第56話 ベイン・オブ・サキュバス その四
「はぁー……ああ、がほっ……」
膝から崩れそうになったのを、何とか堪えた。野太刀を杖に、かろうじて顔を上げる。
視線の先には、淫魔。
胴を斜めに斬り上げられ、盛大な鮮血を漏らしながらもまだ息がある。ただ茫然と切り裂かれた己の服を眺め、次いで苦悶の呻きを漏らし始めた。
シラノの左手で、握った鞘が崩れる。
これが故に、完全な抜刀が決まらなかったのだろう。本来ならば、胴を二つに断ち切れていた筈だった。
「ぁ、こんな……こんなことが……! こんな……下等な猿なんかに……! 忌まわしい触手使いなんかに……!」
胸骨を断ち切り、肺腑に至る。動脈すらも完全に突き破った。
常人ならば既に致命傷――だが上半身を血に染める淫魔は、未だしぶとく身を翻した。
その傍から、足を
努めて眼差しを強く保とうとしたシラノもまた、激しく咳き込んだ。ぱたぱたと路上へ溢れる血に合わせて、触手鋼板が崩れ去っていく。
「精気を……! 精気を集めれば……!」
女が這いずる。
たった今崩れたばかりの壁を越え、如何にも女王然と聴衆へと叫びを上げた。
「精気を、精気を寄越しなさい……! 私に捧げるの……! 何をしてるの、役目でしょう……! 近付きなさい……! 早く……! 早くして……!」
霞む視界の中、叫ぶその背に切っ先を照準する。
だが、手が震えた。まるで労咳に罹った剣士の如く、安定しない。
歯噛みした。このままでは、また犠牲者が出る。淫魔が復活する――――今更限界など構うものかと足裏で触手抜刀を弾けさせんとして、
「……なんだこいつ?」
「この人……何を言ってるの……?」
「え?」
女を取り囲む民衆の目線は、冷めていた。
「なんでこんな血だらけで――……って、待てよ……これって……近寄ったらまた……?」
「……やめておきなさいよ。どうせ、因縁をつけられるわよ」
「どこで
「な――……あ、ああ……!?」
触手が淫魔の力を断ったのか――。
或いは、見目麗しきその外見を傷痕が塗り潰したが故か――。
或いは、瀕死の重傷が故にその権能を発現させる余力がなくなったのか――。
そのどれかは知れない。
だがたった今、その身の絶対の権能は消え去っていた。消え去り、女に返されたのは不審の目だった。
「くっ……お……お願い、お願いします……! 手を、手を握って……! 誰か、手を……! お願い……!」
血塗れのうら若き女性の懇願にすら、皆顔を見合わせるばかりだ。
彼らはまさに、隣人が街に火を放つさまを見せつけられた。或いは互いに密告し、或いは互いに監視し合う。そんな生活を続けさせられた。
最早、そこに慈愛や慈悲などの余地はなかった。なくなってしまったのだ。
いや――
「あ、あああぁ……!」
――即ちこれも全て、女の
「何をしているの……! やだ、誰か……助けて……! 助けなさい……! 私のそばに……私の近くにきて……! 誰か……! やだ……! どうして私がこんな――こんな死に方なんて……! 来なさい……! 来て……来てよぉ……!」
どれだけ声を荒らげようと、
人々をそうしたのは、女だ。
遠巻きに眺める群衆――……女に返されるのは、ただの疑念の眼差しだけ。
「やだ……! 誰か……! 誰か……誰でもいい……誰でもいいから……! お願い……お願いよ……! 誰か……! 助けなさいよ……!」
張り裂けるように喉を震わせても、応えるものは誰もいない。泥水を這いずったところで、誰も助けない。
それこそはまさに無様と呼ぶしかない有様で、彼女が人をそう評したように……さながら下等生物同然であった。
悪因は悪果を呼ぶ。
これ即ち――
「……」
目の前で、女の身体が赤錆めいて崩れていく。
流血よりも早く、燃焼よりも容赦なく――女の身体は爪先から錆の塊へと変貌していた。
「ぁ……たす、けて……たすけて……! 暗い……暗いの……! 暗いのは嫌……! 助けて……! 助けてください……! 誰か……! 誰か、そばにきて……! そばにいて……!」
やがて、その目も見えなくなったのだろう。
ただひたすらに這いずりながら、淫魔は出鱈目な方向に手を伸ばす。
それですら人々は応じなかった。居心地が悪いように顔を背ける……或いは出来が悪い演劇を眺めるかの如く、それとも押し付けられた厄介事が増えてしまったかの如く居た堪れない顔をしている。
そして、
「助けて……! たすけて……! たすけて――」
ごほり、と。
涙と血と共に、女の喉から絞り出される想いがあった。
「――もう、ひとりでなんて死にたくないの……!」
漏れ出した断末魔の叫び。後悔の呻き。
だが――この街の全てを弄び、数多の人の尊厳を侮辱し凌辱した。決して誰からも許されることのない外道の系譜。
無論、誰一人として聞き入れる筈がない。
集まった人々は、風に吹きすさんできた火の粉を避けるように散り散りに散っていく。
これが当然の結末。与えられて然るべき報い。この世の誰からも許されることのない悪行の結果。――シラノは奥歯を噛み、瞼を固く閉じて、
「……あァ」
……気付けば、淫魔のその手を握っていた。
鎧を解いた傷だらけの手のひらで、両手で女の指を包む。
不意に与えられた感触に淫魔は一瞬目を見開き――僅かに緩むように頬を崩した。
安堵の顔。年相応の、女の顔。
「……お前に殺された人たちだって、きっと死にたくはなかったよ」
静かなるその呟きに返される言葉はない。
手で瞼を下ろせば、女の身体は赤錆めいた塊となって風に散った。
両手を合わせる。
風に燻ぶる火の粉の中、シラノは暫しそうして佇んでいた。
◇ ◆ ◇
どしゃ、と戦斧が石畳に音を立てる。
引き剥がされ、奪い取られた武器。たった今それを為した
「……で、なんだっけ? 重さとかなんとか――そんなのが武器なんだっけ?」
明らかな、侮蔑。
歩を進めるその足音は、その質感は増している。密度が、質量が、存在の重さが明らかに増加していた。
「……俺の武器は磨いた技だ。重さ、それのみが意味を持つ訳ではない」
「あー、そう? そうそう、そだっけー? いやー、人間って寿命も短いのにくだらないことするよねぇ……その鎧も剣も、せっせと誰かが時間をかけて重さを増やしたんでしょ? でもさぁ、うちならこーやって簡単に増やせちゃうんだよねー。しかもデザインも上々でさぁー」
愉快そうに声を弾ませる淫魔と、どこまでも動じずに語りかけるアレクサンド。
だが、見守るアンセラはそうもいかなかった。
「見目に拘ったことはない。……生憎、今の俺には貴殿の衣装は見えないが」
「へー、そおー? 勿体ないなー……。あはっ、死ぬ前にたっぷり見せてあげよっか?」
「貴殿が絶命する前に、その装備を無意味に検分するほど悪趣味ではない」
「……逆だっつーのクソボケ」
淫魔の舌打ちに合わせて、中指が立てられる。一斉に、揃えられて。
それを、なんと称すればいいのだろう。
精神の捕食者。魂の破戒者。社会に潜む寄生虫。歴史に葬られしもの――……。
そんな修飾では形容しきれない、あまりにも名状しがたき異形がそこにいた。
「さてと……それじゃ、全殺ししちゃおっか」
「……」
両手剣を腰に構えたアレクサンドと、向かい合った邪悪装甲の淫魔。
アレクサンドは大きく息を吸い込み、
「――“
踵で地を押した。
始まるは減衰や遅滞のなき黄金の疾走。人体という構造物全ての形状を、特性を活かした極限の走法。
流れるような重心移動に合わせ、剣を斬り上げ――瞬間、弾き叩かれた。
アレクサンドを一瞥すらしない淫魔の尾撃。
狂った体勢を、だが弾かれたそのままに流れに合わせようと動くアレクサンドの巧みな剣技。螺旋を描きながらその最中に稲妻へと変貌した直突を、しかし尾が受け逸らす。
否――巻き込まれた。
無数の赤子の手が刀身を白刃取りに、大蛇めいて絡みつく
咄嗟、剣を消した。走る蒼電――
手を突き旋風じみた軌跡をなぞりながら、アレクサンドは距離を取り直した。
「……」
追い付かれた――否、対応された。
達人であらばその目を晦まし、素人ならばその目に留まらない。そんな幻霊めいたアレクサンドの歩法と動作が、見切られていた。
……いや、淫魔は見てすらもいない。
静かに身を起こす。
残り――三秒。貴重な一秒を、使い切らされた。
「ハハ、どうしたの? それが奥の手なんだっけ? えっと――武器は磨いた技術、だっけ?」
「……」
「大したことないねぇ……見るまでもなく楽勝じゃん? いや、これに手こずるとかほんっとさっきの奴らは使えなかったねぇー」
黙するアレクサンドの前で、淫魔は得意げに両手を広げた。
「昆虫だから尻尾に神経節……って言ってもアンタらには解らないかな? ま、考える脳みその数が違うって思ってくれたらいいよ。ごめんねえ、頭が良くて……!」
哄笑。
まさに蒼髪の淫魔は己こそが唯一絶対無二の至高の存在だとして、あたかも一世一代の作品を作り上げた芸術家めいて多弁となっていた。
その増上慢を前に、鎧から少女の声が漏れる。
『気にすることはない……だそうです。仮にそうだとしても、あまり貴方を理想的とは思えないとか』
「は?」
『あと、頭がいいことを誇ろうとするときが一番頭が悪く見えると思います。……これは
「はあ?」
額に青筋を浮かべる淫魔の前で、アレクサンドが長剣を握り直す。
その動きに淀みは見えないが……だからこそ、彼女から漏れたのは失笑だった。
「あのさぁ……いくら偉そうに言おうとさ、アンタらは詰んでるの……判る? そーゆーの、負け犬の遠吠えっていうんだよね」
「……」
「無駄、無駄無駄無駄……無駄なのがさ、判る? そんなただの武器じゃうちらは殺せない……魂までは傷がつかない。倒したいならそれ専用の魔剣か、それとも触手でも持ってくるんだね……!」
嘲笑交じりのその言葉に応じるアレクサンドではない。
返答代わりに腰から袋を取り出し――ただ、淫魔へと放った。
無論、違わず駆動した尾がそれを迎撃する。迎撃し――宵闇の中、蒼き星々が瞬いた。
「……つまりは、ただの反射か」
呟くアレクサンドと、宙に灯った蒼き光。
――否、宝石だ。鎧や武器庫に備えられているのと同じ宝石が、淫魔の周囲に散らばっていた。
そして、噛み締めるは奥歯。起こすは戦闘術式。
始まる――――最後の三秒。
蒼電が奔る。
尾が応じる――途端にまた蒼電。同時、逆から淫魔を砕く棍棒の一撃。
かは、と浮いた。睨み付けんとするその眼前で閃光が瞬き、顎をかち上げる槍の石突。
苦悶の暇もなし――――鉄鞭が喉に巻き付き、喉笛を潰して締め上げた。
「こ――」
ギチギチと、尾が動く。瞬く間にアレクサンドの胴を目指し、貫きかかり――代わりに打たれた瞬雷。
置き土産の
根元に打ち込まれし、戦斧。挟み込むかの如き長剣。砕く鉄球。削ぐ湾刀。隙間を縫う刺突剣。突き立つ双鎌。斧槍、片手剣、肉削ぎ棒、鉄鎚――――――。
「の――――」
跳ぶ、跳ぶ、跳ぶ――――空間を跳ぶ。
それはまさに高速の幻影だった。蒼き幻影だった。
空を裂き、風を切る。
様々な武器を握る黒き戦鬼が、蒼電を纏う戦鬼が、幾重の像となり淫魔の肉体を攻め立てる。
再生する側から、全身の装甲を削ぎ落とす刃閃。雷撃を纏う嵐の刃閃。
「ぎ、ぃ――――」
咲くは電光。響くは石火。空間を照らし上げる蒼き撃滅の嵐。
最早、その身へ起こる魔力の反動すらも淫魔への攻撃を為す。拘束と為す。空間そのものが、
無残に砕かれ、全身を蒼雷に苛まれし淫魔。
その顔面を盾が打ち潰し、浮いた身体のその真上。
光る尖端。握りしめられし無骨な鋼の杭が、ただ一直線で鋭いだけの杭が、さながら竜の血牙めいて振り下ろされ――
「“
呻る一閃。
その身の重量全てを込められた鉄杭は、常人九人分以上のその質量は、母なる竜の大地へと引きつける重力は――――これこそが戒めとなり、淫魔の肉体を貫き果たした。
「――術式、完了」
終えたアレクサンドは膝を突く。
雷と竜――王家の象徴たるその二つを体現した限界機動。限界戦法。
これこそが即ち、魔剣に匹敵する高速多段攻撃――戦闘術式・“
「傷が治ろうと、痛みはあるのだろう。……そして案の定、己の痛みには弱いか」
不滅ならば、斬り刻むのみ。ただ単純な理屈であった。
かろうじて身体を起こしたアレクサンドは、覚束ない足取りで杭を握りしめた。
「貴殿には聞くことがある。……王宮に入り込んだ淫魔を知っているか」
「ぐ、ギ……」
「答えろ。王宮に入り込み、教育役として居座った淫魔を……俺の妹に呪いを植え付けた淫魔を知っているか」
杭を握る手に力が篭もる。
五感を封じる鎧の――〈
僅かに離れたアンセラすら背筋が凍るその剣気を前に、
「お前ら……! こいつを足止めしなよ……!」
叫ぶが早いか、折れた足のまま冒険者たちが飛びかかる。
「クソ、クソ……! こんな……!」
尻尾で薙ぎ払うように、転がりながら淫魔が離れた。
腹から杭を引き抜き、辿々しい足取りで目指す先は、冴えた銀髪と大きな眼帯――氷の精の如き麗貌のセレーネ・シェフィールド。
その手に握られし二振りの魔剣は、〈銀の竪琴級〉などという等級には収まらない。本物の暴力――本物の剣鬼である。
「ノエル……!」
《駄目です、サシャ。……今動いたら千切れます。駄目です。待ってください》
「ぐ……」
そして術後の硬直が抜けきらぬままに抑え込まれたアレクサンドの前で、ついに淫魔は美貌の魔剣使いの元まで辿り着いた。
「……あら、随分とやられてしまいましたね」
「『やられてしまいましたね』じゃないでしょ!? なんで助けにこないの!? 使えないなあ!」
「……」
「いいから早くしてよ! あいつ、今隙だらけじゃないか!」
「隙だらけ……」
僅かに黙して動かぬセレーネへ、淫魔は苛立たしげな声を上げた。
「うちのことが好きなんだろう……!? だったら早く倒しなよ! 危ないんだよ、あいつらを早く殺せよ……!」
「……ええと、ご自分で戦われる気はないのですか?」
「当たり前だろう!? 今の見てなかったの!? どいつもこいつも何の役にも立たなかった……! せめてもう、魔剣持ってるアンタがどうにかしてよ! あいつらをさあ……!」
「……敵討ちですか。それを、私に求めるのですね」
「そうだって言ってるだろ!? あいつらだよあいつら! あいつが、うちをここまで追い詰めたんだ! 眼帯ちゃんが愛する者をさあ!」
あたかも女中に言いつけるかの如く、淫魔はアレクサンドとノエルを指し示す。
セレーネに背を向け、完全に二人へと怒れる眼差しと指を向けていた。
黙したセレーネは僅かに吐息を漏らし、
「何やってるのさ眼帯ちゃん、さっさと殺――」
ずばん、と。
鮮血が舞い、首級が飛ぶ。
電光石火――三日月めいて闇夜に濡れる蒼銀の双剣が振り抜かれていた。
「――駄目ですわ、
そして、笑みが一つ。
月の女神の如く神々しい氷の微笑を浮かべたセレーネ・シェフィールドは、恍惚と吐息を零した。
「ええ、それはもうご安心を。仇はしっかりと討ちますわ。そう、ずっと貴方のことをこの手で斬り裂きたいと思うぐらいお慕い申し上げて――――――……あら?」
「な……ぁ……」
「…………………………ええと、その、どちら様ですか?」
斬り落とした淫魔の首級と、その手の曲剣を交互に眺めるセレーネ。
どれほどそうしていただろう。
僅かに頬を染めた彼女は咳ばらいを一つ。剣を鞘に納めて気を取り直したように小さく頷いた。
「さて――……そうですね。ええ、シラノ様のお傍に参りませんと。ええ、やはり……お傍に」
普段の如き瀟洒な笑みを浮かべる彼女の横で、淫魔の身体が赤錆になって崩れ落ちる。
再生阻害――傷をその権能の対象にするが故に、〈
斬り分かたれたのだ。淫魔は――魔剣に。その魂ごと。
『……』
そんな様を目の当たりにした三人が、
「えぇぇ……セレーネあんた……えぇぇぇ……」
《………………サシャ、あれはなんですか》
「……その、私にも分からないことはある。それと私はアレクサンドだ」
呟くと同時、ひゅるりと生暖かい風が抜けた。
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