第52話 ア・モーメント・オブ・クイック・カタナ・ドロー その二


「もう――消えてッ!」


 エルマリカの絶叫に合わせ蒼炎が弾け飛び、渦巻くは豪速の旋風。

 音速を百五十倍以上凌駕する螺旋は大気を限界圧縮させ、その空力熱により電離体プラズマに至らせた。

 さながら暗黒龍の口腔めいて広げられた大渦の刃は蒼き燐光を滾らせて、掘削機じみて万物を削り弾く究極の牙を為す。

 迫る。氷空の向こうから――死と破滅が、黒き竜巻が迫り来る。


(……)


 瞼を閉じた。

 竜の旋風を前に、虎口めいて己を中心に円を描くのは八の刃。握った腰の二本差し。

 同時に多方向からの斬撃。それしか渦を止める手立てはない。渦に取り込まれた〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の欠片を纏めて斬り払う――それが唯一の解決。

 スゥと呼吸を絞る。

 宙に撒き散らした触手の粉塵が消し飛ばされ、その触覚だけが頼りとしてシラノに死を知らせた。

 天地左右、逃げ場などなし。万物を灰燼と帰す無双の刃を前に立つはただ己一人のみ。

 至るは死地。臨むは死線――中腰に柄と鞘を握り締めたシラノは、ただ叫んだ。


「イアーッ!」


 見開き、半瞬――迎え撃つは四の太刀。

 空に生じし極紫色の触腕が握るは、野太刀の柄と宙のその鞘――――多段的に鞘が弾け飛び、次いで刀身が炸裂する。

 十八段+十八段――重なりし七十二発の瞬撃。二重掛かりの超加速。巻き起こりしは、鬼域の抜刀であった。

 音を遥かに置き去りに弾ける剣閃。

 螺旋を描く四つの刃は、まさしく光芒として渦へと叩き込まれた。


「――――ッ」

 

 だが――。

 作り出せる触手刃の限界量は九八一本。

 三段突き一つで消費する触手刀は、計七本。

 重ね合わせられるのは一四〇。それ以上でも以下でもない。

 八の刃――ただ単純に一つあたりの分量に直せば、どれも魔剣の出力には届かない。

 果たして、四の太刀は弾けた。

 風に触れた半ばから砕き飛ばされ、その反動のまま触手野太刀は弾き飛ばされる。


「イアーッ!」


 構わず、半瞬に次いだ四の太刀。

 紫色の四閃が吸い込まれ――ああ、だがやはりと言うべきか。届かない。暴風に叩き戻される。弾き返される。

 土台、及ばぬのだ。

 シラノの刃では。触手の技では。その出力では。

 弾き戻される紫の刃と共に、鬼面の鎧めがけて黒竜の大顎が迫り――

 


 ◇ ◆ ◇



 石畳に雨粒が降り注ぐその路地で、強烈な靴音が打ち鳴らされた。

 振り上げ――ただ振り下ろす。それだけの踏み締め。無造作に繰り出された靴裏は石畳を砕き、音の波となって周囲を駆ける。

 そして、跳ね返るその音の波をノエルは余すことなく拾い上げた。

 反響定位エコーロケーション――今ひとたび、ノエルは音界を視る。一秒。


「ふ――ゥッ!」


 蝙蝠こうもりめいて音波により周囲を把握したアレクサンドの振るう戦斧は、寸分違わず石畳を打ち砕く。

 繰り出されし破片が、的確に行く手を阻む剣符を巻き込み無意味な拘束具へと変化させた。

 砕け散る二秒目。戦斧を流れるように担ぎ上げ、アレクサンドは歩を踏み出す。ここで――剣符使いのアルトノルは瞠目どうもくした。

 淫魔の洗脳を受けてなお、否――洗脳の中で彼女を強く守りたいと願うからこそアルトノルの戦技は衰えず、だからこそ違和感に呑まれた。

 早い――のだ。

 速度としてのではない。

 流水めいたアレクサンドのその動きは、まるで時の流れを飛ばしているように早いのだ。


「く……!」


 符を巻き付けた剣を構え直す。全速で動くアレクサンドは、剣符を爆裂させながら踊りかかったイルヴァの攻撃を容易く掻い潜りアルトノルまで迫りくる。

 むざむざと斬り捨てられるほどアルトノルは素人にあらず――だが、だからこそ術中に嵌った。

 アレクサンドが継いだ一歩――だが、起こるべき硬直がない。あるべき場所での力みがない。そうあるべき減速がない。

 

 全てが無拍子――さながら、亡霊だ。空間を流浪する亡霊。流転する幻影。

 武に触れた以上は知っている人間の動きとしての限界を――そんな“こうある筈”という達人故の知見を全て凌駕し、アレクサンドはその先に来る。

 人体の構造上、起きる他ない予備動作や補助動作。

 それら全てを巧みなるで捻じ伏せたアレクサンドは容易く眼前に迫り、既に振り下ろされしその豪剣はアルトノルを一刀の下に沈黙させた。


「ハ! 亡霊殺しは初めてだよ!」


 飛び掛かるイルヴァを戦斧の腹が横合いから迎え撃ち、しかし巻き起こった爆発に押し戻される。

 握った刃が反動に震えた。イルヴァは猫めいて身を翻し着地する。追撃を図った刃物の投擲も、爆轟に押され弾き返された。

 爆発による自動防御。

 完全精密制御/動作の究極効率化――極限状態まで加速させた体感時間の大半をつぎ込んだ精密動作補助を、物ともしない気構えであった。


「……」


 呼吸を絞る。――四秒。

 柄を握る右手の握力が薄れていた。“呑竜どんりゅう”……なるほど確かにこの力ならば、魔剣に拠らず竜とも戦えるだろう。

 防御を無効化する魔剣以外は突破し得ない絶対の盾であった。


「文字通り刃が立たないって奴じゃん? ハハ、さっさと諦めなよ! どうせ無駄なんだからさぁ!」

「さあて、そろそろ仕上げかねえ……噴ッ!」


 淫魔から嘲笑が響き、応じたイルヴァは爆速の踏み出しと共に突撃してくる。

 肩を沈めたアレクサンドは、ただ小さく鎧の内で声を漏らした。


「……ノエル」

《はい。……存分に。わたしは武器です。貴方の刃です》

「感謝する。……今こそ、俺の半生の価値を」


 落ち着いた口調とはさながらに、アレクサンドは知らず頬を歪めていた。

 攻撃の瞬間弾き返されるというなら――ああ、まさしく。

 まさしくそれは怨敵と同じだ。アレクサンドが打ち倒すべき魔剣と同じだ。打ち倒してやらねばならぬ魔剣と同じだ。

 故に――呼吸を絞った。五秒。ならばこそ、ここに打ち倒す為の“秘剣”がある。

 一歩、踏み出す。繰り出ししは片手握りの長剣。右から横薙ぎに振り抜き、で剣の腹を打ち付ける。

 その瞬間、巻き起こる爆発。淫魔は有利を確信した喜声を上げ――


「ハハ、無駄無駄! もう詰んでるんだって――、ぇ……?」


 絶句に途切れた。

 それも当然だろう。イルヴァは昏倒させられていたのだから。

 ぎし、と鎧の関節部が悲鳴を上げた。実際、剣を握る右腕も酷い有様だろう。人の身を超えた重量の、その遠心力を籠められたのだから。

 あたかも大顎で挟み込むかの如く、右から放ちし刃が弾かれるままに回転して左から叩き込む。

 これが、アレクサンドが生み出しし秘剣の一つ――“飛鰐ひがく”。

 攻撃が弾かれるというなら――敢えて弾かれることで

 敵の自動防御の力を利用することで突破する――その理屈を成り立たせるのは、ひとえに加速させた体感時間の中でよどみなく身体操縦を行うノエルがあってこそだ。

 常なる身では右腕が千切れ飛んでいただろう。だが、ノエルが芯を為す以上は完全に引きちぎれる心配もない。


末妹エルマリカはこれほど容易くはないが……貴殿のその研鑽、敬意を表する」


 一度頭を下げ、剣を戦斧に換装する。

 過剰逆流バックファイアが蒼く鎧を苛むが、佇むアレクサンドには最早関係がなかった。


(ノエル……後いくつ続けられる?)

《四数える間なら……ただ、右手をこれ以上は……》

(委細承知した。……それで十分だ)


 睨みし眼前に立ちはだかるは、銀髪の魔剣使いと蒼髪の淫魔。

 淫魔――怨敵だ。まさしくアレクサンドが断たねばならぬ怨敵だ。この世のどこに居ようと、家族に手を出した以上は償いをさせねばならない怨敵だ。

 王の血族としてではない。家族として、長男としてアレクサンドは刃を握り直した。



 ◇ ◆ ◇

 


 紫色の極刃が閃く。

 弾き飛ばされて――だが、それで良かった。

 先に放たれし四の刃は魔剣の斥力を存分に受け取り、しかし握り締める――否、柄と完全に合一した触手に御されて振り子めいた円を描く。

 逆の螺旋となり、目指した先はたった今渦に触れたばかりの四刃。

 あたかも黒渦とに挟み込むように、四つの太刀が太刀の峰へと衝突し――先端の刃が再加速。再び渦を目指す。


「……ッ」


 最早音が響くより先に、その現象は巻き起こる。

 魔剣の斥力に負け、幾度となく刃は弾き返され――だが、その度に挟む刃に再衝突し再び渦へと斬り込んでいく。

 何度跳ね戻る刀身を打ち付けられようとも、挟み込むように迫る色濃き紫刃には減衰らしき減衰は見られない。

 そうだ。

 より、重ねた。重さを増した。数十段に合一させた。先に放ちし刃は今なお跳ね返される刃よりも比重が大きく――――そして、これこそが突破口だった。


 有形・無形・不定形――万物を影響下に置き、万物に投射される〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の斥力。

 対象に応じ無限に出力を増大させる無双無比のその力。

 だが、その特性故に星を砕けようとも――それは決して絶対的な出力にあらじ。

 たとえどれほどの斥力であろうと、どれほどの魔剣であろうと、常に万物を同じ速度に加速させるというならば――。

 どんなものでも必ず一定の速度にしか到達させ得ないというならば――。


(……


 これこそは、絶対であるが故に生まれた綻びであった。

 再接近する刃は、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の力の結界に阻まれてまたしても弾き返される。

 だが、その度に峰へ激突する後続の刃の力の一端を受け取り――再び渦へと叩き込まれていく。

 それが、繰り返される。刹那よりもなおも濃密な時間で、超新星の瞬きよりもなお鮮やかに、無限の剣戟が万華鏡めいて煌めいた。

 三点が、迫る。

 刃と刃、そして渦の距離が詰められていく。


 そうだ。

 触手の技で及ばぬというなら――。

 ああ、シラノ一人で及ばぬというなら――。

 。これこそが、まさに連綿と受け継がれし武術の基礎にして深奥だった。


「――」


 そして。

 ついに――至る。

 渦と刃と刃の距離が零となる。剣で剣を挟み込んだその間隙が埋まる。全ての間隔が無になる。

 それこそは、勝機――唯一無二の勝機。

 瞬間たがえず、精神が呼応した。それは最早シラノの喉ではなく、魂から繰り出された。


「イィィィィィィィアァァァァァ――――――ッ!」


 重ね合い、放たれし多段斬撃。

 刀身から、虚無から生じる無数の触手刃がその先端を押し込めていく。〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の破片が権能を発揮する傍から喰らい付いていく。喰らい掛かっていく。

 鎧が軋んだ。

 竜の渦がその空白に抱きし電離体プラズマはシラノを呑み込み、その外骨格を端から蒸発させる。だが同時に鎧の奥から鎧が生じ、ただひたすらに熱伝導を遠ざける。

 刃が悲鳴を上げた。

 牙を突き立てて、まさに食い破らんとする刃に崩壊が迫る。

 シラノの精神の顕現である触手は、天地創世の魔剣との戦いを考えていないのか。それとも衝突の圧力に屈したか。刃の方々からひびが入り、無残にも剥がれ落ちていく。

 押し負けるか。たかが人間の精神では、その発現では、銘なき刀では勝てぬと云うのか。

 奥歯を噛み締めた。

 いいや、――そう問うた。ただ問うた。己の精神目掛けて号令を発した。

 何故、死したるのちにこの世にいるのか。

 何故、止まることもせずに立ち向かっているのか。

 何故、ただ朽ち果てることなく立ち上がると決めたのか――その意味を思い出せ。


(俺は……)


 焼ける。灼ける。世界が燃える――――一面の灼熱の閃光の中、閉じた瞼の奥で瞳に焔を灯した。

 何者にもなれずに死するのではなく。

 他でもない何者になる為に。誰でもない誰かになる為に。

 その為に自分は剣を――――――否、否、否、違う。そんなことはどうでもいい。それは何だっていい。そんなことは必要ない。

 そうだ。この身は、この刃は。この剣に与えるべき銘は。

 ただ、一つだ。ただ一つの為にある。その為だけに立ち上がったのだ。

 そうだ。叫べ。決して許せぬ不条理を覆す為にそう名乗ると誓ったならば――


「俺は、触手剣豪だ――――――ッ!」


 果たして、八の刃は砕け飛ぶ。崩壊する刃を振り抜いた。

 強度の限界を迎え、触手野太刀は光に還る。或いは剥がれ落ち、その極紫色の破片は塵として空間を満たす。

 天地創世の魔剣と衝突してなおも形を留める刃を今のシラノに作ることはできず――。

 だが、既に。


「……触手、抜刀」


 吹きすさぶ風が止む。

 その刃は、竜の渦を切り払っていた。


「ハ、ぁ……」


 外骨格から煙を上げつつ、腹から息を絞り出す。

 限度である立ち合い。極限の一騎打ち。最早二度はできぬという剣戟の果てに一度瞼を閉じそうになり……。

 だけれども、気付いた。

 エルマリカの姿がない。シラノが捉えられぬ速度で移動しているのではなく、彼女はまさにこの空間にはいない。

 そしてそれに応じるように――。

 目線の先。大地の外。星の海――遥か頭上で、煌々と極光が輝いた。



 ◇ ◆ ◇



 十だろうか。それとも五十か、或いは百だろうか。

 どれだけ数えただろう。エルマリカは未だ、シラノの前に姿を現さない。

 仮に百だとするなら、上空五〇〇〇キロメートル。……上空、などという呼び名が不適切に思える。それはもう、ほぼ宇宙空間だ。

 空気抵抗を受けず、重力加速だけを受け取るつもりなのか。つまりは彼女は今まで以上の速度で突撃してくるというのか。

 そうなると、先ほどの攻略法は通じない。彼女もまた、死力を尽くしてシラノへと激情を叩きつけに来ていた。

 極光が迫る。

 隕石めいた――などと言う形容詞すらも不適切だ。彼女はその七倍以上速い。或いはシラノの下に到達するまでには、その十倍や二十倍に至っているかもしれない。


「……」


 馬鹿馬鹿しい、などというものではなかった。

 人の身を超えた神。最早その領分にいる。この星を砕くと知ったそのときからか、その前から思っていた。剣士の身には余る難敵だ。

 万全でも一方的にくびり殺されるだろう。それを前に、今の自分は満身創痍だった。

 だが――と考える。

 刃物を三寸斬り込めば人は死ぬ。石で殴り続けられても、囲んで棒で叩かれ続けても人は死ぬ。

 星を壊すことも、人を殺すことも、いずれにしろ死ぬという事には変わりない。

 つまりはただ――いつだって死地だ。いつだって生死のはざまで戦うしかない。

 今更、恐れるのも愚かしい。なんにせよ、負けたら死んでしまうのだ。


「ああ、そうだ……さっきから、何も変わらねえ。……来いよ。気が済むまで、付き合ってやるから」


 無理矢理な理屈で恐怖を押し込め、剣の柄を握り直す。

 そうすると、不思議と心は落ち着いた。あるのはただ、エルマリカの嘆きを止めてやりたいという――そんな思いだけだった。

 腰の二本差し。一本を握り、呼吸を絞る。

 骨は砕け、肉は焼けた。甚大な痛みを前に肉体は感覚を手放し、痛覚は既に氾濫した。

 故にこそ――至れる境地があった。


「はぁー……すゥー……」


 死にかけの肉体。消えた痛覚。

 だが、感じているのだ。僅かにそよぐ風を。漂う破片を。落下の風圧を。その微細な変化を。

 そうだ。触覚だ。これは、だ。

 触覚――触手の懐きし唯一の感覚が、疲弊しきった身体から五感という肉体の領域の一角を奪い取ったのだ。


「はぁー……すゥー……」


 胸が膨らみ、萎まっていく。合わせて肩が上下する。

 触手が知らせてくる。肉体を巻き締めし触手鎧が、その幻覚的な触覚が今やシラノと世界とを接続していた。

 鎧だけではない。宙を漂う破片も、握り締めた鞘も、内に秘められし刃も――その全てがシラノの感覚器を為していた。その周囲の状況を密に伝えていた。

 現実が拡張される。存在が拡張される。シラノという枠が広がる――或いは捻れる。

 いや、狂うのだ。外界と内面の区分が狂う。肉体と精神の領分が狂う。狂う。狂う――


「――……」


 瞼を下ろした。――支配率が塗り替わる。

 耳を封じた。――比重が上がる。

 口を閉じ、――浸食が進む。

 鼻を塞ぐ。――境界が歪む。

 あるべき肉体の持つ機能を封じた。四つの肉の感覚を断ち切り、ただ一つの魂の感覚に己を委ねた。

 肉体の権能を捨てる。全てを精神の顕現に手渡す。

 魂の一部ながらも実態を持つその極紫色の精神へ――己を明け渡した。

 変色――――燃え広がるが如く鬼めいた面頬の全身鎧が黒く染まる。鬱血のように赤黒く、青痣の如く青黒く、そしてそれらが混じり合った――重鉄じみた深黒い炎の模様。深淵ならくほむら


「――――……」


 、と――――。

 精神が肉体の領域を侵食する。

 非現実が現実へと侵食する。

 非実体が実体へと侵食する。

 不条理が条理へと侵食する。

 炎の五芒星が脳裏で踊り、虚空に浮かんだ戸口のその奥に潜むの気配を感じながら――来た。

 エルマリカ。己を一振りの刃に変えし接近。天蓋から振り下ろされし究極の一刀。

 それをった――――その、瞬間であった。


「――――――――――っ」


 ああ、肉の器にありながら肉の器の門を封じ精神の感覚器だけで外界を捉えるという――――――その矛盾。

 


 己の内と外が溶け合わされて振り乱されるかの如き、押し寄せる情報の氾濫と混乱。異常拡張した触覚の嵐。

 暑さ・寒さ・冷たさ――金切り声を上げながら錆びた刃で神経を切り刻まれるかの如き痛苦が訪れる。

 否、これは神経の更に奥だ。魂そのものに与えられる痛みだ。肉の檻を超えた先だ。

 電撃を伴う寒気と灼熱に似た狂気的な感覚の暴風の中、凍りついた世界の。おどろおどろしい怪鳥の悲鳴のように、おぞましい狂女の奇声の如く。或いは焦げ付いた臭いじみて。金属の味さながらに。

 情報という名の矛盾の悪魔が、その指先がシラノの魂を掻き混ぜる。魂を掻き乱す。

 脳髄が遅れて酔った。目を閉じた暗闇の中で暗黒の焔が躍った。

 今まさに、シラノの精神は肉体を外れていた――否、精神が肉体を支配していた。肉の重さから解き放たれていた。


「――――」


 魂で思考し、魂で判断する。脳髄を経ない工程。精神そのものが思考回路を形成する。

 最早、生体電流などという肉の身の遅さには囚われない――シラノの精神は、まさに神域に至った。

 ――来る。

 迫るエルマリカを感じた。その殺意の剣閃を感じた。

 自然、触手外骨格の表面に“帯域タイイキ”を生み出していた。その召喚陣が、自動的に弾ける電撃が彼我の距離を警鐘する。

 必然、握るは一刀。放つは一刀。

 この世界において魔剣を切り払った初めの一太刀――即ち、


「イイィィィィイアァァァ――――――ッ!」


 持てる力の全てを合わせた。

 迫る影へと――鞘の内から野太刀目掛けて生じた刃が、衝突する切っ先と切っ先が、握る柄が爆速で射出される。

 彼女の防御圏を――その加速度を抜くために必要な速度は音速の百八十倍以上。

 その速度で――まずは個々に独立した刃を、一塊だと看做されぬ刃を、無数に割った刀身の内の先端の刃を竜の角に命中させ――直撃させた刃から更に多段斬りを改めて放ち、相手の防御圏の先へと押し込む。

 触れるか触れぬかの極限。

 そして触れた直後の極限。

 その一瞬を見極め、多段斬撃で切り払う――それのみが許されし活路。己を活かす剣となる。

 重ね合わせしは三十の刃。三十の触手。

 生まれしは実に九十段突き――その神速の一閃が、迫りくる竜の装甲の表面を捉える――――その瞬間、


「イイイィィィィイアアァァァァァァ――――――――ッ!」


 両刃の間の無限の虚空の中、極彩色の刃閃が発露する。

 白神一刀流・零ノ太刀――“唯能ユイノウカサネ”/“唯能ユイノウオロシ”/“唯能ユイノウカスミ”――これこそはアワセノ太刀“唯能ユイノウアマツ”。

 産まれしは幾重の斬撃。

 実体を得た切断の意志は、死地を斬り拓かんとする人間の意思は、ついに禍々しき竜の角を手中に収めた。

 激突に――重ねること、さらに三十。

 霞を上げ、雲を放ち、蒸気を産んだ最前列の激刃が重力圏で喰らい留まる――――否だ。

 境界に触れしその刃を後続が押し切り、邪竜の結界たる斥力を力づくで捻じ伏せ――否、斬り抜けにかかる。


「――――――――――――――ッ」


 乾坤一擲。渾身の一刀。今のシラノに放てし、唯一にして無二の太刀。

 己という存在を、己という精神を全て斬撃という方向性に研ぎ澄ました。

 地獄からの咆哮めいて斥力が唸りを上げ、刃が押し退けられるのを――――更に押し込める。

 権能を抉じ開け――そして、ついに捉えしはその魔剣の真なる刀身。権能の境界面のその先の、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の真なる本体。

 今こそ好機。今こそ勝機。今こそまさに無二の刹那。ただ一心に、最先端からさらなる刃を発現させ――


『……無駄なのよ、シラノさん』


 ……聞こえる筈がない。この極限空域では、限界まで伸長された加速時間の内ではそんな音が聞こえる筈がない。

 或いは彼女が声を弾き飛ばしたのか――それともそんな思考を飛ばしたのかはともかく。

 シラノは確かに、そんなエルマリカの冷笑を聞いた気がした。


 ……断熱圧縮という言葉があった。

 空力熱と言い換えてもいい。物体が音速を超えるとき、その最先端に激突した空気は逃げることができずに圧縮される。圧縮され、それは高温となる。

 しきりに〈竜魔の邪剣ノートゥング〉が放った電離体プラズマは、そんな力を正に発現させた結果であったと言っていい。

 その温度は、音速を超えた速度に比例して上昇する。

 普段は〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の権能により気流を減速させて無音・無反動・無破壊の移動を行っているエルマリカであったが――ことここに至り、彼女は違った。


 単純に言おう。

 彼女は空気中での高速運動に伴う熱を、空気ある限りどうしても生み出されてしまう熱を――百数十万度の熱を刃へと貼り付けて極限まで収束させた。

 抱きしは数千万度。恒星の中心温度を遥かに凌駕する白き双角を持つ邪悪なる炎竜。

 刃から外へは熱は放たれない。

 だが、その真なる刃に触れしものは容赦なく焼き尽くされる――ここにきて、彼女が編み出した最強の防御であった。


(……ッ)


 無敵。究極。一体、何度そんな言葉を遣えばいいだろう――。

 触れた半ばから触手の刃は蒸発させられた。強制的に形成を解除される。想定しえない高温は、瞬く間に触手から実体を奪い去った。

 断たれた剣先が舞う。

 迫る。眼前に迫る。刃を振り抜きし姿勢のシラノ目掛けて、邪竜の剣尾が稼働する。

 来りしは、死。

 既に精神で戦闘思考を行うシラノの体時間が、更に臨死にあって引き延ばされる。

 ――あたかも不埒者に教えようとばかりに。所詮は人の身では神には届かぬのだとばかりに。その無謀を悔いて、半生を嘆き、討ち果てよとばかりに。

 右腕を開ききった胸元へと、黒く輝く尻尾の剣先が殺到する。


(――――――――――――――――――――――――――――)


 貫かれて、死ぬ。それがシラノ・ア・ローの結末だと。

 斬り伏せるという意思の下に捻じ伏せた触覚の狂乱が、体感覚が再膨張する。

 走馬燈が脳裏に生じ、この世界で過ごした己の生を反芻し、


 ――――〈なんかじゃない。その剣は、俺にお前を斬らさせなかったんだ〉。


 シラノが腰にあるのは二本差しだ。そう――だ。

 精神が撃発した。咆哮した。触手が柄を掌握し、魔剣が呼応した。〈金管の豪剣群ブルトリングス〉が声に応えた。

 鞘の内で切っ先が弾ける。刃と刃が互いに衝突し、〈金管の豪剣群ブルトリングス〉は弾き出された。

 ただ頑強であれ、ただ強固であれ、ただ護れるものであれと――刀工の願いが込められた直剣が疾走する。

 胸に突き立たんとする邪竜の尾の横を抜け、描いた弧月の斬撃。目指すはその邪悪なる蒼白の竜角。

 無論――〈金管の豪剣群ブルトリングス〉にそこから斬撃を放つ機能などない。触れしところで、ただ弾き飛ばされるだけだ。

 そうだ。ああ――


「イアーッ!」


 宙を舞う切っ先からさらなる刀身を射出する。射出し、己の胸に正に貫き立たんとする〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の尾に反射させた。

 最早、出し惜しみなどない。

 その刃の内に無数に召喚陣を重ね合わせ、合一させ、その傍から刀身の亀裂へと変える。爆発させる。

 権能と射出で限界速度へと加速されたその刃は、空間に一閃をなぞり――目指すは一点。

 額の双剣の内の一刀。エルマリカの額から生じし禍々しき曲刀と激突した両刃の直剣を――〈金管の豪剣群ブルトリングス〉を、触手の刃が押し込んだ。


「イィィィィィィィイィィィ――――――――」


 鏡めいた白き直剣ブルトリングスと、炎めいた黒鋼色の曲刀ノートゥング。そして、その背を押した深遠なる宇宙めいた極紫色の切っ先。

 ただ二つ、向き合うは悪竜と鎧鬼。

 母なる大地と星の海の境界で二つの剣が睨み合うその刹那――或いは六徳、或いは虚空、或いは清浄――――極限に圧縮されたる時空の狭間で剣が打ち合わさった。

 そして、断つ。それは、断たれる。

 赤い首布がはためくと同時、改めて放たれしは多重斬撃――最後の触手刃。最後の触手剣術。渾身の触手抜刀。


「イイイィィィィィィィイアァァァァァァ――――――――――――ッ!」


 曇りなき直剣の刀身に亀裂が入る。

 だが、リアムとの邂逅の再現の如くその魔剣は多重斬撃にすらも耐え抜き――そして、蒸発までの僅か半瞬。

 刀工が願いを込めし刃は――。

 受け継がれし刃は――。

 人が担いし刃は――。

 伝えられし〈金管の豪剣群ブルトリングス〉は――無銘の魔剣は、天地創世の伝説魔剣を両断した。 

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