第50話 ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ その六


 ◇ ◆ ◇



 牙を想え。

 己が怒りを忘れそうになったとき、ただ牙を想え。

 それのみが唯一、邪悪を討つ。


 ――獣人の戦士の警句。



 ◇ ◆ ◇



 辺りを闇に包まれた白亜の塔の中、月すらも覗かぬ夜雨に打ち据えられるその石造りの奥で――二体の鎧が正対する。

 神すらも見捨てた地。邪悪が満たし、悪逆が蔓延る塔の下層。その煉獄で、二つの影が対峙する。


「ふふふ……」

「……」


 鋭い仮面の下でほくそ笑むは邪竜。この世の頂点。常なる世の条理。天地創世の七柱。人の世を犯す呪いの悪竜母神。

 対するは悪鬼の装甲を纏いし剣客。呪詛の破壊者。絶望の踏破者。希望の守護者。その身を一振りのツルギと変えた剣鬼――否、剣豪である。

 禍々しい数多の刃に縁どられた黒鋼色の装甲と、鏡面めいて世界を映す宇宙的な極紫色の装甲。

 風も湧かぬ塔の中、それでも二人の間には剣気が幾千幾万の嵐と化し乱れ飛ぶ。

 これなるは、無敵の悪竜。

 これなるは、不敗の剣豪。

 いざ向かい合ったそれは、邪竜血戦――此処こそ正に死地である。


「ねえ、シラノさん……。わたし……あなたを殺しちゃう恐ろしい竜だって言わなかったかしら?」

「……」

「ええ、駄目よ。……駄目。もう、諦めてくださる? ふふふ、シラノさんが諦めてないと……シラノさんが諦めてくれないと、わたしは人の心を折るほどの悪い竜って言えないでしょう?」

「……」

「ええ、それは駄目よ……それだけは駄目。それだけは許せないわ? ……ええ、許してはならないの。絶対に……絶対に。わたしは誰にも倒せない悪い竜でなくてはいけないの」


 静かなる狂気と、その内で煮詰まった圧縮された激情。

 この場に立会人はなし。ただ二人――一匹の邪竜と一人の剣豪が相対する。

 間で散るは刃鳴めいた剣気。二人にしか聞こえぬ殺気の音。

 それは無限の静寂であり、永劫の波濤であった。悪鬼羅刹さながらに、闘気を湛え二つの甲冑の主が睨み合う。


「お腹の奥の奥がきゅってするの……胸の中の何かが疼くわ。あなたみたいに、正しいことの為なら傷なんて痛くないって人を見てると――キラキラしてるものを見ると、お腹の中がどろどろでぐずぐずになるの。胸の奥から甘い泥が溢れて溢れて溢れて溺れそうになる」

「……」

「ねえ……判るでしょう? だからわたしは邪悪な竜なのよ? わたしはあなたたちのことを許せない――――許せなくて許せなくてたまらないわ。だからあなたたちに、竜が本当にいることを思い知らさせたくなっちゃう……! ああ、どうしようもなく引き裂いて食べてしまいたい……!」

「……」

「判るかしら……? ねえ、シラノさん。わたし本当に――本当の本当にあなたが愛おしくて恨めしくて殺してしまいたくなってしまうの。だから……ねえ、諦めてくださらない? わたしが我慢する以外に――あなたを殺してしまうことには、何の歯止めもないのよ?」


 暗黒の流星めいて黒く尖った兜の奥から漏れ出た罅割れた呪詛を前に、シラノはただ小さく言い捨てた。


「そうか。――なら、


 そして握り締め、蜻蛉をとるは触手野太刀。

 天に突き立てんほどにそそり立つのは、尽きることのない霞を纏う銘なき武骨な野太刀であった。

 その重みに、鎧が沈む。対して極紫色の外骨格の鏡面に映り込むは、伝説の邪竜の現身。

 世界の理を背負い、そして呪いに蝕まれしもの――エルマリカが腹の奥から吐き出した。

 

「……あはっ。あはははははっ、あははっ! シラノさん……どうしても、わたしの言うとおりにしてくれないのね! 諦めてくれないのね! ……諦めることは、悪いことなのね」

「……」

「あはっ、あはははははっ! 許してって言っても……もう知らないわ。だってわたしはこんなにもシラノさんがにくらしい――あなたのことをころしたくてころしたくてころしたくてたまらないから……!」


 返答は、無言。

 ことここに至り、シラノ・ア・ローが告げられる言葉などなし。

 ただ心に刃を持たせた。即ちは、忍ぶということ――耐え忍ぶということ。狂った痛みの内で呼吸を絞ったシラノは、ただその瞬間を待ちわびる。

 これこそが死線。己の身に叩き込まれるか。それとも敵を叩き込むか。

 刹那、鎧の奥で互いの視線が交錯する。

 その――瞬間であった。


「――〈竜魔の邪剣ノートゥング〉」


 甲高く吠えたるは、連なる大霊峰めいた黒鋼色の鎧。

 刃が震え、その権能がうつし世へと顕現した。

 ――起きるは破壊。起こすは絶望。吹き荒れるは神速の殺意であり、これ即ち大気の為す瀑布である。

 不可視の津波は音を超えた爆轟に至り、石壁を破壊し竜のあぎとめいて暴れまわる。

 暴風。狂風。颶風ぐふう――果たして吹き荒れるその陣風を人はなんと呼ぶか。

 旋風、疾風、烈風――そのどれも否である。

 これこそは太刀風。天地創世の魔剣が振るわれた、その証左であった。


「――――!」


 空気が失せたその空白において、叫べる言葉などなし。

 鬼の面頬メンポの奥で咆哮するシラノの声は言葉にならず、ただ無言に消え果てる。

 野太刀を覆う霞が呑まれた。四分五裂。乱風に千々に乱され、白線となりて吹き飛んだ。如何な名剣秘剣とて、その技の前には等しく無益。

 これなるは刃風の太刀。竜魔が振るう不可知の斬撃。世の知覚を外れたその爆風は壁となり、その全てが刃であり、そして即ち破壊であった。

 これこそが、シラノ・ア・ローを叩きのめした技の正体。

 否――これは技ではない。ただの呼吸と同じだ。天地創世の魔剣にとって、この程度は児戯に過ぎぬ。

 ならばこそ。――シラノは耐えた。


「――――!」


 踏み込むは己。踏み出すは己。そして、振り下ろすも己なり。

 この身は既に一つの刃。この身は既に一つの斬撃。故に――揺るがない。

 触手による空間固定。宙に浮かべし触手によって己が関節を巻き止めたシラノは、その場で見事踏みとどまった。

 さながら、拘束具。関節を引き留める触手の枷。そして全身を覆う鏡面めいて磨き上げられた外骨格は風を受け流し、以ってここにようやくへと相成った。


(――――)


 大気圧が失われ、真空となった貯水塔。その中で――シラノは一歩を切る。

 もしここに立会者がいたならば瞠目するだろう。

 シラノは甲冑において素人である。だが、速いのだ。

 否――それどころか全身の肉と骨とを十二分打ち据えられており、只人ならば動くことすらままならぬほどの重傷というのに。

 だが、無音の足音が響く。響くのだ。

 地が弾け、真空がただ嘶く。空気の失せたその空間に、極紫色の風が吹く。

 蜻蛉をとってひた走った。一歩、二歩、三歩――


「――――!」


 竜に目掛けての単騎駆け。至りしは豪勇。その踏み出しは万夫不当。

 如何に鍛えし鎧武者とてその速さは無鎧を超えぬ。だが――シラノのその疾走は、既に生身を凌駕し魔技へと足を踏み入れた。

 身の内の激情に合わせ、動くは鎧。走るも鎧。鎧がシラノを操縦している。その意志一つが、ただの肉体を疾風へと変えている。

 これこそが強化外骨格――仕手の運動能力を達人域まで高める生き甲冑リビングアーマーのその真価。

 目にも止まらぬとはこのことか。ただ紫色の軌跡を空間に残し、鎧姿のシラノはその敵対者の下まで一直線に走り抜ける。放たれた嚆矢めいた疾走が空間を横裂きにする。

 だが。

 だが――それはだ。


『――――――――――――――――――――――――――――――』


 最早、比べるべくもない。

 天地創世の魔剣は、魔剣を纏いしエルマリカは人ではない。それを神域と呼ぶのだ。

 神なる身に、如何な只人が及ぼうか。

 エルマリカを百とすれば、シラノは小数点一以下だ。それは最早停止に並び、即ちは停滞と同義。

 そんな無様ブザマな凍結の様で、一体なんの剣を為すと言うのか――――。

 須臾の向こう。瞬息を超え、弾指に至る僅かな死の間。

 その内に常なる条理を外れ、新たな法理を刻む。これこそが魔剣。これこそが天地創世。エルマリカの反応は、生物のくびきを凌駕していた。

 故にこそ、至るは一方的な誅戮。

 その身を無数の刃に変えし少女は、ただ一息の間もなく敵対者を封殺にかかり――――


「――――ッ!」


 ――故にこそ、その野太刀は屠竜剣に相成った。



 ◇ ◆ ◇



 一歩、強烈な――――爆速。

 瞬く間――否、それすらも許されぬ凝縮した時間のその最中、シラノの踏み込みは神速に到達した。

 獲物に自動反応する“帯域タイイキ”の召喚陣。足裏で数多連なった触手召喚陣。そして、足裏のその装甲間で弾け合う無数の触手抜刀。

 一枚、装甲板が飛んだ。否――装甲板からシラノが跳んだのだ。装甲と装甲の間で互いに撃ち合ったそれらの反動はシラノを押し出し、その攻撃を爆発的に加速させる。

 その変調。その緩急。それこそが、意を裂く剣。油断を断つ刃。空を捉える刀――全身で為す斬撃。“唯能ユイノウウツホ”。

 一閃。

 紫色の刃閃が、豪烈なる剣閃が、無量の虚空を裂く。

 その身は一振りの刃に至り、以って此処に人剣一体の境地が相成った。


『――――――――――――――――――――――――――――――』


 だが――しかしそれでも及ばない。

 意識の隙を刈られようとも、邪竜の甲冑に身を包んだエルマリカはすぐさまに己に迫る刃を照準し直す。

 土台が違う。前提が違う。後から繰り出しなおもその先を行くのが、エルマリカに許された権能である。

 迫る刃を半ばに躱し、動くは黒き鋼のその右手。

 邪竜の牙めいて尖った腕は曲がり、最短に繰り出されるはシラノの胸元――その心臓へ。

 防御は無意味。装甲は無価値。天地創世の魔剣の前に、ひれ伏さぬものは存在せず。

 如何にシラノが己を刃と化そうとも――全身を刃と呼ぶなら、それは即ちエルマリカこそ。

 その呪われし魔剣はあらゆる不死身を殺し、無敵を貫き、幽体を滅ぼし魔を滅する究極の魔剣。

 爪が伸び、奔る黒鋼色の一閃。あらゆる攻撃の概念を為すその魔剣は、作り上げた悪鬼の防御装甲を無益と断じ――


「――――!」


 だが――ならばこそ、

 迫る黒爪を迎え撃つように弾け飛んだ胸部装甲――白神一刀流があわせノ太刀・“帯域タイイキオロシ”。待機する触手召喚陣と“唯能ユイノウ”が為す触手爆発反応装甲。

 黒鋼の刃に触れるなり弾き返される装甲を、後続する爆発反応装甲が押し込んだ。

 纏めて再び弾き戻されるも、更なる爆発がそれを殴り付ける。

 万分の数秒ほどの膠着――それでも竜の爪を僅かばかりに押し止めたのは見逃せぬ事実である。

 そこに、エルマリカが作り出した真空へと吹き戻す風の勢いが上乗せされれば――


「イィィィィィィィィィアァァァァ――――――――――――ッ!」

 

 振り下ろされしは、剛なる野太刀。

 ついに、剣はエルマリカの甲冑を捉える。

 重剣――“矢重ヤガサネ”により無数に合一されたその刀身は、竜の鱗に触れるなり逆へと弾き飛ばされるが――奥歯を噛み締め、爆裂と共に放つは超・多重斬撃。

 シラノ目掛けて逆加速されてくる先端を――だが、後続する無数の刃で無理矢理に押し留めた。

 刀身が不協和音を立てる。ひしめき合う二つの力に奥歯を噛む。

 黒竜鱗に弾き返された第一陣を押し込んで、そのまま押し切って押し付けていく。押し通さんと、強引にその重力圏を喰らい破らんとする。


『――――――――――――――――』


 重ね、重ね、積み上げる。

 己の身を固め、そして鎧自体が運動を担う触手外骨格。

 その秘儀たる触手抜刀の反動による超加速。

 更に生まれた真空への吹き戻し。

 そして生身では掲げられぬほどの剛刀・触手野太刀“山蛭”と、鎧でなければ両腕が千切れ飛ぶ反動の“唯能ユイノウオロシ”――これこそがシラノの死力。積み上げたこの全力。

 対するは、阻むは〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の重力圏。

 触れし万物を否定し、万物を拒絶する竜の鱗。既に存在する運動を消失させ支配下に起き、ただその刃として用いる邪竜の鎧。自動防御。

 触れた端から制御下に置かれ、命中した刀身は強烈な加速度と共に射出され直す。全てがエルマリカの牙になる。

 だが――――


「イィィィィィィィィィアァァァァ――――――――――――――――――ッ!」


 

 頭痛が嘶いた。精神が限界の金切り声を上げ、神経がささくれ立って慟哭の悲鳴を上げる。しかし――構わぬ。此処こそが死地。此処が死地だ。

 限界を絞れ。死力を尽くせ。

 弾き返される細かな刀身を強制的に内から砕き、生み出す新たな触手抜刀。その勢いで、無理矢理に邪竜の重圧を食い破る。

 当てた刃が奪われ相手の弾にされるというなら。再射出されるというなら。

 ならばその加速を抜けるほどの勢いと数を以って、反射される刃を押し潰して押し抜けるのみ――。

 果たして、煌めくは火花。甲高い音が響き、金属片が散る。

 影が二つ、すれ違った。


(くそ……ッ)


 石畳を削り、粉塵を上げながらなんとか踏みとどまる。宙に張った触手で勢いを削ぐ。

 突進と停止。その強烈な加速度を触手の鎧で抑え殺した。血液が余分に下がらぬように手足を締め上げ加圧し、そして鎧の中を液状の触手で満たして衝撃を宥め、最後に内側へと生じさせた触手の襞で反動を和らげる。

 いわば、耐衝撃機構を備えた触手鎧。

 鎧自体の関節部を稼働させることで本体を逆に追従させ、隠し玉として足裏の二枚の装甲板同士で触手抜刀を弾き合わせる超加速を行う強化外骨格。

 ひとえにこれまでの魔剣相手に用いなかったのは、防御が意味を為さないということもあるが……


「がふっ、が、ごほっ……!」


 動転する内臓が、胸に刻まれた深手の傷が口腔から血として迸った。吸気用に備えた面頬メンポのスリットを抜け、飛び出した吐血が石畳を染める。

 人間一人を異常加速させるだけの技なのだ。重力加速度の何倍か。その反動は凄まじく、衝撃を吸収する機構を万全に備えてなおシラノの身を蝕んだ。

 使えて、三度か四度か。

 それ以上用いれば、物理的にシラノは死に至る――そんな渾身の一撃であった。


「はァー……あぁ……はぁ……」


 剣を杖に肩を喘がせ……すれ違いに斬ったエルマリカを見る。

 胴に斜めに入った切っ先。黒鋼色の劔刃装甲の表面に、袈裟にかかった一条の傷。

 浅い――だが、それでよかった。エルマリカを殺すことが目的なのではない。彼女の目を覚まさせることが目的なのだ。

 絶対無敵と謳った竜の衣――それを剥ぐ。その身体を、心を剥き出しにする。彼女を覆う鎧を剥ぎ取ってこそ、ようやくそこに対話の糸口が見える。


「エルマリカ……俺は、その魔剣を斬れる……これでお前は、無敵じゃない……。魔剣を、解除しろ……!」

「……」

「エルマリカ……!」


 こひゅう、と喉が鳴った。ごぼりと呼気に血が混じる。

 肩を喘がせ、それでも瞳を細めて彼女を見やった。半ば呆然と立ち尽くすエルマリカは、胸の傷をなぞり――


「酷いことするのね……本当に酷い……。痛い、痛いわ……痛くて苦しい……痛くて苦しいわ……ええ、ええ、ふふ、これが痛み……ふふふふ、あははははは……!」

「……」

「ふふ……ああ、そうね。わたしは無敵じゃない――か。いいえ、いいえ……わたしは無敵よ? だって、わたしは無敵じゃなきゃいらない子なの。わたしは無敵でなければならないのよ」


 向かい直ったエルマリカに歯止めの気配はない。

 それどころか――余計に油を注がれたように、彼女は高くか細い愉悦の声を漏らした。


「それにしても、ふふふ、あはは……すごいのね、シラノさん。傷を付けられたのなんて初めて……わたしの初めて、奪われちゃった」

「……」

「――ああ、そうね。痛いわ。本当に痛くて痛くて堪らない……でもね、ずっと痛いの。。ええ、本当に……本当に……わたしはずっと、こんなことに耐えてきたわ。……ですからこの程度、なんでもないのよ。ふふ――無敵なんですもの」


 両手を広げた彼女の声色は喜悦に震えている。

 だが、その奥に隠されている感情は果たして何か――刃を掴み直して、シラノは呼吸を整えた。


「エルマリカ……もう決着は着いた。このまま続けても、もう同じだ。……刃を収めろ。斬りたくない」

「ふふ、そう? でも、わたしはシラノさんを斬りたくて斬りたくてたまらないわ? だって、あなたなんて許してはいけないんですもの。いつかは死んじゃう……どこかの誰かに殺されちゃうなら、ここでわたしが殺しちゃうわ」

「……」

「ええ――あの淫魔おんなの言う通りだわ。わたしはもっと、この世界に殺意あいを向けていいの……! 何もかもをあいしていいの……! 絶滅あいねがってもいいのよ……! ええ、愛して貰えないなら……わたしから愛さなきゃいけないんだわ……!」

「……」

「大丈夫よ。だってわたしは呪われた竜なの……人をころしたら人間になれるの。忌々しいけど……あの淫魔おんなはそう言ってたわ。頭がスーッとして……わたし、答えを得たの」


 やはり――やはり、洗脳を受けている。

 それが淫魔に向いていないだけで、エルマリカは身に背負いきれない破滅的な慕情を背負わされた。

 破壊的な愛憎――それが彼女を蝕む害悪。その一貫性が余人には分からぬ魔竜の論理。

 鉄錆の味が広がり、嘔吐にも繋がりそうな気配の中、シラノは蜻蛉を取り直した。


「……呪いなんて、ない」


 少なくとも自分は――自分だけはそれを決して許しはしない。

 その想いで向かい合う。相手立つは悪竜の鎧姿。濡れた鋭い闇の如く、ただそこに立つ黒鋼色のその姿。


「イアーッ!」


 地を蹴った。野太刀自顕流“蜻蛉とんぼ”――唯一前世からこの世界に持ち込んだとも言える最強の初太刀。

 足裏で剣が爆ぜた。

 全身が刀身になる。只なる身なら足から折りたたまれて潰えようというその爆速の中でも、触手の鎧は形を保つ。

 唸る剣刃。極紫色の一閃が、エルマリカの肩口に吸い込まれ――


「――な、」


 しかし両手を広げて刃を受けたエルマリカはただ滑り――全力の一撃は、何の傷さえも作れずに終わる。

 無意味。

 手ごたえがない。

 確かに同じ技を使った筈なのに。同じ一閃の筈なのに――何の効果もなく、ただエルマリカを横滑りさせたに過ぎない。

 直後、思い出したように加速の反動が意味を持ちシラノの全身を苛む。その、瞬間だった。


「……ふふ、するわね」


 そう呟かれると、同時。

 胸から噴き出す鮮血。斜めに一条に――シラノの触手外骨格は袈裟懸けに断たれていた。



 ◇ ◆ ◇



 鎧の下まで達する傷と衝撃に片膝をついた。

 そして見上げる先のエルマリカの甲冑からは、つけたはずの傷が失せている。


「言ったでしょう? わたしは無敵だって……ええ、まさか傷なんてつけられるとは思わなかったけど……意味はないのよ、シラノさん。どんな攻撃だって……この〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の前には無意味なの」

「ぐ、う……ぁ……!」

「それでもあなたは、まだ立とうとするのね。痛くても立てちゃうのね……ふふ、ああ――どうしたらあなたは止まってくれるかしら? どうしたら、シラノさんは諦めてくれるかしら? どうしたら認めてくれるの?」


 小首を傾げる彼女は五体満足で、刀を杖に身を起こすシラノの胸からは血が迸る。

 返された。与えた筈の傷が――返された。

 厚さと強度が違うのだ。エルマリカにとっては僅かな傷。だが、シラノに対しては鎧のその下の肉体まで達するほどの傷となった。

 無敵。

 敵に与えられた傷や衝撃すらも弾き飛ばすのだとしたら――それは正に実質的な不死身。彼女を斃すことは、一撃で首を刈り取るしかないというのか。

 ひゅう、と喉が鳴る。ごぼりと、血が口角から漏れる。


「今までのが大体、三十枚ほどかしら?」

「なんの、話だ……!」

「いえ。わたしのこの刃の力……一枚で音よりも速いわ? それを束ねて使うこともできるんだけど――」


 ……シラノの全身は、触手の鎧によって締め上げられている。

 それは手足への余分な血流を防ぎ、急速な運動での脳貧血ブラックアウトを防止する。内向きに生えた柔らかな突起と液状の触手は衝撃を和らげ、鎧の中で千切れ死ぬことを防ぐ。

 流線型の装甲は深海を往く潜水艦めいて、打ち付けられる空気圧へと抵抗する。

 そんな鎧だ。そんな防護だ。己を一振りの刃と変える為に練り上げた外骨格だ。

 なのに――何故。

 何故、たった今己が凍土に放り込まれたような。或いは暗闇の荒野に身一つで捨てられたかのような。不気味に泡を立てる溶岩の前に立つような。

 皮膚の真下から凍え果てるが如き、奈落めいた感覚を抱くのか。


「ふふ、うふふ……ええ、見せてあげるわ。お父さまもお義母さまも知らない……誰にも見せたことのないわたしの身体――わたしの全部、シラノさんだけには見せてあげる」


 どこか妖艶なほどの嗤笑と共に、それは起きた。

 上がるは世界の悲鳴であった。地の底に封じられた呪詛が、竜母神の怨念が世界を引き裂く。世界を塗り潰す。幽世から現世へ飛び出すは絶望の魔剣。

 ぐちゃ、と音が響いた。ばき、と。肉が裂け、骨が割れ、神経が引き裂かれ鎧を突き破り現れる新たな刃。

 腰元からは無数の刃が連なって組み合わせり、さながら糸鋸めいた形状に伸びた尾。

 膨らむように背を破って飛び出したのは、肋骨めいて六対――計十二枚の刃の羽。

 鎧が変わる。より鋭く、より禍々しく。それは地獄の炎めいて歪み、暗黒の汚泥めいて妖しく分かれる。

 二本の足で立つ人型を為した怨念の炎。そうと呼べるほどに、その意匠は邪悪である。

 更に尖った兜。流星の嘴めいて突き出したその奥で、罅割れる少女の声が告げる。

 

「……百八枚よ。わたしの刃――今のわたしの身体の中にあるのは、百八枚。速さは他の魔剣に及ばないけど……それでも大したものでしょう?」


 最早、絶句すらできなかった。

 先ほどの三倍以上の力を発揮する〈竜魔の邪剣ノートゥング〉と、対する己に許されし技は残り数発。

 しかし、放ったところでそれも通じるのか――未だに傷を負わなかったその絡繰りは、解けてはいない。

 シラノの知る前世のどんな兵器よりも圧倒的なその速度。その上で、得手は速度ではなく防御と宣う最強の魔剣。

 蜻蛉をとった剣先が振るえた。

 包み込む吹雪めいた絶望。創世の魔剣の、その真価。


「……ふふ、わたしの殺意あいを受け止めて?」


 そして鎧の下でエルマリカが微笑むと同時――死が、撒き散らされた。



 ◇ ◆ ◇



 身体を打ち付ける雨垂れに、その小柄な女性――メアリは瞼を持ち上げた。

 刺すように痛みが襲い、皮膚の下で虫が不気味に蠢く。

 洗脳を受けながら寄生させた魔術昆虫の数々は身体の自由を奪い、その苦痛と強制的に頭脳中枢を麻痺させる神経毒故にこれ以上の無様を晒さずに済んでいた。

 そうでなければ、今頃は淫魔の真許まで向かっていただろう。それぐらい凄烈な恋慕の感情であった。

 ざまあない、と思う。

 この世に生を受けて二百数十年、まさか想像でしか語られぬ伝承上の怪物にしてやられるなど、執行騎士の名折れだった。


「……こうなると、アレクサンド坊ちゃんのあれも……たわごととは、思えねーもんでしたね」


 受け継ぐはずの魔剣を受け継げなかった才能なき長兄。

 それでも剣技や魔術にはそれなりの素養を持ち合わせた彼は、病死と偽り執行騎士として奔走していたが――それも数か月前までだ。

 全国を行脚する傍ら情報を集めていた彼は、ある日ついに行動を起こした。

 仲間である執行騎士数名を斬り捨て、姿を晦ませたのだ。ある妄言を――空想に心を捕らわれたような戯言を残して。


「淫魔に狙われている……でしたか。はは、こーなりゃ、もう少しは真面目に聞いてやりゃあよかったでやがりますかねぇ……まったく」


 ごほ、と血を吐いた。

 意図的に虫によって肉体から狂わせることで、淫魔の精神汚染を軽減している。不本意であり寿命を縮めることにしかならないが、そうせざるを得なかった。

 アレを前には如何なる魔術も意味をなさない。別格なのだ。淫魔は。

 夢幻郷の彼方より来りて悦楽を喰らうもの。大いなるもの。夢と精神を司るもの――その異名は数多。世界の外より来る異邦人。

 その前では穢れや呪いを避ける浄化の法も、或いは強き“貴”の結晶故に“卑”を寄せ付けぬという魔剣の基礎権能も何の防御になりえない。

 メアリの知る限り、精神汚染を逃れられるのは〈竜魔の邪剣ノートゥング〉のみ。

 しかし、


「ああ……教育、足りてねーでやがりましたねぇ。人質ごと相手を潰すようにって……敵の言葉は聞いちゃならねえって、もっとしっかりと教えときゃあよかったですね……」


 本当にざまあないなと皮肉げな笑みを浮かべた。

 判ってはいたが、甘すぎた。望むにせよ望まないにせよ、強大な力には相応の立ち振る舞いが求められるのだから。

 街の中心、〈浄化の塔〉からは苛烈な戦闘音が響く。

 十中八九〈竜魔の邪剣ノートゥング〉が戦闘を行っている――これほどまでに続いているのは予想外ではあったが、それでも長くは続かないと思えた。

 終末の刻は、迫る。


「……お手つきで生まれてきて、幽閉されて、欲しくもない魔剣を得て――最後は操られて邪竜として討たれる、ですか」


 独りごち、肩を落とす。

 遠からず待ち受けているのは、〈雷桜の輝剣シグルリオーマ〉と〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の戦い。

 どちらが勝つにせよ――――もう話が、メアリの手に収まることは二度とないのだ。

 そう。それがきっと、エルマリカという少女に与えられる結末。

 どこまでも無情な、年若い少女に与えられる人生の終わりだった。


「……ああ。ほんと……誰か、助けてくれねーですかねぇ。お姫ぃ様のことを」


 呟いた声が雨音に消える。聞き届ける神などこの街にはいない。

 だがそれでも――剣戟の音は、未だに続いていた。



 ◇ ◆ ◇



 それは最早、滅びの嵐と呼ぶべきだろう。

 エルマリカが一歩踏み出すその瞬間に塔が刻まれる。石畳が弾け、粉塵が上がる。壁が砕け散り、癒えぬ傷を負う。

 弾いているのだ。彼女がただそこに居るだけで生まれる空の傷が、その痕が、全方位に弾ける速射砲めいて撃ち出されて塔の内部を切り刻んでいるのだ。

 かつてシラノが見た〈水鏡の月刃ヘレネハルパス〉の飛来斬撃に同じ。

 否――――規模が違う。密度が違う。速度が違う。手数が違う。次元が違いすぎる。

 身の丈よりも大きな一線が壁に残され――続く十、二十、三十、百――――破片すらも残さず、隔壁は粉塵として飛び散った。

 ただそこにいるだけで、万物が消滅する。

 エルマリカを中心に巻き起こる破壊の嵐は、傷の刻まれる音は、ひと繋がりの連打音として空間を塗り潰していた。


「イアーッ!」


 舌打ちを噛み殺し、応じるは“甲王コウオウツルギ”。

 その攻勢を前には何の防壁にならずチーズめいて抉られ尽くされるが、少なくとも“傷”という概念を身代わりに受ける一瞬の盾とはなる。

 その僅かな猶予を逃せば、勝機はなし。


「イアーッ!」


 蹴り出す一歩――打ち出すは己。斬り込むは己。

 次々に生み出した甲王の盾。続々と爆発する反応装甲。新たに生み出し続け、ひたすらに傷の弾丸を迎撃する。本体に至るより先に、幾重の防壁を己の前に捧げ続ける。

 唸るは踏み込み。吼えるは心。一歩に応じ、紫色の風が巻き起こった。

 ――“唯能ユイノウウツホ”。

 一歩、シラノの身体は音を超える。二歩、距離という概念が空論に果てる。三歩、その身は一振りの刃となり――己はただ、死線に至る。

 唸るは剛刃。吼えるは剣閃。光芒めいた一閃を嵐の中心へと叩きつけんと疾駆し――――残り二歩。

 だが。

 向こうに捉えたエルマリカの姿より先に、唐突に虚空で刃が押し留められたと錯覚し、


「つーかまえたっ♪」


 直後、響くは背後。響くは愉悦に塗れたエルマリカの声。

 振り向く間などない。そのまま抱きつかれ――そして伸びる無数の黒鋼色の刃で、真裏から胴体を貫かれた。


「が、ぁ……っ」

「ああ……シラノさんのあたたかさを感じるわ。ふふ……あたたかい……内臓が、とってもとってもあたたかいわ? ねえ……わたしが少しでも力を入れたら、シラノさんは弾け飛んでこれで終わりよ? 怖いでしょう? 死にたくないでしょう?」

「ぐ、が、あ…………が…………」


 口腔から血を噴き出しながら、柄を逆手に握り直そうとする。

 その途端――シラノの神経が絶叫した。背筋を凍えた電撃が走り、視界から火花が散るように世界が白く瞬いた。知らず、喉から大声が出ていた。

 ぐちゃ、と体の中で音が響く。

 動かされている。神経だけを、刃に触れたそのところから、引きつけるように動かされている。筋肉目掛けて押し付けられている。糸鋸イトノコめいて揺さぶられている。

 ごき、と音が鳴った。骨。ずらされた。

 絶叫する。体内を弄ばれていた。神経も、血管も、内臓も、脂肪も、皮膚も、筋肉も、骨も――突き入れられた刃の表面に触れたものがその端から操られる。前後左右に踊りを踊らされる。

 その拷問めいた嵐の時間が過ぎる。気付けば全身が脂汗に濡れ、喉はからからに乾いていた。

 どれだけ叫んだのか。その灼熱の感覚に、気道が破けたとまで思えた。


「駄目よ、抵抗しちゃ……だってあんまりかわいいところを見せられたら、本当の本当に殺しちゃうかもしれないでしょう? だから、大人しく――」

「い……、あー……!」


 これほどの至近距離ならば触手の射程圏――その一心でエルマリカの鎧の内に生み出そうとした触手は、召喚陣ごと散らされた。

 通じない。鎧の向こうに、発現しない。


「わたしの身体に触手を使おうとしたのかしら? ふふ、ふふふふ、だから……無駄なのよ? この鎧は一つの世界と同じ……この鱗一枚一枚が大地一つと同じ……内と外は、まるで別のものなのよ?」

「が、ぁ……はな、せ……!」

「……嫌よ。嫌。離さない。今、すごくあたたかいの……あのときは手をとってくれたのに……こんな姿じゃ、やっぱり嫌なの……?」

「ッ……い、あ――」


 背中の〈帯域タイイキ〉は発動している。発動している筈なのにその表面が弾け飛ぶことはなく、外れることもない。

 揺るがないのだ。背中がぴたりと張り付いて、動かない。動けない。

 直感で確信する。精神が歯止めをかけていた。このまま放てば、力の逃げ場のない触手刃は鎧の内側を傷つけることとなる。放てない。

 奥歯を噛み、鎧の中――右手で紫電を生んだ。

 これほどの密着状態。己も巻き添えになるが構わない。全身を増幅器に変える。離れないと言うならば、そのまま伝えんと雷撃を放ち――


「……無駄なのよ、シラノさん」


 しかし、鎧に走った電撃はそれで終わりだ。

 否――止まっているのだ。鎧の向こうまで突き抜けることがない。その表面で押し留められている。そこで、食い止められてしまっている。

 紫電がただ、黒鋼色の刃の上で踊っている。ずっと。無意味に。空虚に。弾けて踊る。いつまでも、踊る。捕らえられている。

 無敵――彼女が言った、その意味。

 二度目の“唯能ユイノウウツホ”が通じなかったその意味。


(貼り付け、られて――)


 拒絶は真価に非ず。神速は本意に非ず。

 これが、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉のその権能。

 万物を弾き飛ばし、そして貼り付ける無敵の鎧――弾くとは刃から向こうに遠ざけるということ。貼り付けるとは刃より先に進ませぬということ。寄せ付けぬことと捕えおくこと。

 まさに絶対的な防壁。突破不可能な神域。

 その刃の上において万物は支配下に置かれ、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の命令に逆らうことはない。

 魔術の法理における“支配”と“加重”――それが、恐るべきこの魔剣の有する無二の権能であった。


「言ったでしょう? わたしは、無敵だって……」


 その刃とは大地であり、世界であり、境界線だ。

 許されるのはそこから遠ざかることか、そこに留まること。それより先に進むということは、決して許されない。

 故に無敵。故に究極。

 万物に発現する重力めいた力。暗黒の引力。何者も、その刃の向こうに達することはない。

 担いし理は“大地”。

 与えし効果は“引”と“斥”――“愛”と“憎”。

 これなるは〈竜魔の邪剣ノートゥング〉。至高の七天。常世の法理。天地創世の七つの掟――その一振りであった。


「ふふ、シラノさんに……見せたいものがあるの」


 そして、彼女が呟くと同時。

 強力な縦方向への加速と、追いやられることへの怒りに咆える重力の鎖が――シラノの意識を闇に落とした。



 ひょうと風の音を聞いた。ぴき、と罅割れる音を聞いた。空力熱と外気温の急激な寒暖差により、触手の鎧は罅割れている。

 そして、目覚めた。吹き込んでくる凍てつく寒さ。そして、酩酊感。朦朧とした意識と共に、口腔から血が漏れ出した。

 強烈な加速度。その反動。内臓をどこか痛めたのか――否、そもそもにして肉体に刃が突き入れられている。

 心臓は避けられているが、肺や腹腔は貫かれている。意識を取り戻すのに応じて、底冷えする痛みが背筋を這いあがってきた。

 そんな中――背後から、憂い声を聞いた。


「見て、シラノさん……世界はこんなにも美しいわ。美しいのに、とてもとても罪深いわ。でも……美しいの」


 エルマリカの独白を前に、シラノは息を止めた。

 暗黒に満ちた大いなる大地。その端の地平線は曲線を描き、輪郭は蒼き衣を纏っている。宇宙の黒に溶けていくように、徐々に紫色に色が逃げる。

 頭上に広がるのは、遮ることのない黒と輝く宝石の光る星空。視界の端では、隕石だろうか。赤き岩が弾けている。

 その東端で、指輪の宝石めいて輝くものがあった。白き光が闇のベールを剥ぐ。未だ遠き太陽が、漆黒の衣を持ち上げようとしていた。

 かつての世――宇宙飛行士の送った映像で見たことがある。雲のその上、宇宙との入口だった。


「綺麗でしょう? ふふ……誰かとここに来たのは、初めて。だって、わたしの言葉を信じてくれたのは……あなたが初めてなんですもの」

「ぐ……」

「動かないで? 今、世界にはあなたとわたしだけよ――他の誰もいない。ここには、わたしが上手くできなかったことを怒る人はいないわ。わたしを閉じ込めようとする人もいない……わたしとあなたの、二人だけなの」


 背後から回された腕の力が強まった。それだけで、口から苦悶が漏れた。

 触れし万物を切り刻む劔の鎧。それが、今のエルマリカの肉体であった。


「シラノさん……わたしは嫌いよ。皆嫌い。誰も彼もが嫌い……皆のことが、憎くて憎くてたまらないわ」

「……」

「でも……世界はこんなにも美しいの。だから、わたしはこの中に居なければいけないの。こんなに美しいものを壊してしまうのは……きっとよくないことなのよ」


 腕を動かそうとした。だが、動かなかった。

 強烈な上昇の加速度が故に脱臼してしまっているのか。腕も足も、動かせそうになかった。


「だから……認めてくださいな。わたしは悪い竜だって。悪くて悪くて呪われた竜だって。シラノさんにそう認めて貰ったら……わたしは初めて狂った竜じゃなくなるわ。わたしはおかしくないの。わたしは間違ってないの。わたしの心は、判断は、基準は何もおかしくないのよ」

「……なにが、言い……たい……!」

「わたしを人間にしてください。皆と同じ、にしてください」

「……」

「そうじゃなきゃ……わたしの痛みが無駄になるわ。わたしがおかしいままなら、わたしの痛みはなかったことになってしまう。わたしは幽霊のままになってしまう」


 だから――と、縋るような声で彼女は続けた。


「わたしは間違っているの。皆から間違っているって言われているの。だから……わたしには何が正しいのか正しくないのか分からなくなってしまって――わたしは、わたしが間違っていないって証が欲しいの」

「エルマリカ……」

「そうじゃなきゃ……わたしが正しいものになれなきゃ、わたしやあの子が負った痛みは間違ったことになってしまう。なかったことになってしまう。あんなに痛かったのに……それだけは、許せないわ」

「……」

「だから――言ってくださいな。わたしは呪われた竜だって。わたしは、どうしようなく邪悪な竜なんだって……狂った竜なんだって。わたしがそう思って、あなたがそう思って、みんながそう思うなら――わたしはおかしくなんてない」


 刃を通して、震えが伝わる。

 エルマリカのその声色は――どこまでも加害者でありながら、己が被害者だと主張するものであった。

 なんの、被害か。

 僅かに黙し、シラノは喘ぎを堪えて言った。


「……認めなかったら、どうなる?」

「認めてくれなかったら? ……ふふ、認めて貰うまでこうして喋りかけるわ。喋って喋って、あなたにわたしを判って貰う。その為ならなんだってする。なんだってできる……だってわたしは、邪悪な竜なんですもの」

「……」

「ええ――その為なら、こんな世界だって惜しくないわ」


 彼女は矛盾していた。

 否――この矛盾こそ、エルマリカの本質なのだ。

 この世界を美しいと言いながらも一方で壊そうとし――正気をどこまでも欲しつつも内なる狂気に身を任せる。

 己が間違っていると理解しながらなおも間違ったことを行い、己でも間違っていると理解している行いだからこそ己の価値判断は間違っていないと安堵する。

 己を呪われた竜と言いながら、呪われた竜以外のものになりたがる。

 エルマリカは狂っていた。彼女はどこまでも狂っていた。

 否、狂わされたのだろう。彼女に与えられた環境が、苛酷が、苦痛が彼女から正気を奪った。彼女は善なる指針を失った。――だからこそ、何よりもそれを欲する。

 愛と憎。奇しくも魔剣の権能と同じその二律背反が、彼女の行動原理であった。


「……もしも俺が認めたら、どうする気だ」

「認めてくださったら? ふふ――そんなにも嬉しいことはないわ。わたしは、あなたと同じ世界にいられるのよ。この美しい世界にいられるの。わたしは幽霊なんかじゃなくなるの。わたしは生きていていいの……」

「……」

「ええ――そうね。そうなったら、間違っているのはこの世界の方よ。わたしが正しいんですもの……今までずっと、間違っているのはこの世界だった……! ええ、そうよ……そうなるわ……!」


 その言葉が、熱を帯びる。

 絶望の汚泥と嗜虐の業火。激情と哀惜が入り混じり、羨望と悲哀が音を立てる。


「判らせないと……! 間違っていたのはあなたたちの方だったんだって……判らせてあげないと……! ええ、今までの全ての分を――塗り潰すように、何もかも……!」


 背後で謳われるのは怨歌。復讐者が、世の理を外れたものが、世界から疎まれたものが復讐を叫ぶ。

 やはりだ。表裏一体――エルマリカのその愛の根底には、どうしようもない憎悪が含まれている。

 赤き憤怒と蒼き恩讐。入り混じった黒色の執念。それがただ内なる炎として、彼女をどこまでも突き動かすのだ。


「そうして叫べばいいわ。わたしが呪われた竜だって……! でも、間違っているのはあなたたちの方……わたしは呪われてなんていない! あなたたちが上げた悲鳴の分だけ、わたしはもっともっと人間になるの……!」

「……」

「ええ……ふふ、そうよ……! 間違っているあなたたちになんて助けはこない……! 間違っているのだから……誰も助けてくれるわけがない! どれだけ泣いても叫んでも、何の意味もないのよ……! 間違ってるから……呪われてるから助けはこないのよ……!」


 それは、慟哭であった。

 魂の悲鳴。苦痛の怨念。恩仇の呪詛――青黒い業火が、エルマリカの内から零れ出る。世界全てを焼き尽くさんとする執念となり、ただその報復に薪をくべる。

 それはまさしく彼女の言う通り、呪われた竜そのものでしかなく――


「……ああ。……か」


 だけどきっと、最後のその言葉が全てだった。

 ……それが答えだ。

 それが最初から答えだった。何もかもの――エルマリカの抱いていた闇の、その答えだった。

 だから彼女は正しいものを欲しがった。

 正しいということが、それが意味することは一つ。彼女の言葉に従うなら、たった一つだ。


「そうだな。……でも大丈夫だ。俺は君を、助けにきた」

「――」

「悪い。遅くなった。……それでも、俺は助けにきたんだ。これから何度だって俺は助けにくる。何度でも見捨てない。……お前は、呪われてなんていない。呪われているから、助けが来ないなんてことはない」


 初めからエルマリカは、正しいものに――――助けて貰えるものに、なりたがっていたのだ。


「……ああ、そうだ。だから、呪いを、斬らなくちゃいけねえ」


 言い切り、全身に力を込めた。

 骨が外れたというなら戻せばいい。繋ぎなおせばいい。今や鎧のこの身を動かすのは、ただシラノの精神のみ。

 肉体を精神が凌駕した。心さえ折れなければ――それだけで、何度だって戦える。

 故にこそ、シラノ・ア・ローはこう言うしかない。


「呪われたものなんていねえ。……俺が、それを認めない」

「シラノさん……?」

「ここで止める。お前を本当に、世界を壊す呪われた竜にさせるわけにはいかない。――イアーッ!」


 言い切り、そして叫んだ。

 内から次々に装甲を生み出し、どこまでも己の身を固める。そして放つは“唯能ユイノウカサネ”。背中の装甲を弾き飛ばし、その反動で無理矢理に刃を引き抜いた。

 迸る血を、胴体の傷を触手で塞ぐ。癒えぬとしても構わない。死を永らえればそれでいい。最後まで動けばいい。その絶望を止められればいい。

 そうだ。

 この身は全てその為にある。剣豪として立ち上がったその日から、ただその為にある。

 心を燃やせ――絶望てきを斬れ。涙を拭え。ただ、一振りの希望になれ。


「どうして……! どうして認めてくれないの? わたしは呪われた竜なの……! 呪われているから、誰も助けてくれないの……! くれなかったの……!」

「……ああ、遅くなった。悪い」

「――っ! 今更あなたになんて来られたって――何の意味もない! あなたはただ、絶望だけしてくれればいいの……! そうすれば、わたしは間違っていなかったってことになるから……!」

「……」

「わたしの痛みに、意味が生まれるの! 今まで我慢したことは、無意味じゃなくなるのよ! わたしがずっと我慢してたのは、嘘じゃなくなるの! わたしの人生は嘘なんかじゃないの! 泣いちゃったのも辛かったのも、間違ったことなんかじゃないのよ……!」

「……ああ」


 始まる自由落下の中――離れた背後でエルマリカが叫んだ。

 奥歯を握り締める。

 彼女に与えられた痛みが――闇がどれだけ深いか。どれほど重いか。どれほど背負わされたか。それは、シラノなどには判りえない彼女だけの記憶だ。

 彼女はそんな過去に捕らわれている。彼女はそんな因縁に捕らわれている。彼女はそんな絶望に捕らわれている。

 それは確かに彼女の痛みだ。シラノに否定できる訳などない。全てが事実で、全てが彼女の経てきた経験であり慟哭だ。今更、変えることなどできない因縁だ。

 だが、だとしても――


(――そんなお前に、世界を焼かせるわけにはいかない)


 握るは刃。掲げるは刃。向けるは刃――この身は全て、ただ絶望を切り払う為の刃なり。

 ここが死地だ――心を燃やせ。

 ここが死地だ――命を燃やせ。

 こここそが死地だ。この絶望を止めるためにこそ、この刃は存在する。初めからそうとしか在れない。初めからそうと在る為だけにここにいる。

 天地創世。万物の条理。呪われし魔剣――

 斬り伏せろ。ここが死地だ。神がいるなら神をも殺せ。鬼がいるなら鬼をも殺せ。この絶望を、この呪いを許すわけにはいかない。

 そうだ。

 この身は全て、その為にある。

 昨日までの想いを変えることはできない。変える権利など誰にもない。シラノ・ア・ローにそれはできない。だからこそ――


(守ると言った。助けると言った。……男に、二言はねえ)


 守るのだ。明日を。未来を。彼女が与えられるべきであった、誰にでもあった筈の幸福を。

 助けるのだ。絶望の海の底から。諦観の荒野から。虚無の塔から。彼女を連れ出すのだ。

 その為にできることなど、ただの一つしかない。

 いつだって、ただの一つだ。たった一つの真理だ。その為だけに、シラノはいる。

 故に、


「――魔剣、断つべし!」


 決断的に言い放ち、シラノはただ野太刀を向けた。

 相手立つは邪竜の化身。

 相手立つは破邪の剣豪。

 成層圏。その圏界面。上空五万メートル――自由落下の中、最後の決戦の幕が上がる。

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