第51話 ア・モーメント・オブ・クイック・カタナ・ドロー その一


 百神一刀流とは、淫魔と戦うために生まれた触手使いの初級の術法である。

 触手の持つ権能を理解させ、術理を体得させ、操法を修練させ、以ってさらなる上級の召喚術に至る為の戦闘技法だ。

 故にこそ、その技は淫魔に特化しているものではなく――大きく対人や対獣という範疇に収めることが可能であった。

 初級。故に万理に通ず。

 だが、果たして誰が考えるであろう。

 触手初級の法理を以って剣法に至り、そして天地創世の魔剣と相対するなどとは――


「イアーッ!」


 ――白神一刀流・一ノ太刀“身卜シンボクグソク”

 生み出された触手は落下するシラノの四肢を縛り上げ、そのまま装甲として硬化した。

 そして、召喚陣から切り離される。更に切り離された触手の断面からまた新たな触手が生じ、装甲として覆い尽くす。――二ノ太刀“刀糸トウシ穿ウガチ”。

 握る柄尻に生まれた召喚陣により、野太刀が電撃を纏った。――三ノ太刀“號雨ゴウウナダレ”。

 決して滑り落とさぬよう、柄と手から微小の棘が生じる。――四ノ太刀“十能トノウマガツ”。


「イアーッ!」


 叫ぶに合わせて、触手刀の内に生み出された触手刀が合一し余剰水分を吐き出した。――五ノ太刀“矢重ヤガサネカスミ”。

 宙に生じさせた鋼板を足場として降り立つ。――六ノ太刀“甲王コウオウツルギ”。

 鎧の内部を不定形の触手で満たしつつも、衝撃で硬化し骨格を生み出す仕掛けを備える。――七ノ太刀“無方ムホウオモシ”。

 複合層の鎧の内に設置した召喚陣による爆発反応装甲。――八ノ太刀“帯域タイイキオロシ”。

 鎧の中に生じさせた鋼弦。動作を助け、侵入した異物を受け止める線の防壁。――九ノ太刀“陰矛カゲホコオモテ”。


「ふゥー……」


 補強させた触手の強化装甲の下、シラノは息を絞った。

 持ち得し技は九つ。

 予め軌道を設定した触手の発現による拘束――一ノ太刀“身卜シンボク”。

 触手の自切と触手そのものを陣と置き換える――二ノ太刀“刀糸トウシ”。

 陣を用い、しかし触手の副産物のみを射出する――三ノ太刀“號雨ゴウウ”。

 突起・振動・電撃の三権能をその身に纏わせる――四ノ太刀“十能トノウ”。

 触手同士への引力の発生と合一による存在強化――五ノ太刀“矢重ヤガサネ”。

 鋼鉄ほどに強度を増させる硬化と液状に至らせて再形成する――六ノ太刀“甲王コウオウ”・七ノ太刀“無方ムホウ”。

 空の召喚陣からの存在感知による自動召喚――八ノ太刀“帯域タイイキ”。

 射程内で敵の死角からの召喚及び座標を敵に合わせる――九ノ太刀“陰矛カゲホコ”。


 対する敵の権能は二つ。

 刃に触れる万物を遠ざけ、その力を塗り潰し邪竜の一撃として即座に射出する“憎”の攻撃。

 刃に触れた万物を支配下に置き、その表面から決して進ませることのない“愛”の防御。

 ただその二つによる、究極の矛と盾――それがエルマリカという少女の振るう暴力だ。それが、彼女を邪竜へと追いやった。その嘆きを無視し、その悲しみを塗り潰す装甲を形成した。

 まさしく彼女は、その力のみならば邪竜と呼ぶしかない。


「断つ? ……ふふふ、まだそんなことを言うのね。わたしは無敵なのに……無敵じゃなきゃ意味がないのに……いらない子になってしまうのに……」

「……」

「そう……シラノさんは……そんなにわたしが嫌いなのね……。あなたまで、わたしのことを嫌うんだ……。わたしは無敵じゃなきゃこの世にいちゃいけないのに……わたしは無敵なのに……。わたしは無敵で呪われたおぞましい竜なのに!」


 絶叫に合わせて、視線の遥か向こうのエルマリカが翼を広げた。


「ええ――――ええ、もう許さない。許せない。許さないわ。どうしてわたしのことを認めてくれないの? なんでわたしを許してくれないの? どうして? わたしは何か――何か悪いことをしてしまったの?」

「……」

「どうして、わたしは生きてちゃいけないの? どうしてわたしは助けて貰えないの? いいえ――いいえ、わたしは無敵の呪われた竜よ! だから生きていていいの! 誰の助けもいらない! だから助けが来なくても仕方ないの!」


 広げたその翼に、突き出したその尾に、エルマリカの全身に風が渦巻く。

 大気密度の低い成層圏界面。その中でも、暴風が巻き起こった。空間という船体に空いた大穴めいて、宙にあるあらゆるものが吸い寄せられていた。

 権能の応用。“引”と“斥”とを利用しその刃の上で万物を移動させるという牙。

 そして、そんな牙が――光として放たれた。


「イアーッ!」


 咄嗟に宙に生じさせた五十三層の触手鋼板が、しかし蒼き光線に一息に食い破られた。

 熱した刀を雪原に突き込んだかの如き溶解――だが、シラノの驚愕は止まらない。

 続いた閃光。

 エルマリカが広げた翼から、迸ったのだ。否、などと思う暇もない。認識すると同時に、雷撃に全身が叩きのめされていた。


「――が、」


 意識が飛んだ。世界が白く塗り潰され、次に認知したのは天に棚引く赤いマフラーであった。落下が、始まっている。

 星だけが輝く暗天の中、黒よりもなお漆黒の全身鎧を纏うエルマリカが翼を広げる。その身で渦巻きし暴風の積層構造は、最早光すらも屈折させている。

 それが、動く。シラノに照準を定める。


「……っ、イアーッ!」


 辛うじて、宙に呼び出した鋼板を蹴りつけて脱した。靴裏で起こる触手抜刀の反発移動が、シラノを死地から遠ざけた。

 間一髪。虚空を抉った超高速の一撃が光に散る。

 直後に――――雷撃。蒼白の電牙が天空を縦に裂いた。

 摩擦と衝突により電子は分離させられる。それを束ね続けた正の荷電を持つ粒子による砲撃と、翼から追従する負の荷電――電子――青白き電撃。

 シラノに追いすがるように、流星群の如く次々に殺到する死に至る直線と波線。まさしく神話に謳われる神の権能じみて、エルマリカは炎と雷を振るっていた。


「あはははは、どうしたのシラノさん! これがわたしの力よ! これがあなたがって言ったわたしの力なのよ!」


 光線の雨に響くエルマリカの哄笑の中、加速の反動が吐血としてシラノの口腔を蝕んだ。

 使えて残り一度。それを過ぎれば、その反動だけでシラノは自沈する。――ここが極限であった。

 そして、神の権能を振るうエルマリカの周囲には未だに暴風が渦を巻く。なんらか切り抜けられねば、あとは釣瓶打ちで死に至る。それだけだ。

 加速が失墜する中、息を絞った。このままでは豆粒ほどのあちらから、エルマリカだけが一方的にシラノを嬲り続ける未来に達する。


「イアーッ!」


 そして――周囲に呼び出すは数多の触手刃。

 円形に己を覆うその召喚陣を、多重に被せる。五つ重ねの召喚陣で、その剣の内に更なる剣を生み出し無理矢理に合一させる。

 精神が警告を叫んだ。頭痛が地割れの音めいて響く。

 これも使か――否、黙らせる。押し込める。不必要だと斬り捨てた。

 今こそ此処は正に死地――死なぬ為にも殺せ。己を殺せ。痛みを殺せ。無理を殺せ。

 此処が死地だ。此処こそが死地だ。己が何者かを思い出せ。

 そして、剣に仕込むは帯域タイイキ。刃を壁と――盾と為す。


「イアーッ!」


 射出の必要はない。ただ待ち構えている刃と竜砲が接触し、派手な爆炎を上げた。

 速射砲めいて降り注ぐ荷電粒子の弾をひたすらに触手刃が迎え撃つ。上回る必要はない。使い切らせるのだ。その身に帯びたエネルギーを。電荷を。これは、亜空から後続を呼び出せる触手だからこその防御である。

 飛び散る刃の粉塵と、辺りを白く染める霞。

 乱れ落ちる雷撃の最中、それでも触手の剣は消えない。通電に適した状態へと変え、雷撃を受け流し続ける。


 そして――肺の底から吐き出した吐息。

 掴みしは、八重に召喚陣を連ならせた柄。僅かに切った鯉口から覗いた刀身に、雀刺しめいて虹色の召喚陣が連なり重なっている触手の柄。

 直後、紫電が歪な弧を描いて己の真横に逸らされ抜けた。

 傘骨じみて作った触手の骨子と、その周囲に剥がれ落とさせた装甲。

 空気は絶縁体だ。そして蒸気――純水もまた絶縁体だ。雷ほどの電圧では絶縁破壊という強烈な通電現象が起きてしまうが――それでも、より抵抗が少ない道を選ぶ。

 通電状態にさせた触手は正に、雷にとっての路であった。


(……ッ)


 だが――それでも。

 使い続けられている。使い減らされている。防壁として焼き尽くされながらも次々に生成される触手が、精神がとめどなく消費されていく。

 一度に生み出せる触手の限界量をまだ上回らない。しかし、これだけの本数を前には同時制御の容量が焼け付いていく。

 あの、外界と内面が溶けるような感覚――触手の権能の大元となった有形にして無形の邪神に帰順するような異常な錯覚。それが、いつ来るか。

 ……いつだって来させやしない。

 黙らせた。ただ、黙らせた。余念を捨てた。己の意識を、精神を――正にその象徴たる触手と同じく一振りの刃に変えた。


(ぐ……)


 土台が、違う。

 人の生体電流は精々が秒速百メートルほど。どう足掻いても、この反応速度を脱することはない。

 だが、魔剣は。この世の条理を塗り替える魔剣はこのくびきを容易く突破する。魔剣を振るう速度と同じだけ術者の反応を加速させる。振るえなければ――剣ではないから。

 故に。

 絶対的にシラノはエルマリカに及ばない。

 ならば。

 そこに雑念というのはなおさら不要であった。死地という事実さえあればよかった。


(――――)


 闇を、蒼白の閃光が裂く。

 外から見ている人間にとっては、熱線の雨と雷の嵐が吹き荒れているのと同然であろう。

 それほどまでの暴虐。片側だけが振るい続ける一方的な破壊。神からの制裁――そう評するしかないほどに、エルマリカという少女は最早一個の熾烈な暴力であった。

 謂わば、神。

 対人や対獣という世界にはない。その為に作られた技で当たるのは、不適と言わざるを得ないだろう。

 百神一刀流は、神域や魔技との戦いを前提に組み上げられた技ではない。


(――――)


 火花が踊る。闇が消える。一面を蒼色が塗り潰す。

 ただ一方的な攻勢。

 初級の術法。対人の法理。触手を操るだけの百神一刀流など、天なる竜母神の前にはあまりに無益。あまりに無意味。

 宇宙との境界。渦巻く豪風と響く轟雷。

 この領域に至るには、あまりにも不適当であった。不適格であった。


 ――だが、シラノの用いるのは白神一刀流だ。

 百に一足りぬからこその白。

 足りぬということは限りがないということ。永遠に満たされず果てがないということ。その限界がないということ。

 この剣、未だ完成に至らず。未だ完全に至らず。未だ完熟に至らず。――故の零。無量に至る零の太刀。

 掴むべきは唯一無二。

 因果を断ち、因縁を斬り、因業を滅す無二の太刀。その一と零の間にこそ、掴むべき無限の勝機がある。


(……ああ。やるしかないなら、退くべきじゃねえ……!)


 己を奮い立たせた。石版を削るように脳に響く頭痛を抑え込み、放たれる砲撃と電撃の全てを凌ぎ切ろうとする。

 否――凌ぎ切るのだ。凌ぎ切るしかない。外からではシラノを殺せぬと思わせるしかない。

 燃やすは心。くべるは魂。貫くは己。

 これを正念場と言うなら。修羅場と言うなら。土壇場と言うなら。即ち――ここが死地である。


「――――」


 弾ける迅雷と閃光の中。自然、動いた。

 ……及ばぬと言った。人では、シラノでは、邪竜の飛翔に及ばぬと。その行動の速度に及ばぬと。

 ああ――――だが、人の処理速度が及ばぬというならば。頭脳が、肉体が辿り着けぬと言うならば。

 ならば、辿り着かせるはただ人類の英知。人類の歴史。人類が積み上げ磨いたその知識。そして、掴み出すは一握の勝機。

 帯域タイイキ號雨ゴウウによる通電が、生体電流を凌駕した通電が、ことここに脊椎すらも経由しない究極の反射が、通電による筋稼働という生体機構が――人の身に成し得る最速の一太刀を生む。

 業を煮やし、触手の防御陣の内に飛び込んだエルマリカ。

 だがその超神速の一閃は、シラノが気付く限界のコンマ一秒ですらも千度は装甲を切り刻む。それほどの暴虐。それほどの激甚。

 しかし――内に飛び込んだ彼女は停止した。停止している。否、停止せざるを得ないのだ――シラノがそう仕組んだ。

 即ち、


「イアーッ!」


 ――――好機。

 無数に刀身を弾き出し、一心に放つは究極の抜刀――そして震える刃。名付けて白神一刀流・零ノ太刀“唯能ユイノウセツナ”。

 権能の一。高速振動する高周波刃は、本来ならば強烈な切れ味として装甲を削り切るだろう。

 だが、今は違う。エルマリカの額の角――双剣――さも〈水鏡の月刃ヘレネハルパス〉の意匠のに止められる。

 止められて――


「あ、な……あ――――!?」


 振動。

 エルマリカの〈竜魔の邪剣ノートゥング〉は、触れし万物を貼り付ける。迫る刃も、空気も、電撃も――その何もかもを止め置く。

 だが、かつて見た。

 斬撃に押されて、エルマリカは横滑りした。

 あれは、射出された触手刃を鎧に貼り付け、しかしその勢いすらは完全に殺しきれぬからこそ起こった事象。

 刃が動こうとした分だけ、動いたと言うなら。

 ならば。

 電撃を往なす為に満ちさせた触手の破片を振動させ、そして叩きつけた刃まで振動させているというならば――。


「なに、これ……どう、して……?」

「……」


 宙に満ちた破片や刃に貼り付き続けようとする劔刃甲冑もまた、その振動に呑まれる。

 そして置き去りにされる本体とその脳、三半規管に引き起こされし混乱――――つまり、脳震盪であった。


「……エルマリカ。鎧を解除してくれ」

「あ、あ……あ、ああ……嫌……嫌よ……嫌……! 嘘……嘘よ……嘘…………!」

「俺が助けに来た。……鎧はもう、必要ないんだ」


 シラノが呟けば、エルマリカは悄然とした嗚咽を喉から振るい落とし、この世には誰もおらぬかの如く首を振った。

 言葉での警告では、通じない。


「……悪いな」


 僅かに瞼を閉じ、その二振りの角目掛けて野太刀を振りかぶる。

 瞬間――シラノの剣が半ばから砕けた。そして全身の装甲が斬り刻まれ、血煙が舞う。

 がしゃりと、鋼の尻尾が戻る。油断したつもりはなかったが――――本体がこの状態にあってなお攻撃できるとは、予想を上回っていた。

 そして、


「嫌……! 嫌……! 嫌……! 今更、近付かないで――――――――!」


 巻き起こる爆風――邪竜は絶望の咆哮を上げた。



 ◇ ◆ ◇



 僅かに昔の話をするとしよう。

 あるところに女がいた。

 金髪が良く似合う女で、森に近い辺境に暮らしていた。身目麗しく、周囲の村では誰が彼女を嫁にするかという話がされていた。

 ある日偶然、付近の森でさる高名な者による狩りが行われた。

 そして――そこからどんな経緯があったのかは知らないが、女はある男と愛を育み、やがてその結晶をこの世に生まれ落とした。

 名をエルマリカ。

 本来ならば、狩人の娘の私児として暮らすはずだった少女である。


 彼女が七つのとき、王宮からの使いが現れた。

 祖父は既にこの世になく、母は長らく病床に伏せていた。

 そんな中、彼女の母を影から支援していたと名乗る使いはエルマリカに言った。“その力が必要なのだ”――と。

 母は渋ってはいたが、病床で長くもない身だ。エルマリカの将来を想い、彼女を王宮に差し出した。

 他に七人いる兄妹の末娘として彼女は王宮に迎え入れられ――そして見初められた。


 その銘を〈竜魔の邪剣ノートゥング〉。


 王家に伝わるその力の象徴である二振りの内の一つであり、今も呪われし竜母神フュルドラカの怨念が遺ると謂われている魔剣であった。


 万物を受容し支配し、そして拒絶すると呼ばれる究極の防御の剣。そして防御を攻撃に転じた無敵の矛である剣。

 だからこそ、その扱いには様々な制約と――そして誓約が必要であった。

 生まれながらに王族としての教育を受けられなかった血族。

 それが、エルマリカに下された評価であった。

 魔剣を取り扱う為の教育は、苛烈を極めた。……ここで語るとすれば、その一言であろう。


 やがて彼女が近付く者に対して、自動的にその魔剣を飛び出させないようになったある日のことだ。

 序列第四位〈竜魔の邪剣ノートゥング〉――それは光さえも拒絶する究極の魔剣だ。防御の為に生まれた、剣士殺しの魔剣だ。

 然るにひとたび全身を覆う甲冑として発現してしまえば、彼女からは外界を知るすべはない。

 ……否、これは正確ではない。

 刃は彼女そのものであった。いや――言いなおそう。刃はまさしく彼女の血肉に等しく、そして何よりも


 熱湯を浴びせられた。

 電撃を浴びせられた。

 火炎を浴びせられた。

 氷滴を浴びせられた。

 血肉を浴びせられた。

 汚泥を浴びせられた。

 腐液を浴びせられた。

 斬撃を浴びせられた。

 それは、目隠しをされたような闇の中でただ皮膚だけを切り刻まれるに等しい苦痛。

 その果てに彼女は、竜の鎧を通して外界を知るすべを手に入れた。己の神経に直接刺激を与えられるという激痛の中、それでも万物を見抜くという技能を体得させられた。

 ほどなくして、教育係を務めていた妖艶な女は姿を消す。エルマリカの産みの母がこの世を去ったという言葉を残して、宮廷を消えるように後にした。

 エルマリカは一人残された。

 誰も寄る辺がないこの世界に、ただ一人残された。

 欲しくもなかった魔剣と――それを扱えるだけの素質を与えられて。あとの何もかもは、奪われて。

 それでもこの世界に、たった一人残された。


 誰も、彼女の助けは――いなかった。



 ◇ ◆ ◇



 茫洋とした意識のまま目を開いた。

 呆然と空を見る。

 かつて聞いたことがあった。

 人類の限界。成層圏からの単身飛び込みスカイダイビング。その到達速度は――超音速であると。

 空気密度の低い成層圏において、空気抵抗というのはほぼ無きに等しい。故にこそ、その速度に至るのだと。

 変化の感じられぬ落下の中、マフラーだけが上方向に棚引く。視界が赤く染まる――マイナスG。レッドアウト。頭部と眼球内へと血液が多量に流れ込み、世界が朱に彩られる。

 そんな世界。そんな領域。

 天を覆う宇宙の暗黒と、赤熱して弾ける微小隕石の数々。

 前世ならば決して辿り着く筈がなかった星の境界点。空の限界点。生物の臨界点で――シラノの視線の先、彼女は、エルマリカはただ独り蹲っていた。


「なんで……! どうして……! なんで……なんで今になってわたしの前に来るの!? 諦めたのに! 我慢したのに! 受け入れようとしてるのに! なんでわたしの前に来たの!?」


 ――――だって。今までずっと叫んでいたのに。聞いてくれなかったのに。


「わたしは化け物なの……! わたしはどうしようもない化け物なの……! だから、シラノさんはわたしに絶望しなきゃいけないの……! 皆わたしのことを嫌わないとおかしいの!」


 ――――だって。皆わたしのことを助けてくれなかった。きっもわたしが化け物だから。


「どうしようもない絶望を、それでもあなたの特別な顔を、それをわたしにだけ向けてくれればいいの……! 絶望だけくれればいいのよ……! 他なんていらない! 何もいらない!」


 ――――だって、助けてはくれなくて。皆、それしかくれないのだから。


「だから……今更、わたしの中に入って来ないで! わたしに近付かないで! どうせ裏切るのに! どうせ嫌うのに! わたしに勝てないくせに! 逃げちゃうのに! わたしに手なんて差し伸べないで!」


 ――――もしもそれで、また期待してしまって。


「わたしは邪悪な竜なの! 呪われた邪悪な竜なのよ! だから、あなたなんて必要ない! 助けなんて必要ない! 無敵のわたしは助けられる必要なんてない!」


 ――――また裏切られてしまったら。

 ――――最後まで守ってくれなかったら。

 ――――また見捨てられてしまったら。


「ただ、呪われた化け物だって――そう言ってくれればいいの! 化け物だからわたしは救われるべきじゃないって! すべてを滅ぼす化け物だから、誰も助けてくれないんだって!」


 ――――きっと。今度こそ耐えられない。そう思わないと、耐えられない。


「ええ、わたしは邪悪な化け物なの! 誰も勝てない邪悪な化け物なの! わたしは、大切なあの子を殺しちゃった化け物なの! !」


 耳を塞ぐように頭を覆い、半狂乱で喚き散らすエルマリカの周囲の風が黒ずんだ。

 剥がれているのだ。崩れているのだ。刃が毀れ、その粒子が風に入り交じる。

 もしも、そうなってしても。

 ――〈竜魔の邪剣ノートゥング〉が、その刃の特性を失わぬとしたら。

 黒き業風が猛る。その両手で、破壊の竜巻が渦巻く。それが、掌がシラノを捉えた。


「イアーッ!」


 触手の鋼板を足蹴に生み出すは足裏の触手抜刀。“唯能ユイノウウツホ”――最後の一発。

 勝因をただ一つ上げるとしたら、それは邪剣の破片が渦を――螺旋を描く軌跡をしていたということだ。

 直径五メートルほどの円――その余分のお陰で、間一髪シラノの脱出は間に合った。概ね速度が五分の一ほどに削られていたから、間一髪離脱が間に合った。

 渦が三百メートル強を進むその間に、シラノはかろうじて十メートルの離脱を果たした。


 べきべきと体中の骨が砕ける音を聞きながら、シラノはそれを見た。

 秒速一万メートルを超える暴風の牙。破壊の大渦。形あるものも形ないものも殺し尽くす邪竜の吐息――――それが遥か視線の下、大地めがけて突き刺さる。


 ……破片を抱くその渦は即ち、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉そのものと等しい。

 つまり――触れし万物を貫き、そして弾き飛ばす。あらゆるものの運動を塗り潰し、限界速度に加速させる。

 高速で飛来する石は岩にぶつかり瞬く間に蒸発させた。その膨張が岩盤を揺るがせた。

 大地そのものが押し退けられ、そこにあった木々は空力熱によって一足飛びに電離体プラズマまで昇華させられた。その高温に大気は弾け豪風となり、内から盛り上がり続ける粉塵は異様な形の雲を作る。


 吹き戻す風は蒸気を飽和させ、さながら雪土の王国が展開されるかの如く白く空間を染め上げた。

 穿たれたその孔には金剛石が溢れかえっているだろう。与えられた膨大な地下での圧力は、あまつさえ休火山の山頂から溶岩を噴出させたのだ。

 山脈が削れ、地層を貫き、地殻を砕き――しかしその渦が止まることはない。あらゆる減衰を否定する。あらゆる障害を拒絶する。

 そして遥かどこかで、その渦は飛翔を始めるだろう。今度は、暗黒の宇宙めがけて。


 これが――竜母神を、今シラノたちが暮らす大地そのものである竜を穿ったと言われる伝説の魔剣。

 天地創世の七振り。魔剣序列の第四位。

 星をも滅ぼせる魔剣――――それが、攻撃として使われた〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の真価であった。


「……」


 喘ぐ吐息が震えた。

 掛け値なしの破壊力。これまでの全ては児戯に過ぎぬというほどの絶対なる悪竜の息吹。

 まさしく人が及ばぬというのは真実であると認識し――しかし小さく首を振り、すぐさまに触手を呼び出した。

 歯を食い縛り、そして生み出ししは

 霞を纏う鞘に、霞を纏う野太刀を収める。次々にそれを生み出し、これまた霞を纏う触手に掴ませた。

 霞に紛れさせ、噴出させる触手の粉塵。頭痛が警鐘を上げるも――無視した。

 こんなのは、苦痛の内には入らない。

 彼女の味わった辛苦に比べれば、痛みと呼ぶことも烏滸おこがましい。


「……ああ、そうだよな。痛かったよな。苦しかったよな……辛かったよな。こんな力、一人で抱えるには重すぎるよな」


 声に血が混じりながらも、それでもなんとか言葉を出した。

 こんな権能は、人の手を離れている。人の領域を超えている。

 星を滅ぼせる力を背負わされて、心が狂わぬ訳がない。


「ああ……そうだな。でも、――だ」


 瞼を一つ。

 元より人は切っ先三寸、斬り込まれれば死に至るのだ。空を貫けようが大地を割れようが星を砕けようが、死ぬということには違いない。

 努めてそう思った。それだけ考えた。そう、恐れを飲み込んだ。

 ……どんな形でもいい。なんてこじつけでもいい。ただ恐怖にを見誤らぬなら、なんでもいい。


「……」


 柄に手をかける。視線の先で渦巻くは黒の禍。死傷の嵐。絶望の顕現――惑わされるな。

 見誤るな。

 これは立ち会いだ。剣と剣の立ち会いだ。心と心の立ち会いだ。

 ならば――

 これほどまでに苛まれて、それでもエルマリカは耐え続けたのだ。

 ならば、今この一度――――ただ一瞬の立ち会いの為に、耐えろ。


「……来い」


 呟くが、早いか。

 最後の一合が、繰り出された。

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