第54話 ベイン・オブ・サキュバス その二
◇ ◆ ◇
虹色の召喚陣から、赤ん坊の腕ほどの赤き触手が覗く。
シラノを見送りたった今まさに単身で淫魔と対峙したフロランスは、滲む手のひらの汗を必死に抑え込もうとしていた。
敵は二十余名の市民と邪教徒。そして、その倍近い数の魔物。
何よりも怨敵たる淫魔――心臓が早鐘を打ち、喉を焦燥が込み上げる。
逃げ出したい――そんな風に考えてしまう己の不明を恥じ、何とか一歩を踏み出そうとしたそのときだった。
「うわっ!?」
階下から響いた轟音と衝撃の二重奏。そして、祭壇の泉から強烈に噴出した浄化の水。
あたかも巨竜が暴れているかの如く振動が伝わってくる。大いなる何か――これまで感じたことのないほどの激烈な戦闘の気配が、塔の下から漏れ出ていた。
「ふふふ……」
そして、人の群れの奥から姿を表した淫魔が愉快そうに唇を舐める。
「あのお姫様は、念願の王子様に想いを遂げられたかしら? ええ、ずーっとずーっと憧れている闇を切り裂く光のような方に……極寒の中の焚火のような方に……その恋心を告げられたかしら?」
「何を……」
「あまりに可愛らしいから……わたしも少し背中を押してあげたのよぉ? もっともっと醜く、最もっと醜悪に……粘り付くような情念の炎を向けてあげられるようにねぇ……ふふふ? 破滅的な恋愛なんて――誰もがどこかで憧れるでしょう?」
赤紫色の髪を掻き上げながらも下劣で凄惨な笑みを淫魔が浮かべるその間も、足元からは強烈な剣戟の気配が伝わってくる。
戦闘は得手でないフローでも確信する。
魔剣使い。
かつてシラノが出会ったと――助けたと言ったその少女もまた、何かしらの魔剣使いなのだ。
そんな少女と、顔見知りの少女と。
一度は守った筈の少女と、助けに来た筈の少女と刃を交えねばならないという悲劇――あまりにも作為的に整えられた悪趣味で残忍な再会劇であった。
「キミたちは、どうしてそうやって人の心を弄ぶんだ……!」
「ええと、そうねぇ……あなたは蜘蛛を知っていますか? 巣を張って生きる――中には巣を張らないものもいるけど――そんな八本足の昆虫を。彼らは例えば風が強い日でも、雨が降る日でも……巣を作らずにはいられない生物……」
「蜘蛛……?」
「或いは、海の中には……回遊魚と言って、泳ぎ続けていないと死ぬ魚もいますわぁ。この世にはそんな生き物が、数多くいます」
「そういう……そうでなきゃ生きられない性質だって言いたいのかい?」
「――
「……っ、キミは……!」
俄かにフロランスの目に怒りが灯る。恐れを塗り潰すほどの怒りが内から湧いてくる。
やはり――文献通りだ。
先ほどから散々に見せつけられたが、その邪悪にして淫猥な性質というのは伝承と何も差異がない。人類の大敵であるという評価は、覆せないほど真実であった。
「ええ、でも……そうね。強いて言うとすれば、弄ばれたから……かしら? 私たちも……魂と運命を」
「弄ばれた?」
だが、思わずフローは問い返していた。
一瞬だけその淫魔にも、理性的な人の顔が覗いた風に見えたのだ。
「……なんて、うふふ、また本気にしてくださいました? あはっ、ふふふふふ……!
「シラノくんは三流なんかじゃない!」
「あらぁ、怒るところがそこなのかしら?」
くす、と笑った淫魔が唇を撫でる。
「ふふ、でも悲しいわねぇ……相手は
「……っ」
「……まぁ、彼が生き残るなら生き残るで私も構いませんけどねぇ。ふふ、ええ……それはそれで都合がいいというもの……」
目を細める淫魔の真意は読めない。
だが――その言葉が真実とするなら、あまりにシラノの分が悪い。いくら彼が触手を剣術に応用したとしても、天地創世の七本を相手にすることは荷が重すぎる。
(ボクが、なんとかしないと……。ボクは師匠なんだ……お姉ちゃんなんだ……)
触手の杖を呼び出して、ぎゅっと握り締めた。
上級召喚――触手使いと古に契約を交わした“有形にして無形なる神”の力の一端を借り受けるその召喚。それさえできれば、戦闘に不向きなフロランスとてこの局面からの打開のすべはある。
(そうだ……ボクがやらなきゃ……!)
触手の杖の中に無数の魔方陣を重ねる。あとはそれそのものを陣と為し、そして鍵として時空の門に突き立て詠唱を続けるだけ。
……欠点は、その無防備。
そんな目に見えた隙に己の身体に無数の刃を突き立てられて絶命してしまう――嫌な想像が脳裏を駆け巡る中、対する淫魔は両腕を組んで妖艶に笑う。寄せ上げられた白い布の下の乳房は豊満だった。
「ふふ、悲しいわねぇ……そして可愛らしいわ? 己をいくら奮い立たせようとしてもそんなに震えてしまっては……まるで閨事の前の
「……っ」
「ええ、そうでしょう。戦いは怖いものですものねぇ……それもたった一人だなんて……。ええ、独りぼっちで死ぬのは寂しいわねぇ? それはとても恐ろしいものですもの――だから」
にぃ、と笑みを一つ。
「時間稼ぎをしたいのでしょう? ……ふふ、付き合ってあげますわぁ? たっぷりと愉しいおしゃべりを――」
「いあー!」
悪魔の誘惑めいた笑みを前に、断ち切るようにフローは触手を放った。
だが――魔物が淫魔を庇い、そして邪教徒が盾になる。電撃を纏った触手の鞭は二人の男の肉体に阻み止められた。
痙攣し倒れる男を前に僅かにフロランスの顔が凍る――その瞬間、零されたのは高らかな哄笑であった。
「……ふふ、あはは! あははははははは! あはははっ!」
「な……何がおかしいんだキミは! 仲間が、キミの仲間がやられたんだぞ!?」
「ふふ、やったのは他ならぬあなたでしょうに……あらあら、心の臓が止まってしまうかもしれないし……障害が残ってしまうかもしれないわぁ……?」
「……っ」
「ふふふ、あはっ……その反応にその顔……! ええ、ええ、本当に愉しいわねぇ……! 人との交流は! こうして人と話すのは――――それも魅了に呑まれず私個人と話せる相手となんて、とっても愉しいわぁ……ええ、これでこそ会話の甲斐があるというもの」
ひとしきり腹を抱えるように体を揺らした淫魔は、肩を崩して言った。
「ごめんなさい。いえ……時間稼ぎをしたいのは私の方でしたわぁ……あなたともっとお話したいし、ここで私が負けてしまったらお姫様にかけた呪いが解けてしまいますもの」
「……!」
「ふふ、ええ――そうね。そうねぇ……そうなったらあまり愉しくないわ。だってそうでしょう? 最高の劇の最高潮の場面を前に終わってしまうなんて――あまりにも面白くない」
「――っ、キミは……キミは、他人の人生をなんだと思ってるんだ……!」
「あらぁ、それはそれは大切に思ってますわ? なくなってしまったら生き甲斐がなくなってしまいますもの。ええ、そうね――――他人……ああ、仲間というのも大切ねぇ。あなたに言われて改めて……今、そう思いましたわ」
そして、赤紫色の長髪を揺らした淫魔は勿体ぶって辺りを見回した。
「仲間というのは大切……あなたたちもそう思うでしょう?」
女の問いに返されたのは、力強い頷き。
一糸乱れぬ兵士団の如く、彼女を中心に列を作った男たちは俄然と首を立てに振った。
彼らを一瞥しながら淫魔は満足げに息を漏らし、
「そう、仲間は大切――――どこまでも一緒にいて欲しい……仲間の痛みはあなたたちの痛みと同じ……なら、こうしましょうか」
人差し指を一つ。
唇をなぞりながら――女は、口を開いた。
「ええ、あちらに逝っても寂しくないように――――……。そしてもっとそうね、もっと仲間の辛さを感じられるように……痛みを感じられるように……二人負けたのだから、二人に死んでもらいましょうか」
「――――え?」
硬直するフロランスに構わず、その人差し指が照準する。
死神の鎌めいて照準する。
「あなたとあなた……ええ、死になさいな。私以外の愛している者への想いを叫びながら、死になさい。心の底からその人たちへの想いを叫んで、生きたいと願って――――ええ、今なら私への想いを上回っても許してあげるわぁ? で・も…………死・に・な・さ・い?」
女の残忍な笑みを前に、指名された男たちが顔を上げた。
さながら操り糸から解き放たれた人形めいてその瞳には理性が灯り、すぐに感情が涙として溢れ出す。
だが、止まらない。
その指だけは別の生き物の如くナイフを抜き放ち、首を振って拒絶する主のその喉元目掛けて刃を押し当てていく。
「ま、待て! いあー!」
「ぁ……」
当然のように、味方が庇った。
邪教徒が、倒れる。黒い外套から煙を立てながら、男たちが倒れる。
「あらあら……。――もう二人、追加ねぇ」
「……っ、待て! そんなこと、ボクが許さな――――」
すぐさまに触手を向かわせるも、やはり立ちはだかったのは壁だ。邪教徒たちの壁だ。
ぴたり、と。
内なる躊躇に呼応して、触手の穂先が止まってしまう。
「ふふ、私が許しますわぁ……。さて……
そして嗜虐的に瞳を歪めた淫魔のその言葉を、阻む者はいなかった。
絶叫。そして懇願。家族への末期の言葉と共に命乞いを漏らし、延命を望む男たちが自害する。
四人の男が、自害する。絶望に顔を歪めて自害する。救いを願いながら絶命する。
それを、フローは聞いた。
それが、フローの目の前で繰り広げられた。
「あとは……そうねぇ、私に他人の人生が大切だと教えてくれたということは――あなたは身を以ってそのことを知っているのでしょう? ええ、文字通り……その身を以って」
怒りと悲しみがぐちゃぐちゃの涙となって現れたフロランスへ、淫魔は語りかける。
実に嬉しそうに――。実に愉しそうに。
その邪悪は、人間という命を嘲笑うことをやめない。
「なら、あなたが傷を負うだけ街を焼くことにしましょう。ええ、勿論あなたさえ無事なら街も無事――――……本当にあなたの身を以って人の命の大切さを見せてくれることになるわねぇ」
良い考えだと、淫魔は側の男に目配せした。
粘土板――――交信魔術だろう。それを以って、女は指示を出すのだ。街の仲間へと。
醜悪な指示を。
残虐な指示を。
満足そうに、女は両手を広げて辺りを睥睨する。
「あなたの身体に刻まれた傷の数だけ街を焼く、あなたに倒された教徒の数だけ友連れを作る…………ああ、他人の人生って大切ねえ? みんなで守りましょうかぁ?」
彼女こそは正に、人間社会の寄生虫。おぞましき支配者。魂と精神を犯す者――邪悪なる半神半霊の存在。
これこそが――淫魔なのだ。
「お前は……! お前だけは……!」
「ふふ、そんなに真剣にならないでくださいますかぁ? ええ、余興――余興と申し上げたでしょう?」
「いあーっ!」
そして、戦端が開く。戦いという名の、余興と暴虐の嵐が吹き荒れる。
街を守る為に作られた白亜の塔。民を穢れから遠ざけ、人々の生活を守らんとして作られたその塔の中は悲鳴に塗れた。
それはまさに、阿鼻叫喚の地獄であった。
◇ ◆ ◇
血風が吹き荒れる。
それは最早、剣術などと呼べるものではなかった。
外骨格の膂力に任せた斬撃。物打ち以外を叩き付けられた野太刀は骨で止まり、しかし構わずに次の獲物を目指す。
足を貫き腕を落とし、胴を逆さに斬り上げる。自害を企むものは肩を砕いてでも止め、邪教徒は余さず一刀の元に叩き伏せる。
餓狼の疾走であった。
術理はない。ただの暴力。ただの強襲。剣撃による乱打の嵐。
見守るエルマリカは震えた。
獰猛な獣の牙の如く、居並ぶ敵を片端から食い千切って止まらない。悲鳴と怒号の中を、静かに唸るように疾走と共に片付けていく。
打ち倒されし十六人。
足を止めたシラノは咳き込み血を吐き出しながら、それ以上の鮮血を生んでいた。
「あらぁ、壮観ねぇ……天地創世の魔剣を倒したというのも嘘じゃあないということかしら」
「……次は、
感心したように漏らす淫魔の傍には、粘土板を抱えた邪教徒と邪術使いが一人。
向けられた野太刀の切っ先。
だが、これまで幾度となく剣士と相対してきたエルマリカも凍え付くほどのシラノを前に、女は余裕の表情を崩していない。
……今度は〈
だというのに、それでもなおどこか歪な不気味さを感じ得ない――そんな女が、やおら口を開いた。
「ふふ、あなたに殺せるかしらぁ? ええ――仮にも同族だというのに」
「……同族?」
野太刀を掲げ直さんとするシラノが止まる。
その問いかけを前に、女はまさに我が意を得たりと両腕を大きく開いた。
「不思議だとは思わなかった? どうしてあなたが触手使いの家系に生まれながらまともに触手が使えないのか……どうして数ヶ月前から様々な事件が起き始めたのか……そして、どうして私たちがあんな近代的な手法でこの街を手中に収められたのか……」
くすり、と。
女が流し目を――仮面が砕けて半面があらわになったシラノへと、流し目を送る。
籠められし念は、挑発・嘲笑・愉悦・翻弄・喜色――……いや、そして何よりも――――。
「
「ええ、その答えは一つ……あなたも私も、
「
怪訝そうな声を前に女は勿体ぶって頷き、高らかに謳うように告げる。
「ええ、そうよぉ……。私たちは同じ――――相応の罪もないまま無念を懐いて死せることで、かつて封印された淫魔の魂と入り混じって再びこの世に現れしもの。
口づけを求める貴婦人の如くシラノへと手を伸ばし、女はおもむろに口角を上げた。
これこそが要訣であると。
これこそが、この世の何よりも重きものであると。
それ以外のことはまさに、ただの余興にしかすぎぬのだ――と。
「これこそが――――
「
呟き返すシラノを前に、我がことの如く女は髪を掻き上げ言った。
「ええ。懐かしきあの地球から、この
その言葉の真意は、二人にしか分からぬ事実。
女がシラノに送る視線――そこにあるのは、確かにある種の友愛の情であった。
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