第57話 ベイン・オブ・サキュバス その五


狼煙のろし、あげねえと……」


 刃が欠けた野太刀を支えに、引きずるように歩く。

 空を見上げ――力を失いそうになる。

 宵闇を朱く裂いて弾ける火の粉。墓場めいた石造りの街が、夕焼けめいて闇を押しのける。

 もうもうと立ち込める煙に――これで、狼煙が意味を為すのか。

 暫し黙し、また歩き出した。

 考えるより、動け。止まれば朽ちて死ぬ。このままなら、朽ちて死ぬ。

 動け。約定だった。そういう約束だった。約束は、守らなければならない。動け。

 せる。いや、咳返した。ひゅうひゅうと掠れた音が鳴る。ごぼりと、塊のような血痰が落ちた。

 鎧の下の己の肉体がどうなっているのか――。

 それが、恐ろしかった。もう、とうに肉体だけは死んでいて精神だけが身体を動かしているのではないか。考えると寒気がした。

 死ぬ。

 その事実がのしかかる。敵も居ない、味方も居ない。心を奮い立たせる必要がない。そうなると、足に絡みついてくる。

 死ぬのか。

 呟いた。声になっていたかは判らない。

 そのまま繰り返した。俺は、死ぬのか。


 後悔はない。反省はない。ただ、己一人で向かい合う死は何よりも恐ろしかった。

 これは、まともな死なのか。前よりもマシなのか。

 死にも何もない。答えが浮かんでくる。その通りだと、妙な笑いが出てきた。

 万物を断つ剣よりも、秘剣を破る剣よりも、どこまでも飛び来る剣よりも、無数に襲いかかる剣よりも、天地創世の魔剣よりも――――。

 恐ろしかった。己一人で向き合う、なんの飾り気もない死というものは恐ろしかった。

 寒い。そして、酷く眠い。

 恐ろしいのだ。恐ろしいのに、落ち着いている。今度は何かをやり遂げたのだと、そんな風にも思えてくる。

 膝が折れそうになるのを、何とか堪えた。

 ……そうだ。約束がある。大切な約束がある。

 約束は、守らなければいけない。


「まだ、死ねねえ」


 呟いた。思ったよりも、はっきりと聞こえた。

 そして、悲鳴を耳にした。駆けてくる男、三人。母娘が追われている。

 揃いの黒フード。邪教徒。つまづいた母娘――――気付けば、震える手で剣を構え直していた。


手前てめぇら、退け。その人たちから、離れろ」


 歯を喰い縛った。

 ここが死地だと言い聞かせる。ここが死地なら、死人が歩いていても不思議ではない。

 たとえ身体が死んでいても、立て。死人でも戦え――そう命じた。


「キサマ……触手使いか、その顔は……!」

「しょ、触手使い……?」


 邪教徒の怒号に、母娘が怯えた風な目を向けた。そして血塗れのこの姿を見詰めて、また凍る。

 笑いかけてやりたかった。安心させてやりたかった。だが、今は歯を喰い縛らなければ立っていられない。


「……手前てめぇら、その二人から離れろ。今なら斬らねえ」

「随分と無様な姿になったな、触手使い! 我らが〈永劫に真に尊きもの〉の思し召しもあったものだ……! ここで討ち果たせるとはな……キサマのような邪悪の根源を!」

「……退く気は、ねえんだな」


 息を吐くと同時だった。

 膝を抜いた。羽の如く地を滑る。一人目、腿を斬り上げた。

 肩からぶつかった。一人、撥ねる。刃を半ばで握り締める。

 死にかけの身は、却って余分な力なく動いた。刀身を握った刃で脇腹を刺し、放すなり腕の甲で峰を跳ね上げる。

 回り、背中からぶつかった。襟元を掴む。男の服に皺が入り――担ぐように、立ち上がろうとするもう一人へと投げつけた。


「……奥に、早く」


 顎で促し、横道に押し込める。他に複数、足音が聞こえていた。或いは本当にそれが音なのかは、判らない。

 咳き込んだ。行き止まりの袋小路。壁のそばで、怯える母娘が抱き合っている。

 母親は、シラノよりも少し歳上なだけだ。取るものも取らずに逃げ出してきたのだろう。僅かに煤けたその服は、夜着に布を羽織っただけのものだった。

 子供は状況が呑み込めているのか居ないのか、それとも母親の怯えから良くないものがいることを察したのか――。

 幼児故の負けん気で――しかし行き場も判らず――ひとまずそこにいるシラノを睨みつけていた。

 砕けた仮面から口許の血を拭い、肩を崩した。


「……俺は味方だ。大丈夫だ。白神一刀流に、敗北の二字はねえ。……俺は、負けねえよ」


 そう、ぎこちなく笑いかけた。

 それで少しは警戒も薄れたらしい。

 だが、それでも子供は何故だか目に涙をいっぱいにしつつも強気に首を振った。


「きっと、きっとおとうさんがきてくれるから……!」

「……あぁ、そうだな。きっと、そうだな。そうだよな。……じゃあ、お父さんが来るまでは俺がいるからな」

「………………うん」

「あァ。……お母さんの言うこと、聞くんだぞ」

「おにいちゃん……」

「ん?」

「けが、してるの? ……いたいの?」


 伺うその視線に、思わず止まってしまった。

 それから、首を振る。


「……痛くねえさ。こんなの、へっちゃらだ。俺は、触手剣豪だ」

「しょくしゅけんごう……?」

「あァ。……ま、判らねえよな」


 僅かに首を掻いてから、母親に向き直る。

 やはり、母だ。怯えながらも子供を守らんとする光の宿るその目に、潜めるように呟いた。


「俺が斬り込んだら、見計らって逆方向に逃げて下さい。……できますね?」

「あなたは……?」

「惹きつけます。……ある程度走ったら、どこかの家に逃げ込んで下さい」


 それで、一度頷いた。一度頷いて、彼女は子供を抱き締めた。子供もまた、母親の背中を握り返していた。

 ぎり、と奥歯を噛み締める。

 血の臭いの濃い口腔から息を漏らした。

 ああ――。

 ああ――奪わせる訳にはいかない。終わらせる訳にはいけない。こんな当たり前の気持ちが、人々が、踏みにじられていい筈がない。

 この地上の誰が許しても、自分が許す理由にはならない。それだけは決して許してはならない。

 ならば――。

 ならば――――死ね。どこまでも死んでいけ。死人になれ。ただ剣を振るう死人になれ。


 靴音。邪教徒たちが集まってくる。

 この街の混乱の中、奴らも混乱しているのか。無秩序に騒がしい足音が、路地の出口を覆っていた。

 その手には松明。或いは油。この路地にも、火を放つつもりなのだろう。

 軋む身体に力を入れる。ぎこちなく、歩いた。鎧が灰めいて崩れ始める。


「なんだ、お前は……? さっさとそこを退かないか! あの尊き御方の思し召しの邪魔だ!」

「……」

「何をしている! さっさと退けと言って――」

退


 言うなり一人、その足を斬り捨てた。

 集団がざわめき立つ。触手使いだと、騒ぐ声が聞こえる。

 無視して蜻蛉をとった。相手の得物など、構わない。どうせ斬るのだ。どうせ、どんな武器でも受ければ死ぬのだ。


「……来い。死ぬ気で、来い……!」


 睨み付けた男が凍る。その瞬間、身体は斬り込んでいた。

 袈裟がけ。飛びかかる形になったそれに、着地と同時に膝が軋む。

 上がる罵声を、更なる一刀の下に斬り伏せた。地を蹴る。何人いるか、最早見えない。構わぬ。動くものを、斬り倒すだけだ。

 槍や短剣、松明に油――油壺を両断し、松明を持つ男を蹴り込んだ。火の手が上がり混乱が広がる。そこへ、喰らいかかる。

 受け止められれば、そのまま叩いた。叩いて、刃を押し込んだ。動脈でも斬ったか、鮮血が頬まで降りかかる。

 腹を突かれる。呻いた。鎧が、崩れかけている。野太刀も刃毀れが酷い。

 まだ折れるな。そう命じた。まだ、折れるな。念じて振り抜いた。


「たかが死にかけの触手使いだぞ! 何をしてる……囲め! 固めろ!」


 叫ぶ男に応じて集まろうとする集団へ、倒れた手近な一人を掴み起こし蹴り込んだ。

 尻餅をついて散り散りになる。そこへ、躍りかかる。

 身体からぶつかった。刃を、腹に突き立てた。呻く男の肩口を掴み、盾に使って更なる一人へと突進する。

 二人、串刺しにする。

 蹴りを入れ――野太刀が折れた。引き抜けず、折れた。

 そこへ目がけて飛びかかってきた男の顔を咄嗟に薙ぐ。頬骨を砕いた。笑い顔が、鮮血に歪む。

 横合いで、白刃が動く。炎を照り返す片手剣。首を掠めた。

 地を蹴る。繰り出される直突を刃で反らし、男に競りかかった。外から足をかけ、転がし倒す。

 その額に鍔を叩き付けた。幾度か、殴った。

 息が荒い。肺に酸素が満たされない。戻す腕が億劫だった。

 あと、何人だ。何人いる。あの親子は、逃げられたのか。


「おい、どうしたんだ君たち……! 指令はどうした!」

「クソ触手野郎だ! 我らに仇為す害悪の奴ばらだ! 討ち取るんだよ、ここで!」


 新手。また、揃いの黒服の集団が現れた。

 折れた野太刀を、何とか持ち上げる。まだ、来るのか。睨み上げるように肩を上下させた。

 鎧はほとんど崩れかけている。触手も幾度か呼び出そうとしたが、応じなかった。エルマリカとの戦いの反動なのか。

 喰い縛った歯の横から息が漏れる。黒い蒸気の如く漏れる。

 終わるのか。ここで、終わるのか。


(いいや――……)


 死んでやるか。殺されてなど、やるものか。

 強く唸りを上げる。敵がいるなら、どこまでも戦える。敵がいるなら、心が先に死ぬことはない。殺されてなどやるものか。


「白神一刀流に、敗北の二字はねえ……!」


 そうだ。殺害は、敗北は許されない。触手剣豪は負けてはならない。ならば、勝つだけだ。死ぬまで勝つだけだ。

 意気を込め、刀身を噛んだ。強く握り締めて固まった指は殴りつけ外した。マフラーをズラす。強く刃を噛み締めた。

 崩れかけの装甲を薄く引き伸ばす。指先までを鋭く覆い尽くす。震える手を無理やり覆い隠す。

 これで、まだ戦える。

 呼吸を一つ、腹の底から相手を睨み据えた――そんなときだった。

 整然と揃えられた槍の穂先が横腹から集団を抉る。

 上がる悲鳴と、吠える号令。横合いから、烏合の衆が押し潰されていく。


「シラノ殿! ご無事ですか!」

「……リュディガーさん、スか?」


 聞き覚えのある銅鑼声が響き、衛士たちは隊列を組んで邪教徒を打ち払っていく。

 市街地戦闘。盾と槍を一斉に構える男たちを前に、ただ集まっただけの邪教徒が叶う筈もなかった。


「いやはや……怪我人がいると呼ばれて来てみれば、なんとシラノ殿とは……。いやあ、彼らもよほど慌てて居たのでしょうな! シラノ殿を女と間違えるとは!」

「女……」

「シラノ殿? むぅ、そのもしや、実は女とか……? だとしたらとんだ失礼を……」

「いや、それはねーっス。…………そうスか。助けを、呼びに行ってくれたんスね……これだけのことが街にあっても……。助けを呼びに……」

「シラノ殿?」


 問い返すリュディガーに、首を振り返す。


「……敵は、討ちました。もう……大丈夫、です。城壁を……奪還、しま……しょう」


 手をついた壁を頼りに、ぐ……と足に力を込めた。

 だが、進まない。不規則に激しく上下する視界は、一歩も前には進まない。

 野太刀を取り落としかけた。足が崩れ、肩から壁にもたれかかった。

 奥歯を噛み締める。息切れが激しい。


「おい……誰かさっさとそいつを下げろ! 血止め用意! 早くしろ!」


 背中の向こうで隊長のレオディゲルが叫ぶ。

 その声を聞いたが最後、シラノの意識は闇に飲まれた。



 ◇ ◆ ◇



 寒い――。

 冷たい――。


 鞘を握る指が冷える。

 凍えていた。手足が、凍えていた。

 びょうと耳元を風が吹き抜けた。マフラーがはためく。雪混じりの夜風。吹雪。

 膝下までを覆い尽くす雪の夜。その中に、自分は居た。

 何をしているのかと思い、それから気付いた。

 備えているのだ――。備えているのだ、自分は。


 どれほど、こうしているのだろう。

 背後には橋があった。不格好でいかめしい寄せ集めの橋。剣と剣を組み合わせて作った、荒い橋。

 手すりも何もない、荒れ狂う急流をただ跨ぐ為に作った急ごしらえの橋だ。なんとか刃を人に向けないだけで精一杯の造りの橋だった。


 びょうと耳元を風が吹き抜けた。

 どれほどこうしているのだろう。

 何故、こうすると決めたのだろう。

 だけど振り返った橋のその向こうには、人々が暮らす街がある。

 明かりが灯り、暖炉の火が優しく照らす。楽しそうに動く影は、談笑をしているのだろうか。

 彼らは凍えていない。外に出る必要はない。誰も、外の脅威など思わない。それほどまでに平穏の内にいる。

 ……ああ。

 ここに立ち尽くすことを笑われたような気がするし、笑われていないような気もする。

 何故、居もしない怪物などに備えるのか――と言われた気がする。

 その時、なんと答えただろうか。


 びょうと耳元を風が吹き抜けた。

 目元が凍える。肌が軋む。浮かべる笑みはぎこちなく動いた。

 ……ああ、居もしない怪物に何故備えるのかと聞かれたとき――自分は、こう答えたのだ。

 居ないよな、と。居ないことがいいな――と。そう笑ったのだ。

 それに、何と言われたのだろうか。

 思い出せないが、剣を握っていることは確かだ。


 ふと空を見上げれば、閉じられた門が眠る。

 そこには、顔の見えないスーツの男が磔にされていた。四肢を触手に砕かれて、もう完全に絶命しているらしい。

 だが、その男が邪魔で門は上手く開かないようであった。門の中の虹色の球体の光は、僅かに漏れ出すだけだ。

 見上げた顎を戻す。

 手が届きそうにないし、届かせる必要はないと思えた。

 自分には、この剣がある。

 それでいいのだ。


 びょうと耳元を風が吹き抜けた。

 どれほど、こうしているのだろう。

 本当はあの場所に行きたいのか、と問いかけた。

 代わりに少し、笑いが溢れた。

 これでいいのだ。

 だって、見ているだけで胸が暖かくなるのだから。ここに居ながらだって、関わっていられるのだから。

 好きなのだ。人が。当たり前の幸福が。笑顔が。その想いが。

 恋していいのだ。世界に。人に。その笑顔に。

 それだけでいい――と思った。

 彼らは、当たり前に暮らしている。平和に暮らしている。きっと笑っている。

 それが美しかった。

 笑い声がここまで聞こえてくるようで――俺には、それだけでよかった。

 それだけで胸が暖かくなる。胸が暖かくなり、鼻頭まで赤いマフラーを引き上げた。


 そして。

 一際強く、風が叩き付けられた。

 眼前に立つは鎧。目の前には、いつの間にか鎧が居る。どこかで見覚えのある、飾り気のない紫色――野太刀を鞘に収めた鬼面の鎧。

 その中で、何かが蠢いている。何か縄のようでありながら竿のようなものが蠢いている。

 不思議と剣を抜く気はしない。だが――。

 残りは五歩。

 それで追い付かれる――――何故か、そう思った。


 びょうと耳元を風が吹き抜ける。

 緩やかに、鯉口を切る。柄を握り、凍えた息を絞る。

 鎧を睨んだ。

 敵ではない――だが、完全な味方とは言い難い。何よりも、追い付かれたその時に何が起こるか。

 頬を冷や汗が伝う。

 しかし、斬りかかってもいいものか。近付いていいものか。

 そのまま、しばし睨み合う。


 睨み合い、意を決した。これ以上街に近付かせる訳にはいかない。

 奥歯を噛み締める。いざや斬りかからんと爪先に力を込めた――その瞬間だった。

 ごう、と風が啼く。

 マフラーがはためいた。解け、後方に呑まれそうになるのを――咄嗟に飛び付き、掴み取ろうと手を伸ばし、



 ◇ ◆ ◇



 目覚めた先は、見知った天井だった。


「……あ?」


 伸ばした手が空を切る。マフラーは、首に巻かれたままだ。そのまま仰向けに、ベッドに転がされていた。

 喉を鳴らそうとし、口腔が乾ききっていることに気付いた。乾ききって、血の臭いが酷い。それでも生きてはいるらしい。


「……」


 四肢が気怠いわりには普段のような身体の強張りは少ない。目覚めるまで、あまり時間が経っていないようだ。

 指を開閉する。重度の火傷と骨折に襲われた筈の四肢に欠損はなかった。どうやらまた助けられたらしい。

 何度か大きく息を吸い込み、起きかけの頭で自らの生存を噛み締めつつ――


「っ、そうだ、先ぱ――――……痛ッ!?」


 勢い良く起こそうとした背中で、血で貼り付いた服が引き攣った。連鎖して身体が痛む。与えられた痛みの信号が、幻肢痛めいて残っているのか。

 呻くが、そんなことはどうでもいい。

 当のフローはどうしたのか。傍目にも重症だった。彼女は大丈夫なのか。あれほどの邪悪に晒されて、深く傷付いてはいないか。

 矢も盾もない。ここで悠長に寝ている場合ではない。

 何故か枕元にある折れた野太刀をひっ掴み、即座に床を踏む。駆け出そうと力を込め――膝が笑い、足がもつれた。

 シーツを巻き込みながら、無様に床を転がる。心臓が煩いほどに高鳴り、肺が動転していた。死にかけが無茶をするなと、肉体が知らせてきているのか。

 黙れとねじ込み、気付けに刃を握り締めた。

 肌に喰い込む刃で悪寒を殺し、そのまま無理矢理に身体を起こそうとしたところで、


「……………………あんた何やってんの」


 開いたドアから、呆れ果てたと言わんばかりのアンセラが顔を覗かせた。





 ギシ、と腰掛けたベッドが音を立てる。

 隣のベッドを見れば、頭に包帯を巻いたフローが寝息を立てていた。


「フローさん、ついさっきまでは起きてたんだけど……」

「……いや。先輩も、随分疲れたろうから」

「そ。あんたもお疲れ」


 はい、と手渡された手拭いで顔を拭う。

 暖かかった。

 腹の底から吐息が漏れる。一段落は、したのだ。


「……正直、湯に浸かってゆっくり休みてえ」

「そ。地図あげよっか?」

「うす。どーも」

「あ、こここここっこここここっ、混浴だからね?」

「……………………………………………………どーも」


 絶対に一人で行こう。そう決意した。

 さて、と息を吐き直す。全身に痛みと違和感は付き纏うが、多少は薄れてきていた。


「……火災に暴動、動乱に魔物の攻勢……でも被害は少なかったんスね」

「不幸中の幸いってやつね。リュディガーさんたちがある程度散らばってたのと、結構早く体勢を立て直せたから」

「兵は拙速を尊ぶ……か」


 首魁を討ち果たし、洗脳が解除されたその動揺につけ込んだそうだ。城塞が都市に牙を剥くことは避けられたなら何よりだった。


「……アンセラ」

「なに?」

「……その、お疲れ」

「ええ、お疲れ様。……あー、てかもう本当に何なのよこれ……あたし冒険者なのに……なんで街一つの命運とかに関わってるのよ……もぉやだ……顔役みたいにされるのやだ……お肉食べたい……お肉ぅ……」

「……」

「なんか言いなさいよぉ……お肉ぅ……お肉食べたい……」


 肩を落とすアンセラを前に頭を掻いた。

 そればっかりはどうにもならない。お金に関わる相談だけはシラノも何の力になれそうもないのだ。

 そう思えば、その辺りの論功行賞はどうなるのだろうか。相当に仕事をした覚えがあるのだが……


「……あ、そうだ。まだあんたにしかできない仕事があるのよ」

「……俺にしかできない仕事、スか?」

「うん。アレ」


 差された指の先を追う。

 そして後悔した。見なきゃよかったと思った。


「シラノお兄ちゃん」

「……」

「セレーネ悲しい」

「……」

「セレーネ寂しい」

「……」


 頭からシーツを被って銀髪を覆い隠した、氷めいた美貌の眼帯の剣鬼――セレーネ・シェフィールドがそこにいた。

 体育座りでそこにいた。

 うつむき加減でそこにいた。

 ハイパー義妹モードでそこにいた。

 改めて見なきゃよかった。シラノは眉間に皺を寄せた。


「まさか置いていかれるなんて……酷いですわ……」

「……うす」

「気付いたらほとんど終わっていて……シラノ様とフロー様は街の外にいたと聞いて……街の為に尽力したと――存分に戦ったと聞いて……どうして私も誘っていただけなかったのですか?」

「それは悪いとは思うけどよ……俺が修行してる、って言ったらどーするんスか? 目の前で見たら……」

「ええと――。ついつい堪らず斬りかかってしまいますわ。ええ、きっと」

「……そういうとこっスからね」


 やっぱり危ない奴だった。油断ならない。

 ボンヤリしていたら死因:セレーネになりかねない。あまりにも不名誉すぎる。危険な奴だった。

 ともあれ、


「……ま、無事で良かった」

「厳密に言うと無事ではないのですが……」

「え」

「いえ、まぁ剣に箔がついたと思えば良しとしましょう。シラノ様こそご無事で何より……というより、存分に死線をくぐられたのでしょう? 一段と剣気に満ち溢れておりますわ。是非ここで押し倒して手にかけたいと思えるほど……」

「……どーも」


 褒められ方が微妙だった。

 一日ほどしか経っていないがもう随分と話してない気がして、だがそれを踏まえても相変わらずとしか言えなかった。



 ◇ ◆ ◇



 キィ、と扉を押し開く。

 冒険宿の三階に作られた庭園からは、日も沈みかけた街が見える。

 煙の殆どは収まって、それでも未だにどこか浮足立つような気配が覗く石畳の街。つい半日前まで戦場となっていた街。

 無言で眺めて――……咎めるように背後を振り返った。


「一人にしてくれって、言わなかったっスか」

「ええ。ですが私も、これ以上置いて行かれるのは嫌だと申しませんでしたか?」

「……」


 唸るように吐息を漏らし、言葉を打ち切ってバルコニーの端を目指す。

 その間もセレーネは後ろをついていた。余計な口を挟まない女給のようであり、それはそれとして剣鬼に背中を晒していることが不安でならない。

 やれやれ、と手摺りに身を任せて瞳を閉じた。

 この旅に出るまで一人の時間も多かっただけに、こうして誰かといなければならないというのはあまり得意ではなかった。


「……」


 どれほどそうしていただろうか。それでも、セレーネは離れない。

 淫魔から聞いた転生の秘密。そして、あの断末魔。

 下ろした瞼のその裏で響くような声を打ち切ろうと、シラノはポツリと口を開いた。


「……アンセラから聞いた。そっちも、淫魔と戦ったって」

「ええ。……私ははっきりとは覚えてないのですけど、トドメを刺したようですわ」

「……」


 無言のシラノを前に、セレーネは僅かに眉を上げた。


「それが、どうかしたのですか?」

「いや……」


 口を閉ざそうとすれば、セレーネが覗き込んでくる。

 ジッと伺う蒼白の瞳を前に、ついに根負けして言葉を漏らした。


「アイツらと、俺は……同じだったと。根っこは変わってない、と」

「あら。シラノ様が淫魔? ありえませんわ。剣鬼と言うならともかくとして……」

「……それが、証拠だと。淫魔も俺も、元の生活だったらこれほどまでに暴力的じゃなかった……だから、俺は入り混じっている――元の俺じゃねえんだと」


 何とか吐き出すように告げれば、セレーネは目を丸くしていた。


「……何スか」

「いえ、面白いことを言うなぁ……と」

「面白い?」


 にわかに怒気を込めて片眉を釣り上げたシラノへ、セレーネは何でもなさそうに肩を崩した。

 いや、真実――真実シラノのその悩みなど、問題ではないのだと言いたげに。

 そして、彼女は貞淑に胸を張った。


「ええ、だってこの私なんてほら――蝶よ花よと愛でられて、いや愛でられぬにしろ壊れ物のように扱われて善き妻になる為に育てられたのですよ? もうそれはそれは力を入れて――立派な立派な婦人になれるように」

「――」

「ふふ、ですが見てください。今はこうして立派な魔剣使いになりました。いえ、まぁ、立派だと私は思ってます。……ですから思うのです。人は環境と状況で変わると」

「……ものすげえ説得力だ」


 非の打ち所のない完璧な理屈だった。

 理知的で貞淑なハイパームテキお嫁さんフォームの持ち主が未亡人製造機(自作自演)になる。この世にそれに勝る豹変があるだろうか。


「人の心など水のようなもの。状況が変わればいくらでも慣れますわ。つい先程まで勇ましい騎士の顔をしていたかと思ったら、肌を少し撫でただけで情けなく命乞いをする……などという例など見飽きましたので」

「……」

「私もそのまま暮らしていたらきっと気付かなかったでしょうし……ですからこう、やはり斬ってみるまで何事もわかりませんね。果し合いと同じですわ」


 すごい。相変わらず酷い理屈の持ち主だった。


「まぁ……それでも、一度決めたらとことん貫くシラノ様は環境だけでなく元より適性もあったのでしょう。目的の為なら何かをやり遂げようとする戦士の適性が――、…………あっ」

「……どうしたんスか?」

「いえ、シラノ様のことを考えてたらどうにもこの場で斬りかかりたくなって……」

「やめて」

「でも口直しがしたいと申しますか刃直しがしたいと申しますか……シラノ様を感じたいなぁ、と。昂ぶらされて、どうにも持て余してしまって」

「やめて。……やめて本当」

「むぅ」

「むぅ、じゃなくて」


 いくら口を尖らせられても、片手がいつでも抜き放てるよう柄近くを彷徨っていると微笑ましいなどと断じて言えない。

 なんというかすごい。とにかくすごい。

 何がすごいかと言えば、悩んでいたのが馬鹿らしくなるほど台無しにされているあたりがすごい。


「シラノお兄ちゃん冷たい。セレーネ寂しい」

「……」

「お兄ちゃんはセレーネのことが嫌いなの……? セレーネのこと、嫌いになっちゃったの?」

「………………斬りてぇ」

「――――!? 是非是非。ええ、是非もなく。……私にしますか? それとも私? いえここはやはり、わ・た・く・し――」

「……………………一択はやめろ」


 胃が痛くなってきた。なんでこんな女に関わってしまったのだろう。

 とは言え、しこりのように心に溜まっていたものが晴れつつあるのは確かで――


「あ――――――――――――――――――――――!!!!!」


 扉から物凄い騒がしい声が聞こえた。

 フローだった。


「何やってるのさシラノくん!? お姉ちゃん怪我したんだよ!? 痛いんだよ!? 寝込んじゃったんだよ!? なのになんでお姉ちゃんほっとくのさぁ!? 大切な先輩のことを放っておくのかよぉ!? 師匠なんだよ!?」

「……起きたんスか」

「む、なんだいその言い草は? それじゃあまるで寝てた方がよかったみたいじゃないか!」

「その方が回復早いんで。……あ、俺から行くんで動かないで下さい」

「君の方が大怪我で……むぅぅぅぅぅ」


 頭に包帯を巻いている彼女は、小柄故に余計に痛々しい。

 見れば、あの邪教徒どもを爪先から寸刻みにすべきだったかもしれないと思い――……ひとまずは息を漏らした。


「先輩」

「なんだい?」

「……無事で良かったです。生きた心地がしませんでした」


 本当に。

 あの瞬間は、不殺の信条を忘れ去るほどに驚愕だった。


「……うん。心配かけてごめんね、シラノくん」

「うす」

「でも……それいつものボクの言葉だからね? いつもボクが思ってるんだからね?」

「……」

「聞いてる? だいたいね、キミが天地創世の魔剣と戦ってるって聞いたときのボクがどんな気持ち――」

「天地創世の魔剣?」

「そうだよ一人で! いくらシラノくんだからって……………………うん?」

「……シラノ様? 天地創世の魔剣と?」

「うぇぇぇぇえぇ……」


 ギラギラと目を輝かせるセレーネと、狼狽するフロー。

 それを眺めていれば、先程までの悩みなどあってないようなものだった。

 今ならやはり、あの女に告げた言葉が間違いではないと頷ける。たとえ何度そう言われたとしても、確信と共に拒絶できる。

 白野孝介は――いや、シラノ・ア・ローはやはりたった一つなのだ。

 たった一つ、胸を張って言えることがある。


(……ああ。俺は、触手剣豪だ。だから、俺はこうでいいんだ)


 そう生きると誓った理由も。

 そう生きて出会った縁も。

 そのどちらも嘘ではない。故に――そうでない昔と今が違うのは、当たり前とも言えた。

 これは変質ではなく成長……多分、そういうことなのだろう。

 ……いや、随分と血なまぐさい成長だが。


「フロー様、止めないでください……いえ、むしろ聞かせてください。シラノ様が天地創世の魔剣と戦ったと……しかも生きていると言うことは勝ったと言うこと! ええ、是非ともその辺りの話を存分に!」

「うぇぇぇぇ……やめようよぉ……シラノくん怪我してたんだよぉ……」

「むぅ……。で、ですが……ほら、人の命とはいつ失われるか判らないと言うもの。そうなれば、やはりここはこのまま――」


 というか。

 騒がしい。一人きりで考える時間は与えて貰えないようだ。


「……はぁ」


 やれやれ、と身体を直した。

 

「セレーネは後で相手する。もう大人しくしててください」

「……そう言われるなら、まぁ」

「先輩は……」

「うん?」

「ええと――……ともかく、もし先輩が死んだら腹ァ詰めて後を追うんで。その辺り忘れないで下さい」

「うぇぇぇぇ……なんだよそれぇ……なんでそんなことするんだよぉ……絶対痛いじゃないかよぉ……やめろよぉ……」

「……ええと、その、すみません。訂正しますわ。その……本当は淫魔混じってるのかも……」

「……いや冗談スから」


 僅かに頬を崩して、彼女たち越しに街を見送る。

 大きな夕日。城壁の向こう側から射し込む日は、こんな日であっても変わらない。

 血のごとく赤く空を染めるそれは、あたかも炎めいていて――


「あァ」


 街が、燃えていた。

 城塞都市が燃えていた。

 そして日は沈み、訪れるのは――誰も見たことがない新しい明日だろう。


 暁に街が燃える。

 そして、長き一日は終わりを告げた。

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