけでも酸性不均衡症状アシドーシスで七度は死せるというものだが、ともあれ脳の損傷がないのは幸いだった。精神とも密接に結びつく脳は、寄生でも直せない。

 身体の内外共に散々たる有り様で――……しかしそれでも一際特徴的なのが、落雷による火傷であろう。


(……これ、武侠みてぇだな)


 上半身にぐるりと巻き付いた朱い稲妻状の蔦。

 毛細血管めいて無数に枝分かれし、山脈状に枝葉が浮かぶ。

 肉体を伝わった雷撃が蔦植物を模った入れ墨じみた痕を為していた。そういえば前世で、これをリヒテンベルグ図形と呼ぶと聞いた覚えがある。

 首筋から始まり、背中を半周して左腕をすっかりと絡め取った朱い入れ墨。

 これでは温泉になど入れないかもしれない。いや、こちらの世界でどんな扱いなのかは判らないが。


「……ふぅ」


 ともあれ、まぁ、生きている。

 触手が呼び出せぬ代わりに――フロー曰く無理のしすぎ――横木の束を木の棒で殴ることしばらく。

 四肢はだいぶ馴染んできていた。元は彼女の精神だったそれが、だいぶシラノ自身の肉体に適合しているのだろう。


「君は、あれほどの戦いの後でも手を抜かないのだな」


 ぞわりと、全身が総毛立つ死の臭い。

 見やれば漆黒の気配を伴った漆黒の装いの男――一房だけの金髪が揺れ、陰気の強い顔から片眉だけがつり上がる。

 アレクサンドであった。


「……少し、話せるだろうか」

「うす」


 服を着直し、棒を下ろす。その間、アレクサンドは横木を物珍しげに眺めていた。


「……なるほど。君は、一刀に総てを懸けるのか」

「ええと……」

「いや……それは、確固たる意思の下でないと成し得ない技だ。決して譲れぬものがあるから、退けぬからこそできる技だ……故に君自身が一振りの刃になるのだろう」

「……」

「そこに君の覚悟を……神すらも斬り伏せんとする気迫を感じる。君の中の信念を」

「……うす、その、どうも」


 念仏めいて一定の声量で言われると反応に困る。

 重苦しい顔ながらアレクサンドはどことなく朴訥としている。真顔で言われると、世間話なのか本気なのか判らなかった。


「……それは君が触手使いであることと関係しているのか?」

「……どこで、それを?」

「あの恐ろしい――……いや、麗しい眼帯の剣士から聞いた。君が、古今無双の触手剣豪であると」

「……」

「……そのことで話がある。実は――」


 やがて、重々しく口が開かれた。



 オロロンゲボーロ、オロロンゲボーロと暗がりが明けていく冬の空をグランギョルヌールが飛んでいく。

 どれほどこうして話しただろうか。

 日は昇り、街中からは動き出す人の気配が伝わってくる。

 そんな内、苦く眉間を刻んだシラノを前にアレクサンドが終わりを切り出した。


「……最後に一つ。俺の妹が……エルマリカがこの街にいたと、天地創世の魔剣がこの街に来ていたと聞いた」

「……」

「そして、淫魔の手に落ちかけたとも……」


 伝えたのは、メアリか。

 伺うシラノの視線とアレクサンドの視線が交錯する。呟く彼はどこか、悩んでいる風でもあった。

 悩んでいるのか、悔やんでいるのか。それとも嘆いているのか。

 そして万感の思いを籠めたように一度目を閉じ、言った。


「……妹は、どうしていた?」


 様々な感情を籠め、それでも絞り出したような言葉であった。

 逡巡し――……シラノも結局、端的に応じた。


「助けて欲しいと――そう、言っていました」

「……そうか」

「はい。……他は、俺から言えることじゃねえんで」


 当人と話し合って、聞いてくれ――。

 そんな意図を籠めた視線は伝わるのか。果たして、アレクサンドはただ重く呟いた。


「それで、君が応えたのか」

「……はい」

「そうか。……君は天地創世の魔剣を前にも、引かないのだな。それ以上に大切なものが――……そして困難な敵がいるのだな」

「……うす」


 アレクサンドもまた、同じなのか。

 それ以上彼は何も言わなかった。頷いて、僅かにシラノが握る木棒を眺めるだけであった。


「……アレクサンドさんは、エルマリカに会わないんスか?」

「先程も言ったとおりだ。俺には、まだやることがある。……願わくばまた、君とまみえんことを」

「うす。……お元気で」

「ああ。君もまた、息災で」


 互いに礼を交わし、別れる。

 遠ざかっていくその背中と、彼に合流するノエルを眺めて吐息を漏らす。

 それは重く、冬の早朝に白く漂った。



 ◇ ◆ ◇



 今日の朝食は蕎麦そばのガレットに包まれた白身魚の蒸し焼きだ。

 所々に柑橘系の果皮が入っているのか決して蛋白ではなく、蕎麦特有の香りが口の中に広がって中々のアクセントである。疲れた体には塩が効いていて美味い。

 それにしても――と己の眉間の皺が深くなっていることに気付いた。折角の料理にも、まるで心躍る気がしない。

 おもむろにフォークを置こうとした時、切り出された。


「お姉ちゃん不敬罪だと思います」

「……またスか?」

「なんだいその言い方! そういうところがお姉ちゃん不敬罪なんだよ!?」


 ぴょこんと脇で作った黒の三つ編みが動く。

 頭に包帯を巻きながら、相変わらずフローは胡乱だった。


「ボクはね、すっごくすっごくシラノくんを心配したんだよ? 今度ばっかりは死んじゃうんじゃないかって思ったんだよ? 目を覚まさなかったらどうしようかって――……ううう、生きててよかったよぉ……」

「……すみません」

「でもシラノくんが謝るのはそこじゃないからね!? どこが悪いのか判るかい!?」

「……すみません」

「なんでわからないのさ!」


 うわ面倒臭え。

 一瞬口から出そうになったが、フローのそれは正論だ。何より命の恩人であり師匠である。無碍にする理由はなかった。

 ううむと首を捻り――……何も浮かばない。これでもかなり敬意を払っているつもりなのだが、


「まずね、あの日……第一声がなんだいアレは!? お姉ちゃんすっごく心配したんだよ!? すっごくすっごく心配して何処かで倒れてやしないかと思ったらセレーネさんと仲良く楽しそうに話してて、しかも『起きたんスか』だよ!? ボクがずっと寝てればよかったとでも言うのかい!?」

「それは……」

「それは?」

「寝てた方がよかったんじゃないですかね。というか今も。治りが違いますし……自分自身に寄生治療ができないってんなら」


 そう。これが一番驚いたことだ。

 触手は当人の精神の発現であり、物理的な側面を持つ。それでいて、外つ神の力を使っている。

 これが良くないそうだ。その人自身に使うと、“精神にして肉体”というものが“肉体そのもの”の支配域を奪い取る形となり――つまりその内での精神の比重が増し――これが精神のオーバーフロー、つまり暴走に繋がる。

 他人に寄生させる分にはその人の肉体と精神のバランスが崩れぬ以上、比較的安全ではあるそうなのだが……。


「おとなしく寝ててください。俺にはそれしか言えねーっス」


 うむと決断的に頷いた。

 寝る子は育つ……というのはともかくとして成長ホルモンの分泌が違うらしい。怪我を癒やすのには一番だ。


「なっ……シラノくん本当にお姉ちゃんが嫌いなの!? お姉ちゃんがひとり寂しく部屋で寝たきりになっててもいいっていうの!?」

「寝たきりは嫌っスけど……怪我が変な風に治るよりはマシなんで」

「うっ……な、ならせめて! せめてずっと看病してるとか言わないの!? ずっとお姉ちゃんの手を握っててくれたりしないの!?」

「いや……そうしたくても、俺がいると先輩いつまでも喋ってるじゃねーっスか。それに、宿代もタダじゃないんで……」


 金がいる。

 論功行賞はまだだった。世の中なんとも世知辛いものだ。


「うぇぇぇぇぇぇ……なんなんだよぉ……なんでそんなに冷たいんだよぉ……本当はボクのことが嫌いなのかよぉ……」

「……」

「なんか言えよぉ……お姉ちゃんのこと嫌いなのかよぉ……ボクなんてどうだっていいって言うのかよぉ……」

「いや……嫌いならそもそも一緒に旅なんて――」

「え?」

「……何でもねーっス」

「うぇぇぇ!? 何でそっぽ向くのさぁ!? なんで!? ボクの顔も見たくないっていうの!?」

「…………何でもねーっス。何でもねーっつってるじゃねえっスか。何でもねーんで」


 ごほん、と咳払いをひとつ。

 何となく気恥ずかしい気持ちを掻き消し、話題を変える。


「というか、ここ三日ほど考えてたんスけど」

「え? 何? お姉ちゃんがどうしたの?」

「……いや、その。実はお姉ちゃんじゃなくて、おばさんじゃないんスか?」

「え゛」


 潰れたヒキガエルのような声が出てた。人体ってすごいと思う。


「な、な、な、なななな……おばっ、おばさ、おばっ……」

「いや、あの時に当主が――って話されて……。おふくろが当主ってんなら、先輩はその姉妹かと思って。……なら、フローおばさんなのかなって」

「おば、おば、おばば、おばっ、おばっ、おばっ、おばさ……」

「……違うんスか?」


 理屈からいったらそうなるのが自然だと思うが――という視線は、テーブルに叩きつけられた手のひらに潰された。


「おばさんじゃないよ!? ボクたちの流派は百年近く前に別れたんだからね!? それでそっちが潰れそうで危ないからって頼まれて、ボクが最初の仕事としてシラノくんのことを迎えに行ったんだよ!?」

「あ、そうなんですね……なるほど……。尾張柳生と江戸柳生みたいなもんか……」

「ヤギュウ?」

「いえまぁ……」


 つまり、柳生兵庫助利厳と柳生十兵衛三厳の違いである。なるほど。

 実際その立場になると些か興奮せざるを得ないのが男の子の本音だった。いや、その当時の柳生家よりは分かれて長いのだろうが。


「つまり先輩」

「うん?」

「尾張柳生にしか伝わって……いえ、先輩の家にしか伝わっていない技とかあるんスよね?」

「……………………うん?」

「いやほら、指南役の但馬守……じゃなくてこう、こっちの流派には伝わってねえにしても……石舟斎に愛された如雲斎……じゃなくて先輩の家にしか伝わってない技があるとか」

「……」

「………………そういうの、定番じゃないんスか?」

「何が定番なんだよぉ……意味判らないよぉ……」


 ううむ。心当たりはないか。

 いや――……というかそもそも自分の師は母でなくフローであった。ならば、もう教えられているのかもしれない。

 それとも逆に母の側が本流を務める如雲斎サイドであり――


「……で、シラノくん? 話を逸らそうとしても駄目だからね」

「……」


 駄目だったか。


「とにかく! シラノくんはお姉ちゃんをもっと甘やかすべきだと思います! そしてもっとお姉ちゃんに甘えるべきだと思います! 親密にするべきだと思います!」

「……」

「もっとお姉ちゃん大好きって気持ちを表すべきだと思います! 師匠への敬意を表すべきだと思います! もっと先輩を大事にした方がいいと思います!」

「……」

「お姉ちゃんは寂しいと死んじゃうんだよ? かわいい師匠なんだよ? 大切な先輩なんだよ?」

「……じゃあ」

「うん。……うん? なんだいこれ?」

「俺の分まで食って早く傷治してください」


 皿を寄せた。

 まだ血が足りない気がするが、少なくとも怪我は快癒しているのだ。つまり我慢できる。

 三度の食事を一日の楽しみにしている為、心苦しい選択ではあったが――


「ふざけてるのシラノくん!? こういうこと言ってる訳じゃないからね!?」

「……じゃあどういうことっスか。具体的に」

「具体的に――……」

「……」

「た、例えばご飯を食べさせてくれたりー……ベッドまで抱っこして優しく運んでくれたりー……ずっと横で看病しててくれたりー……あと、こう、お……お姉ちゃん大好きーって? ぎゅ、ぎゅーって?」

「……なるほど」


 おもむろにナイフで魚を切る。随分やってるだけあって、いい加減この切れ味の悪さにも慣れた。

 あとはそれをフォークに刺し――


「先輩」

「うん?」

「じゃあこれ」


 行儀が悪いな、と思いつつフォークを差し出す。一応手を受け皿にしているが、そもそも食器の尖端を他人に向けているようでやはり礼儀がなってないのではないか。

 そんなことを考えていると、


「違うからね!? そうじゃないんだよ!?」

「……違うんスか」

「全然違うよシラノくん! そういうのじゃないの! ボクはそういうことを言ってるんじゃないんだからね!?」

「……先輩がやれっつったのに」

「だからそういうところが違うんだよ? ここはね、『お姉ちゃんが心配で心配でたまらないなー』みたいな気持ちと一緒にね、ふーふーってしながら恥ずかしそうにボクに差し出すんだよ? ボクにやれって言われたからじゃないんだよ? わかるかい?」

「はあ。……食わねえならいいっスけど」

「あ――――――――――――――――――――――――――!?」

「……今度はなんスか」

「なんでそれですぐ引っ込めちゃうのさぁ!? なんで自分で食べちゃうのさぁ!? シラノくんお姉ちゃんに冷たくない!? お姉ちゃんのこと本当に嫌いなんじゃないかい!?」


 うわ面倒臭え。

 言葉にしないのは頑張ったと思う。流石に師匠に対しての言動として無礼極まりない。シラノがただの転生者ならしてしまったかもしれないが、触手剣豪なのでなんとか踏みとどまれた。

 とは言え――これ以上、こんなことをしていても話は進まない。


「とりあえず、食ったら早いとこ寝てください。後で薬持ってくんで」

「うぇぇぇぇ……冷たいよぉ……虐待だよぉ……お姉ちゃん愛護法違反だよぉ……」

「……。……なら、ベッドまで優しく運びますか?」

「こんなところからなんて恥ずかしくて無理に決まってるじゃないかよぉ……。シラノくんのばかぁ……うぇぇぇぇぇ、お姉ちゃん虐待だぁ……ばかぁ……お姉ちゃんもっと甘やかせよぉ……ばかぁ……」


 ぐしぐしと鼻を啜りながら、しっかり二人分の皿を平らげたフローが二階に帰っていく。

 見送って杯をあおり、ため息と共に、


「……なあセレーネ」

「なんですか?」

「……俺、何が悪かったんだと思う?」

「ふむ。強いて言うなら――」

「言うなら?」

「全部、でしょうか」

「全部」


 難しいな。口から吐息が溢れた。


「……どうかされましたか? 先ほどから、どうにも覇気が足りてない風に見えますが……」

「いや……。……なんでもねえ」

「……ふむ。そうですか。あ、ところで死合はいつにしますか?」

「……そのうちな」

「なるほど、今夜ですね? ふふ、シラノ様との逢引き……これは心踊りますわ」

「……悪いけど、気分じゃねえ」


 呟けば、セレーネが肩を竦める。

 気晴らしに何か仕事でもするかと、重い腰を上げた。



 ◇ ◆ ◇



 しかし、仕事をすると言っても肝心の触手が使えない。

 おまけに〈金管の豪剣群ブルトリングス〉が折れてしまった以上は戦いに参加することもできず、やることといったら赫き豪腕を活かした瓦礫撤去だけ。

 まぁ、これも大切な仕事である――と思う反面、他の者のように上半身をはだけられないと冬とは言えどうにも暑いのが難点である。


「……」


 魔物の瘴気に汚染されきった神殿は未だに立ち入り禁止で、帝国時代からの地下墓地は邪教徒の罠により焼失が酷く、未だに罠が蔓延っている。

 前世の身分でならば歴史的建造物と言って良かった見事な街並みには火災の傷跡が刻まれ、大型の魔物が暴れまわったせいか崩された家も多い。

 梃子てこ代わりに使っていた木の棒を握り締め、思う。

 やはりあの邪教徒どもは生かしておけない。

 前世から引き続く甘ったれた倫理観が故に未だに積極的に致命打を放てないシラノであったが、奴らに対しては仮に本当に殺害に至ってしまっても何ら精神的な呵責は無縁であろう。

 それほどまでに奴らは致命的だ。致命的なまでに、邪悪であった。


(まぁ……司法がしっかりしてるってんなら、俺が討つのも……なんつーか、おかしな話か。そうだよな……)


 吐息と共に、瓦礫に腰を下ろす。

 随分と自分も染まってきたな――と思う。セレーネ風に言うならば、慣れや成長なのだろうが。

 あの日だって、フローが血に濡れているのを見た瞬間頭が真っ白になった。

 殺人は忌避されて然るべき――そんな前世の理屈も飛んだ。死んでも構わぬ、いやむしろここで全て殺すという気持ちで並み居る敵を斬り捨てたのだ。

 そのことに反省はないが後悔はある。

 ただの暴力装置になってはならない。やはり、信条としてはなるべく超えてはならぬ一線を保つべきであり――


「あの……」


 呼びかけにふと見上げれば、水差しを持った茶髪の少女がそこにいた。

 作業員の慰撫の為なのだろうか。女性や子供たちが、差し入れを持ってきているらしい。


「あ、うす。どーも……」


 差し出された杯を受け取り、あおる。蜂蜜と果実の混ぜ合わされた液体が、程よい酸味として口腔に広がった。

 それにしても難儀なものだと思った。少女を除き、他の皆はシラノを遠巻きにしている。

 やはり触手使いというのは未だに受け入れられ難いのだろう。……シラノは気にしないが、フローに関わると思えば別だ。


(……)


 如何ともし難いな、と眉を寄せれば、


「あの……いい、ですか?」


 少女はまだ、シラノから離れない。

 不思議なこともあったものだ。冒険者はさておき、街の人間からの触手使いへの扱いなど幕末の異人同然である。


「俺に……何か?」

「わたしのこと、覚えて……ないですか?」


 つり上げた片眉に僅かに気圧された風ながら問いかける少女に、黙考する。

 年若い。ひょっとすれば、エルマリカよりも年下だ。

 だというのに酷く不釣り合いなほど大人びた目で、そこだけが違和感として突き刺さる。自分が会った人間の中に、これほどまで外見と内面が釣り合っていないものがいるだろうか――……


「……いや」

「……」

「まさか、あの村の……スか?」


 零した呟きに、少女が首肯で返す。

 かつて斬り結んだ百体の魔物。シラノが触手剣豪として、一定の練度を確立するより前に出会ったその災禍。

 村人すべてを魔物に変えられて――――そしてそんな地獄からただ一人生き残った生存者。それが、目の前の少女だった。


「……」


 しばし、何も言えずに過ごした。

 周りの男衆たちはぽつりぽつりと消えていく。昼食時だからか。それとも解散なのか。シラノに、声はかけられなかった。

 どれほどそうしていただろうか。やがて、目の前の少女が声を絞り出した。


「聞きました。……あなたが、わたしたちの仇を討ってくれたって」

「俺は……」

「……ありがとうございます。正直、村の仇だって言われても……判らなくて。判らないまま、今まで来ていましたけど……それでも、これ……」


 そして、少女が布袋を差し出す。

 薄汚れた銅貨だった。


「形が前後してごめんなさい……。でも、仇がいるなら……村をああした奴がいるなら……! そう思って、そう思ってずっと……! ずっと、わたしは……!」

「……」

「本当はもっとちゃん集めたかったけど……まさかこんなに早いなんて思わなくて……その……」

「いや……これは受け取れ――」


 言いかけて、少女の手が映った。

 水仕事にか、あかぎれの酷い手。そして慣れない針仕事にか、赤く斑点のついた指先。少なくとも前世では、この年頃でこうなっているのに出会ったことはない。

 それほどまでに――……。

 それほどまでに、この少女は――――。


「……」


 一度、瞼を閉じた。そして、決断的に頷いた。


「……判った。これは、丁重に使わせて貰う。……君なりの、ケジメなんだな」

「……ありがとうございます」

「受け取ってるのはこっちなんで」


 片手で礼をし、懐にしまい込んだ。

 服にのしかかるそれは、伝わる重さよりも、重かった。

 それきり所在なさげに佇む少女にかけられる言葉はない。あちらも多弁でないのか――そうなってしまったのか――特にこの重苦しい空気では、言うべき話もなおさらない。


「……」


 腰を上げ、ボリと後頭部を掻く。


「その……一つ、頼みたいことがあるんスけど……構わないスか?」

「え?」


 意外そうに、少女の目が見開かれた。



 ◇ ◆ ◇



 石畳の街並みを、煤や土埃に薄汚れた男たちが方々へと歩き去っていく。

 どうやらやはり、仕事はひとまず解散だったらしい。

 そんな中、シラノと少女は一際賑やかな色の店に足を運んでいた。

 先ほどよりはどこか自然な表情で、少女はシラノを見上げて言った。


「お花屋さん、行ったことがなかったんですか?」

「この街に来て、あんま長くないんで」

「わたしより……長いんじゃないんですか?」

「……あァ、まあ」


 誤魔化すようにマフラーを鼻先まで上げる。

 見抜かれたような微笑から伝わる居心地の悪さに視線を逸らす。それを見て、少女がまた笑う。

 見舞いの花束を担ぎながら一瞥し、内心吐息を漏らした。寂しげだが、彼女はまだ少なくとも笑えるのだ。

 僅かに黙考し、懐から革袋を取り出した。


「悪い、助かった。……それと、これ」

「え? ……これは、種ですか?」

「……ああ」


 きょとんと眺める少女を前に、一度沈めるように息を吸う。

 息を吸い、言った。


「種だから……育てなきゃ、供えられねえ」

「え……?」

「……あの村に。今は入れねえかもしれねえけど、育てなきゃ……咲かせなきゃ、供えられねえんで」


 シラノの言葉に少女は停止した。

 表情を凍らせ、そして泣くとも笑うともつかぬ形で彼女は頬を崩した。

 笑みと呼ぶにはあまりにも沈痛で――だからこそ、目を逸してはいけなかった。


「……ふふ、育てろって言うんですか? わたしに? 花を、育てろって?」

「……」

「あなたは……生きろ、って言うんですね……。たった一人になっても、生きていけって」

「……」

「……そっか。わたし、まだ、死んじゃ駄目なんですね。みんなのところに、行ってはいけないんですね」

「……あァ」


 相槌以外、返せるものが見つからなかった。

 村を焼かれた経験も、この世にただ一人残された経験もない。本当にひとりぼっちになった気持ちばかりは、判らなかった。


「そう、ですか……あなたは、生きろと言うんですね」

「……死んだら、何もかも終わっちまうから」


 何とか漏らすように返した言葉に、少女は肩を崩した。


「あなた、不器用な人ですね。すっごく不器用でとっても優しくて、でも厳しくて、少しズルい人なんですね……」

「……」

「ごめんなさい。でも、ありがとうございます。……お花、きっと育てていきますから。あなたに助けられたんだから、育てていきますから」

「ああ……」


 いつか悲しみは癒えるなどと、無責任なことは言えない。

 しかし、この先も喜びが待っていないと捨てることもできない。

 シラノにできることは、こんなことしかなかった。

 どんな形だとしても――生きていてくれるなら、復讐という目標を失ってもまだ生きてくれるなら、それに勝ることはないのだ。


「お兄さん」

「……」

「わたし、きっと花を育てますから……あなたもきっと、花を供えに来てください。一緒にあの村に……。これは、約束ですから」

「……ああ」


 小さく頷く。それで僅かに、彼女の気も晴れたらしかった。


「それじゃあ、あなたもお元気で……」

「……」

「……こういうときは、『また会いましょう、素敵なお嬢さん』って言うんですよ?」

「あァ……またな」

「はい。……ふふ、不器用な人。また、いつか」


 そして、少女は背を向けて去っていく。

 その姿を見詰めながら、あの歌劇の主演に――輝く夢を魅せる少女ジゼルに自分は遠く及ばないなと思った。

 吐息を漏らす。

 やはり、剣しかない。自分にできることは、それしかなかった。


「……淫魔、か」


 アレクサンドとの会話を反芻する。

 一度瞼を閉じ――――開き直して、覚悟を決めた。



 ◇ ◆ ◇



 木と石で組み合わされた階段を上がり、年季の入った廊下を一直線に歩く。

 冒険酒場は普段よりも賑わいが薄れている。アレクサンドに、随分と叩きのめされたらしい。

 だが、それは良かった。目当ての部屋に辿り着くなり、扉を叩く。


「うぇぇっ、セレーネさん!?」

「俺です。……今、着替えとかしてますか?」

「ち、違うけど……」

「んじゃ失礼します」


 ガチャ、と扉を開くとフローがシーツの下に何かをしまい込んだ。


「いや、薬が苦いとか思ってないよ? 思ってないからね? 飲みたくないなーとか思ってないよ? ましてや隠そうとも……」

「……」

「なにさその目は!? もうちょっとボクのこと信用してもいいんじゃないかい!? ちゃんと飲んでるよ!?」

「……いやまぁ、いいっすけど」


 それともここは無理やりでも飲ませるべきなのか――と逡巡して、溜め息と共に打ち消す。

 話したいのは、それではないのだ。


「セレーネは?」

「ちょっと席を外してるけど……セレーネさんを待った方がいいかい? あ、だったら折角だから果物とか――」

「いや――……先輩」

「うん?」 

「……大事な話です」


 シラノの雰囲気に圧されたのだろうか。姿勢を正すフローを前に、おもむろに口を開いた。


「今朝がた、アレクサンドさんに言われました。……どうして触手使いがこんな扱いをされているのか。……どうして、淫魔について伏せなきゃいけないのか」

「……」

――それがこの国の……この世界の、沈黙の掟なんだと」


 淫魔――。

 奴らの武器は、その狡猾さだ。

 シラノ同様にあちらの知識があるならば、その中にはシラノと異なり上手に活かせるものがいる。歴史とはいわば、ウィルスとワクチンに近い。使う者が使えば、強力な毒薬となる。

 だからこそ。

 その存在を立証してしまうこと。そして生まれる疑心暗鬼は――過去の地球の歴史をなぞるように猛威を振るう。

 故に、のだと――そう言われた。

 理屈は判った。

 だがそれが齎す影響は、ことシラノにとっては致命的であった。


「だからまずは……今回の一件で、先輩の功績が報われることはないそうです……。すみません……俺ァ、食い下がれなかった」

「シラノくん……」

「……あの議会の二人の伝手を頼ろうかとも思いました。でも――そうやって淫魔を公にすることが、逆に先輩たちの心を損なう気がして……」


 彼女たちは、淫魔と戦う者だ。淫魔の被害を防ごうとする者だ。

 だからこそ公表をするということは――その秘匿された歴史を公に認めさせようということは、そのこと自体が彼女たちの理念に泥を塗ってしまうことになる。

 そう言われて、頑として貫けるほどのものはない。

 そして淫魔が認められない以上、それと戦う触手使いの功績が認められることはない。

 ……それは、あまりにもどうしようもない事実であった。


「……すみません。面目次第もねえ」


 立つ瀬がなかった。腹を切りたいとは、こういう気持ちか。

 シラノが現代人でなければ、その場で介錯なく切腹を行っていただろう。それほどまでに忸怩たる思いだった。

 だというのに、


「大丈夫だよ。……ふふ、だってね? ボクたちはずーっとずーっと嫌われものの触手使いなんだから、ね?」


 なんでもなさげにフローは笑う。

 どこか寂しげで、それ以上にもう慣れたと言わんばかりのその笑みに――ギリと奥歯を食い縛った。


「……俺ァ、それが許せねえんです」

「え?」

「なんで……なんで当たり前に生きれる道捨ててやってることが、誰の目にも映らないで報われないんですか。なんで、それなのに受け入れるんスか。……なんで先輩が、そんな何かに耐えて寂しそうに笑わなきゃいけねえんスか」

「シラノくん……?」

「……そんなことあっちゃならねえ、そんなものだけは許しちゃならねえ……そんな酷い話が、許されていい筈がねえ。絶対にそんなことは俺が許さねえ。そう思って、俺は……。なのに……」

「……」


 握り締めた拳が震える。噛み締めた奥歯が軋む。

 骨が音を立て、爪が手のひらに突き立たんばかりにめり込む。内心の憤懣だけで、すべてを斬り捨ててしまいたくなる。

 だが――何とか呼吸を絞り、鼓動を落ち着けた。

 話はまだ、ここからなのだ。


「……一つ、アレクサンドさんから聞いたことがあります」

「えっと、なに?」

「エルマリカがああなった――奴らに魅入られたのには、数年前にその下地が作られてたんじゃないかと。心の揺れ幅を崩されて、ああなったんじゃないか……と」

「えーっと……」

「それにもう一つ。……今回の邪教徒の蜂起、前例がありますよね。それもまた――――数年前に」


 言葉を区切れば、フローは紫色の目を見開いた。


「まさか……まさか、シラノくん……それって……」

「ええ。おふくろの死が決定的に封印の解除に繋がったってんなら、話が合わねえ。数年前にエルマリカの洗脳や、邪教徒の蜂起ができる筈がねえ」

「それって……」


 喉を鳴らしたフローが、


「ひょっとして……大昔の封印を逃れた淫魔がいるかもしれない、ってこと? それが今回の騒動全部に関わっているかもしれない……って?」


 そう伺う瞳へ、首肯で返した。

 確証はない。だが――――何故始まりがあったのかと問われれば、思い当たることは一つだった。


「可能性は高いと思ってます。……この件を仕組んだ、総ての黒幕がいる可能性が」


 始まりとは、それを始める人間が居てこそ成り立つのだから。

 単なる推論と呼ぶには、無視できないほどに状況証拠が積み上がってしまっていた。

 そして、これからが最も伝えなければならないことだった。


「じゃあ……」

「うす。……俺はそいつを見付けて――見極めて、それでもどうしようもねえなら……斬ろうと思ってます」

「シラノくん……」


 言うべきかは、迷った。

 案の定、


「シラノくん……でも、彼女たち……その、シラノくんと同じだって……」

「……」


 悼むように向けられたフローの視線に、僅かに口を閉ざした。

 これまでの三日間彼女が触れず、そしてシラノも口にしなかったその言葉。

 確かに――確かにあの戦いの後、そのことは頭の中にあったが、


「……俺は、人が苦しむ顔を見て愉しいとは思えません。人が悲しむ顔を見て、嬉しいとは思えません。……そんなこと、思える筈がねえ。思える訳がねえ」

「シラノくん……」

「だから――それだけでアイツらを斬るには十分だ。……いや、それに……元が俺と同じなら……同じ人間だったなら……だからこそ変わり果てる前に……」


 エルマリカのように、嗜虐的な思考の持ち主もいる。

 或いはセレーネのように、常軌を逸した嗜好の持ち主もいる。

 そのことだけが、罪ではあるまい。罪に対する罰を叫ぶ資格などシラノにはない。

 だが――淫魔が自分と同じだったと言うなら。

 彼女ら曰く、相応の罪もなく死した魂だと言うなら。

 あの断末魔の如く、それが彼女たちの根底である真実だったと言うなら。


「アイツらも俺と同じ人間だったってんなら……だからこそ、止めねえとならないんです。これ以上、変わってしまう前に……その最後の心が、狂い果てる前に。人食い虎になる前に」


 憎むべきはその所業ではなく。恨むべきはその性根ではなく。

 斬るべきはまさに――――その業であった。


「すみません……勿論、最初に決めたモンを捨てる訳じゃないです。俺の剣名で触手使いへの風評を晴らす――その思いは変わってないです」

「……」

「……だけども俺は、この件を見過ごしてはおけない。放ってはおけないし、何よりもこれまで触手使いが紡いできた想いを嘘にしたくねえ。先輩たちの先祖が代々そうして受け継いできたことを……無視したくないんです」


 二足草鞋で上手く行くか。

 二兎を追って二兎を得られるか。

 そのことを、朝から考えていた。

 悩んで、そして――――無視できないという結論に至ってしまった。


「……すみません。二兎を追うことになれば……触手使いの汚名を晴らすには、もっと時間がかかるかも知れないです」


 視線を合わせられず、目を伏せたシラノの頭に――襲いかかったのは衝撃であった。

 いや、赤い触手だ。

 瞬く間に両腕を縛られて、吊るし上げられた。


「シラノくん」

「先輩……!?」

「ボクを誰だと思ってるんだい? ボクは君の触手使いとしての先輩だよ? 君の先輩で、触手使いとしての師匠なんだよ?」

「……」

「こういうときに優先するのは何か判るよね? ボクたちが悪く言われることなんかより――――淫魔が本当に居て、その黒幕がいるなら……やるべきことは一つしかないじゃないか! シラノくんだって、触手使いならそうするべきだってわかってるんでしょ?」

「……うす。それは、判ってます。だけど――」


 だからこそ……。

 迷いなくそちらを選べる――彼女がそんな人間だからこそ、


(そう迷いなく決断できる先輩が、触手使いが……いつまでも誤解されてるのが我慢ならねえんだ)


 何よりも報われて欲しかった。

 すぐにでも報われて欲しかった。

 歯噛みする。頬が切れて、血の味が口腔に広がった。

 そんなときだった。


「ふむ……詳しく話は読めませんが、淫魔を討つことと触手使いの汚名を晴らすことは同じなのではないですか?」

「セレーネ?」

「セレーネさん?」


 後ろで扉が開いた。居たのは、配膳を持ったセレーネであった。

 小机に盆を置きながら、彼女は軽く肩を崩した。


「ええと………仮に淫魔の中にシラノ様のような方もいるなら、全て斬り捨ててしまうのは乱暴でしょうが――邪悪なる淫魔を斬り捨てて、その後に『実は淫魔は本当に居ました』と明かせば別に問題ではないのでは?」

「あ……いや」

「淫魔に対しての備えで明かせぬというなら、淫魔を討てば明かしても良いでしょう? それこそ邪悪を討ち、剣名を轟かせるというのは古今東西の騎士物語の必定ではありませんか」

「それは……だとしても……」


 邪悪を討ったが故に剣名が轟くことと、剣名を響かせたい為に邪悪を討つこと――その間には、大きすぎる溝がある。

 そんな想いを汲んだように、セレーネは付け足した。


「無論、売名の為に悪を討つことにはばかりがあるというなら致し方ありませんわ。しかし冒険者とは多かれ少なかれ、そのような想いを胸にしたもの……」

「……」

「しかし、そこに邪悪を許せぬという思いがあるならそれもまた真なのです。決してどちらかが偽ではなく、どちらかが誤ではない。……どちらの思いもその個人の大切な信念で、貴賎はありませんわ」


 人の信条を喰らう剣鬼――セレーネ・シェフィールドらしい答えだった。

 そこに、おずおずとフローが上目がちに、


「えっと、シラノくん……見付けるって言ったけど、具体的にどうするかは決まってるの?」

「街を巡って……今回みたいな不穏さがある場所に向かったり……人から話を聞いて……手がかりを見付けたり……」

「んー、そっか。だったらほら……今までとやることはあまり変わってないよね?」

「……確かに」


 言われてみれば、であった。


「むしろ、そうですね。より等級を上げれば様々なところに顔を出す機会に恵まれましょう。……つまり、より一層励むことが大切なのです」

「じゃあ、これまでとあんまり変わらないね」

「ええ。元より根無し草の我々が生きていく術など、そう多くはありませんわ」

「うぇぇぇぇぇ、ボクには根はあるもん……!」


 そうして明るく語り合う二人を見て、吐息が零れた。

 肩の力が抜けて、頬が勝手に崩れる。


「……ハハッ、一人で悩んでて馬鹿みたいっすね、俺ァ……。いや、すみません」


 なんともどうしようもないことだった。

 らしくもない――という気がするし、これが自分だという気もする。

 いずれにしても、話してみればこれほど簡単に解決することであったのだ。


「そうだよシラノくん、水臭いじゃないか! ここにいるのは君の師匠だよ? 先輩だよ? お姉ちゃんだよ? いや、その……この間の戦いだとちょっと頼りないとこ見せちゃったけど……」

「まぁ、私はそういうところがシラノ様の美点だと思いますが。……ええ、具体的には守った相手が笑っているところを満足げに眺めて一人で路地裏で朽ちそうで……。とても可愛らしいと思いますわ」

「うぇぇぇぇぇ……シラノくんが死んじゃっていいわけないだろぉ……」


 喋り合っている彼女たちを見れば、腹の底からどうしようもない笑いが浮かんでくる。

 そうだ。

 元より人一人、抱え込んでなんとかできるだけの甲斐性などない。自分は、そんな英傑ではない。


(……あァ。難しく考えすぎだ、俺は。俺にはコレしかねえんだ……まずは、斬るだけのことだ。より鋭く、斬ることだけだ。ただ斬るだけだ)


 悩むのも悔やむのも全てが終わってからにすればいいと思えど、その結果がこれだとなんとまあ救えない話だろう。

 剣の道に生きる。それ以上でも、以下でもない。

 せっかく得たこの得難い仲間を守る為にも、譲れぬ己を貫く為にも、何はともあれ剣豪として邁進するのみである。

 腹は決まった。

 というか普段から自分の言っている通りだ。自分はいつだって、こうとしかあれないのだと――


「シーラーノー! シーラーノー! ちょっとあんた仕事――――――! 仕事再開してるってーの―――――――! 〈銀の竪琴級〉の叙勲式までに露銀貯めたいっつったのはあんたでしょ――――――!」


 ……。


「シーラーノー! あんたねえー! あたしも! 忙しいの! 今ご飯の時間! ご・は・ん・の・じ・か・ん! ごー! はー! んー! のー! じー! かー! んー!」


 階下から怒声が響く。

 食事の邪魔をされたアンセラは、冬眠しそこねた熊より恐ろしい。


「……やべえ」


 やはりあれは解散ではなく昼休憩だったのかと触手の拘束を外す。

 仕事を請け負って途中で放り出す人間。そんな評価は望ましくない。


「ああ、今回の功績で昇格でしたっけ。……この街から去るのも名残惜しい気がしますわ」

「うん……寂しいなぁ……。ボクだって、結構みんな仲良くなれたんだよ……」

「あら、それは重畳ですわね」


 フローの護衛にはセレーネがいる。

 ついでに「淫魔は戦いが大好きで大好きで一も二もなく斬りかかられるのが好き」「むしろ一太刀で切り捨てにかからないのが失礼」と吹き込んでおいたので、まぁ、何かあっても安心だろう。

 ……酷い風評被害を作ってしまったような気がするがやむを得ない。奴らの言葉通りなら、狙われるのはフローだからだ。


 ともあれ……。


「先輩。セレーネ」

「うん?」

「如何されましたか?」


 振り返る二人の視線が集中するのに、頭を掻きながら、


「いや――……行ってきます」


 そう頭を下げ、部屋を後にする。

 誓いは一つだ。

 白神一刀流に敗北の二字はない。――いつだって、どこだって、ただ負けぬように真っ直ぐ進んでいくだけだった。


 そうだ。

 自分は、触手剣豪なのだから。









 ◇ ◆ ◇



 冒険酒場のすぐ真向いの建物。その路地裏。

 長身と矮躯。外套を被った二つの人影は、酒場をあとにした影を眺めながら口を開いた。


「……いいの?」

「ハッ、いやぁ……あの兄さんが不景気そうな面してるならいっそここで殺してやるのが情けかと思ったがね。なんだい、いい顔してるじゃねえか」

「……」

「そうだよなぁ、お兄さんにそんな顔は似合わねえ……あんたはいつだって迷いのない剣じゃなきゃならねえ。狼は、悔やまねえもんなァ。悩みで辛い顔は似合わないぜ」


 くつくつと笑う飢えた野犬の視線に少女は黙り込んだ。

 あの騒動の後――彼女は回収されていた。いくら洗脳をされていたとはいえ、元より外法であるまつろわぬものの邪術使い。極刑は免れないだろうと、隣に立つ男に言われた。

 薄汚れた風体の、風格のない男。

 ただそうしていると誰からも軽んじられそうな――そんな男は、恐るべき魔剣使いだった。


「いやあ、次に逢うときが愉しみだねぇ……。色々と、見せてえものがあるからな。あぁ、愉しみだねぇ」

「生きて逢えると思ってるの……? そんな身体で……」

「おれは自分と剣を信じてるのさ。おれと、兄さんには縁があるってな。おれが兄さんを斬り捨てるか、おれが斬り捨てられるかの二つに一つだ」


 酷薄に嗤って、男が左肩を抑える。

 そこから零れるは、黒き瘴気。

 これが、少女が男に連れられている――男が少女を逃さない理由であった。


「いいねえ。世界ってのは希望に満ち溢れてる……輝いて見えるぜ」


 そうして男は目を細める。

 彼は、この世界全てに恋をしているようであった。

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