第49話 ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ その五


「〈竜魔の邪剣ノートゥング〉……」


 漏れた声が、己のものでないとまで感じられた。

 全身の細胞が恐怖を叫び、思考は逃避を通り越して諦観へと至る。

 序列四位。天地創世の魔剣。この世の礎たるもの――そんな修飾で謳われる魔剣が、歪な炎めいた甲冑として今まさにシラノの前に顕示されていた。

 鱗じみて大小の刃が全身を覆い尽くした鋭角的なフォルムと、双角を成す〈水鏡の月刃ヘレネハルパス〉より禍々しい双曲剣。

 地底の黒炎を煮詰めて全身鎧にしたかの如く――まさしくそれは、邪竜と呼ぶに相応しい姿であった。


「ねえ、どう? ふふ、あなたが助けようとしていたのは悪い竜なの……ふふふふ、シラノさんが助けようとしていたのはただの幻だったのよ? わたしは幽霊なの……本当はただの悪い竜なの。ふふふふふ?」


 そしてそんな刺々しい黒鋼色の劔刃装甲に身を包んだエルマリカは、高揚を隠せない様子で嗤い上げる。

 これまでの彼女からは想像もつかないような愉悦に歪んだ声に、シラノは苦く拳を握った。

 第四位の魔剣。至上の七振り。〈竜魔の邪剣ノートゥング〉――それは、衝撃的と呼んで余りあるほどの驚愕。

 大海原で圧倒的な捕食者に遭遇した小動物めいて、シラノの本能は恐怖と混乱の渦へと投げ出されていた。

 足が震え、背筋は生存を叫ぶ。口腔が乾き、息が詰まる。

 ここを無事にやり過ごせるのなら神に感謝を叫んでもいい――そう思えるほどに全身を包み込んだ焦燥感が、冷や汗として流れ出た。

 だが――今はそれよりも重要な事実がある。重大な事態がある。


(……魅了、されたのか)


 己を奮い立たせるように、ギリ……と奥歯を噛み締めた。

 間に合わなかった。彼女は既に敵の手に落ちた。そして狂わされたのだ。

 天地創世の魔剣――勝てるとは、到底思えなかった。

 だが止めねばならない。あの日寂しげに笑った彼女を、狂気のまま破壊を行う存在には変えてはならない。

 小刻みに乱れる呼吸を纏め、努めて瞳に力を込めようとした――そのときだった。


「……シラノさん。わたしが見たいのは、そんな顔じゃないわ。そんな顔じゃないの……それじゃあ、意味なんてないのよ?」

「……エルマリカ?」

「……ああ、どうしたら判ってくれるの? わたしは、邪悪な竜なの。あなたを殺しちゃう、恐ろしい竜なのよ?」


 冷めたような、傷付いたような声。

 思わず手を伸ばそうとしたそこで、


「……ああ、そうね。そう、そうよ……。判って貰わないと……だって、分かり合えないなんて悲しすぎるから、シラノさんには誰よりもわたしを判って貰わないと……!」

「エルマリカ……落ち着け――」

「ふふ! そうよ、ええ……そうね! シラノさんも信じられないのでしょう? わたしが――こんなわたしなんかが〈竜魔の邪剣ノートゥング〉に選ばれるだなんて! アデレードお義母さまのように! アレクサンドお兄さまみたいに!」


 そして、邪悪な黒き鎧に包まれたその鋭い指先が貯水槽に触れた――瞬間だった。

 響くは、強烈な轟音。

 否――それは最早、音などという生易しいものではなかった。一瞬で意識を白く消し飛ばすほどの、ただの衝撃波。

 眼前で雷が炸裂したと思しきほどの強烈な炸裂音と共に、貯水槽の一部が弾け飛ぶ。表面を覆った石が穿ち飛ばされ、その噴出する瀑布の音が響いた。

 だが……ああ、何たることか。


「な……」


 エルマリカが手を当てたところを中心に、虎口めいた大穴が穿たれていたが……

 直径八メートルほどの貯水槽。階と階を貫くように、床から天井まで伸びている五メートルほどの高さの石造りの水槽。

 さながら巨人の足めいた余りにも大規模な容器の――その膨大な内なる全ての水量が、呼吸の一拍ほどの間すらなくあちら側からだけ噴き出したのだ。

 ただ無造作に弾き飛ばされた石の、その勢いに飲み込まれただけで。


「ふふ、あはははは! 素敵な顔……ええ、とっても素敵な顔。おわかりいただけたかしら? シラノさんの目の前にいるわたしは、簡単にシラノさんなんか食べちゃえるのよ? シラノさんのことを頭からむしゃむしゃ食べつくしちゃえるの……ふふ、あははっ!」


 ――人知を超えた巨竜が猛烈な息吹を叩き付けた。

 そうとしか言えないほどの、凄惨な破壊の一撃であった。

 そして彼女は鎧を軋ませながら、身を震わせて哄笑する。


「……ふふ。ええ、そうよ? 選ばれたのはわたし。この剣を手に入れてしまったのはわたし――産まれるべきじゃなかったわたし。いらない子のわたし。ふふ、あはは! あははははは! そんなわたしが選ばれてしまったのよ!」

「……」

「あはは、あはははは! ああ、シラノさん……! ええ……そうなの! わたしのお腹の奥の奥まで、シラノさんで一杯にしたいわ……!」


 うっとりと微笑むように、邪竜の鎧に包まれた少女は腹に手を当てた。

 完全に錯乱している――そうとしか思えないエルマリカの言動。そんな様に、恐怖とは別に心の奥で沸々と何かが灯される。

 やはり、すぐにエルマリカのその声は憂いを帯び始めた。秋の日に窓の外の寒々しい木々を眺める令嬢めいた声色であった。


「ああ……でも、まだ足りないのね。シラノさんには、まだ判って貰えないの……? わたし、シラノさんにだけは判って欲しいの。わたしのことを、ちゃんと知って欲しいの」

「……」

「……ああ、どうしたらいいかしら? わたしは……息をするよりも早くこんな街を消してしまえる恐ろしい竜なのよ? 邪悪な竜なのよ? なのに――なのにどうして、どうしてまだそんな目をしてくれるの? どうしてまだそんな目をしていられるの?」

「エルマリカ……」

「あはっ――ああ、そうね。そう……こんな街があるからいけないんだわ。そうね……そうよ……! ふふ、壊したら――あなたにも判ってもらえるかしら?」


 ゾ、と毛が逆立った。

 そして、エルマリカが歩み出したのは浄化の貯水槽に向けてだった。手を翳すと共に、触れた石壁が粉々になって吹き飛んだ。

 彼女が捉えているのは、全ての水が失せた貯水槽の底に輝く五つの宝石――街を穢れから守る、浄化の宝石。

 ……砕かれたなら、この街は穢れに染まる。


「……シラノさん?」


 横穴から回り込むようにエルマリカの先に立ち、シラノは震える呼吸を低く絞った。

 そして宝石を背に庇いながら、噛み締めるように言った。


「……頼む、退いてくれ」


 背後の宝石は、既に一つが穢れに濁り始めていた。それを、残る四つが押し留めているのだ。

 その四つが砕き散らされてしまえば、最早この都市で穢れを防ぐ為の防壁は完全に失われる――――城塞都市の最後の生命線。


「ふふ……あら、大丈夫よ? わたしと一緒にいれば穢れなんて怖くないわ? だってわたしは無敵なの。わたしは何にも傷付かない――誰に何をされても傷付かない、無敵の竜なんだから」

「……」

「ええ――だから大丈夫。こんな世界、燃やしちゃいましょう? シラノさんだって怒ってるでしょう? こんなもう壊れかけのもの、壊しちゃった方がいいと思ってるでしょう? こんなものが許されてはならないでしょう?」

「……」

「だって正しいのはあなただけ……この世で正しいのはあなた一人だけなの。あなただけに裁く権利があるの……だからこそ、あなたに竜だと思って貰わないと……わたしがおかしいんだって思って貰わないと、わたしが間違っていなかったってことが証明できない……!」

「エルマリカ……!」


 会話をしているのに会話が成り立っていない。彼女は完全に狂わされている。

 天地創世の魔剣。この世界の頂点。それを身に纏うはかつて助けると誓った筈の少女――――。

 シラノに与えられた状況は、絶望と呼んでも足りないものであった。まさしくエルマリカは、呪われし竜となってそこにいるのだ。

 忸怩たる思いで刀を構え……それでもシラノは、


「駄目だ。……退いてくれ。頼む、エルマリカ……」


 そこから一歩でも動かれたら斬らねばならなくなる――。

 そんな想いを視線に込めても、エルマリカはあってなきことのように最後の線を越えた。

 刃の射程圏内。即ち、都市の最終防衛線。


「……ッ、イアーッ!」


 歯を食い縛り、放つは百神一刀流・零ノ太刀“唯能ユイノウ”――超音速で空を裂く必殺の触手抜刀であった。



 ◇ ◆ ◇



 街を覆う宵闇は、雨の中でも確実に深まってきている。

 夜半をどれだけ過ぎただろうか。再び雲間に隠れてしまった月を追うように、レオディゲルは水晶窓に手を当てて呟いた。


「……遅いな」


 衛士の詰め所の近くの民家。苦々しく眉を寄せた彼の脳裏をよぎるのは先ほどの爆発だった。

 都市の中ノ島から響いた轟音。そして〈浄化の塔〉から上がる粉塵――あれではどんな防壁も意味を成すまい。何か強大な魔剣使いが敵方に与している。そんな事実は、余計に心持ちを苦いモノに変える。

 王都への呼びかけに走らせた使者は、昼夜に構わず走るだろう。幾たびも出した長距離交信は本当に役に立つのか。

 いや、それどころではない。〈雷桜の輝剣シグルリオーマ〉を待たずとも、この都市は滅びを迎えてしまうのではないか――先ほどから、レオディゲルの胸中にはそんな思いばかりが渡来する。


「なあに、隊長殿! “破城”のシラノ・ア・ロー殿が向かわれているのです……心配はないかと!」

「“破城”……? あいつ、二つ名持ち――〈銀の竪琴級〉以上なのか……?」

「いえ! 我々でそう呼ぶことにしようかと! ほら、士気を高めるのには大切ですからな!」


 豪快に笑うリュディガーの明朗とした顔を前に、レオディゲルは揶揄するように口開いた。


「触手使いだろうが何だろうが、有能な奴ってのはおれは好きだ。お前らにもそう受け入れられてるんならそりゃあ構わねえが……珍しいな。お前の口から、この街を誰かに託すって言葉が出るとは。……腸煮えくり返ってねえのか?」

「ええ――それは、無論! いやあ、悔しいものですな! この情けない我が身に怒ること以外に何ができようかと!」


 見れば他の衛士たちも同様に頷いていた。

 魔剣を持たない。特別な異能もない。それでも鍛え続けて都市の盾を自負する彼らからしてみれば面白くはないだろう――レオディゲルとて、そう思っている。

 だが不可思議なのは、誰もが晴れ晴れとした顔をしていることであった。


「しかし、恨むならば己の未熟のみ。聞けばシラノ殿も触手使いとしては決して才ある方ではないとか……ふふ、魔剣使い以外は押しなべて皆平凡や凡百呼ばわりされるのです。ならばその同胞が立ち向かっている中、我らは不甲斐なさを感じる以外何をできましょうや!」

「……そういうのは、もう少し申し訳なく言うもんだぜ?」

「いやあ、それは誠に申し訳ない! 何せ生まれついてこんな顔ゆえ!」


 リュディガーに合わせて衛士たちから笑いが上がる。

 こんな状況なのに、まだ笑う余裕があるらしい。いや――こんな状況だからなのだろうか。


「いずれにせよ――この戦いはむしろ、首魁を討ってからが本番でしょう。我らの城壁を奪った奴ばら……その数ばかりは、我々のような数を持ってしか対処できない! そうであるな、各々がたよ!」

「おうよ! あいつが上を討ち取ったあとがおれたちの出番だ!」

「触手使いばかりにいい格好をさせてられねえよなぁ!」

「おれのカミさんは若いガキが好きなんだ……クソッタレ、これでなんの活躍もできずに触手使いに寝取られたら笑えねえな!」


 肩を叩き合って男たちはただ豪快に微笑んだ。

 この状況だから――こんな絶望的な状況であるからこそ、彼らは己が磨いてきた盾と槍を支えに心を保てる。街に脅威が迫っているからこそ、萎えずに戦える。

 特に魔剣使いを騙った無法者が暴れたときに尻尾を巻いてるグンナルや、竜もどきの騒動の時に失禁したドルスフィンまでもが士気高くいられるのは、予想外にもほどがある。


「……衛士になったからには自分の生まれ育った場所を守りなさい、か」

「どうされました、隊長殿?」

「いや、病気で死んだお袋の遺言さ。死に目には会えなかったがね。……さてと、そんなに力が有り余ってるってんなら……お前ら、少しばかし動いてみるか?」

「ほう、如何いたすのでしょうか隊長殿?」


 リュディガーが片目を閉じながら眉を上げる。

 暑苦しい顔だと髭を掻きながら、


「二三人取っ捕まえて連れてこい。集められるだけ情報を集めろ。……勝率を上げるぞ。街を守るのは、おれたちの仕事だ」


 レオディゲルはそう言った。

 この街の為にどこまで踏ん張れるか――今は、それが問題だった。



 ◇ ◆ ◇



 飛び込むように身を前傾し、袈裟を逆さに斬り上げる。それが薬丸自顕流の、シラノ・ア・ローの抜刀術である。

 前世の知識として得たそれを、ひたすらに今の自分と触手に合わせ込んだ必殺技。

 相手の胴目掛けて下から上へと斬り放つ斬撃は、もしも不殺という理念を失えば受けたその身を真っ二つに両断しよう。そんな一撃であった。

 だが、


「……な、」


 ……まず気付いたのは、右手の指の痛みだ。

 小指と薬指が折れていた。逆向きに指が曲がり、関節から骨が突き出ている。

 親指の付け根もズタズタに砕かれて、見る影も無残に垂れ下がっていた。

 カラン、と柄から転がる。シラノの手から外れたその刀は半ばから床に突き刺さり、直後に塔の修復の魔術に押されて放り出された。

 そして――物打ちより先の切っ先もまた、

 


「ぐ、ゥ……」


 何が起きたのか、全く判らない。

 斬りつけたと思ったその時には、逆に剣を砕き飛ばされたのだ。

 対する黒鎧のエルマリカは微塵も動く様子もなく――……催眠術や白昼夢でも見せられているような、信じがたい光景であった。


「……あはっ、シラノさん。素敵な顔……他の皆様には判らないかもしれないけど、わたしには判るわ。シラノさんは怯えていて、今傷付いている……凄く凄く驚いて、それ以上に怖くて仕方ない……ふふふ、シラノさんの大切な自信を壊してしまったのね?」

「エル、マリカ……!」

「でも……その顔じゃないわ。……わたしが見たいのは、その顔じゃないの。違うの。あなたには、もっと絶望して貰わないと――意味がないわ」

「エルマリカ……! 正気に戻れ……!」

「正気? ううん、違うの。今までわたしは狂っていたわ。……だからこれから正気になるの。おかしいのは世界の方だって証明するのよ。いいえ――いいえ、違います。わたしと世界を秤のそれぞれに乗せて、これでようやく釣り合いがとれるの」


 錯乱している。混乱している。

 エルマリカは、ここではない何処かに向けて話している。シラノではない誰かと話している。

 会話の形を取りながら、彼女は自分自身の言葉だけで完結している。

 彼女が天地創世の魔剣使いであることは、一先ず構わない。あまりにも強大で不可思議な権能を持っていることも構わない。

 ただ、止めねばならないのだ。彼女が凶行に手を染めようとしていることを許してはならない。


「エルマリカ、動くな……! そこから動いたら――」

「――動いたら、どうなるのかしら?」


 瞬間、であった。

 邪悪な意匠の劔刃甲冑に包まれたエルマリカが、何の兆候もなく隣に立っていた。


「イアーッ!」


 その足目掛け、即座に放つは“唯能ユイノウカサネ”――触手三段突き。

 最先端が弾き返され、二段目とぶつかってひしゃげ果てた。やはり何の傷を負わせることもできない。だが、その反動に合わせて飛びずさる。

 足裏で地を噛みながらエルマリカを睨んだ。移植された右眼――赫き魔眼でも追えぬほどの、影なき超高速移動。


「動いたら、どうするつもりだったの? ふふ……やっぱり少し悲しいわ。シラノさんに剣を向けられるなんて……攻撃されちゃうなんて……」

「……ッ」

「でもそれ以上に、あなたはまだ絶望してくれないのね……どうしたらいいのかしら。やっぱり、こんな街でも滅ぼすしかないの?」

「……やめろ」


 睨みつけ、虚空から更に触手刀を生じて合一させる。“矢重ヤガサネカスミ”――倍の強度と重さを持った触手野太刀が蒸気を放つ。

 これで彼女の摩訶不思議な高速移動と謎の防御を貫けるか。その答えは、シラノとて判らなかった。


「それだけは、させない」

「ふふふ、ふふふふふふ? うふふふふふ? そんな言い方はシラノさんらしくないわ。わたしが見てきたシラノさんは、こんなところでそんなことは言わないわ?」

「……」

「でも……騎士さまらしくてとても素敵。とってもとっても素敵……シラノさんは、苦々しい顔をしていても素敵よ?」


 酷薄な残虐さが表に押し出されたような、背筋が薄ら寒くなる笑い声であった。

 嬲っている。そうとしか思えない。今の一幕も、彼女がその気なればシラノは死んでいた。

 だが、だからこそ――そこに付け入る隙がある。


「イアーッ!」


 召喚発生シャウトとともに、放つは触手の紐。空間に張り巡らせ、あたかも蜘蛛の巣めいて貯水槽の中を覆う。

 そして右手に巻き付け、紫電を弾けさせた。

 シラノを中心とした紫の網。直径八メートルの触手結界。電撃の檻。如何なる全身装甲であろうとも、触れれば迸る電撃の速度には及ぶまい。


「……ふふ、かわいいわ。シラノさん、すっごくかわいい……! 精いっぱい積み上げて、精いっぱい築き上げる……どこまでも諦めようとしないの、すっごく素敵よ? あなたの魅力はそんなところ……他の誰かにもそんな顔を見せてるなんて許せないけど……」

「……」

「でもね、シラノさん……。これは無駄なことなのよ? だってわたしは無敵だから――誰にだって倒すことはできないのだから」

「……無駄かどうかは俺が決める」


 睨み返し、向けるは極紫色の切っ先。

 二つ重ねた触手野太刀の、色濃いその切っ先。


「これが最後だ。……エルマリカ。頼む、退いてくれ」

「ふ、ふふふふふふふふふ――……だ・ぁ・め♪」

「イアーッ!」


 柄を握り締めると共に、強烈な衝撃が襲いかかった。

 虚空を喰らう爆速の牙。空間を一直線に飛翔し、空気に不可視の波紋を生む。六つの断面のそれぞれから生じる触手刃は――計十二本。

 これこそがシラノの最速。最強の一閃。

 “唯能ユイノウカサネガスミ”――触手剣術として、シラノに持てる最大の火力であった。

 果たして、が響いた。


(……通、じた? まさか、届いた……のか?)


 確かに傷を付けることは叶わなかった。そして、エルマリカの甲冑に弾き返されもした。かすり傷も作れなかった。

 だが、その無敵の防御には僅かながらに喰らいつけた。そう判断して良い。音が出たということは――少なくとも攻撃や衝撃を〈竜魔の邪剣ノートゥング〉の刃に伝えることは叶ったのだ。

 切っ先が触れると同時に鎧に打ち返される初刃を、そのまま後続の刃が押し込み、互いをひしゃげさせながらも無理矢理に押し込む形での突撃。

 これこそが――未だに詳細の読めぬ、エルマリカの権能の突破口。

 重ね上げた刃はその防御を押し切り、張り巡らせた触手の結界は彼女の高速移動を封じていた。


(これなら――)


 通じる。細かい権能の理屈は不明であるが、通じる。

 無敵に思われた防御であったが――攻略の糸口はあった。


「あはっ……当てられちゃったのね。ふふふ、うふふふふふ……触手の力って凄いわ。うふふふふふ、あははははは!」

「……」

「痛いわ……痛い……ふふふ、すっごく痛いわ……。シラノさん、酷いことをするのね? シラノさんって、意地悪なのね……?」

「……武装を解除しろ。頼む……これ以上、俺に剣を向けさせないでくれ」

「ふふふ……ええ、とっても痛い。痛いの……すっごく痛いわ……ふふ、泣きそうなくらいに……! あははははははは!」

「エルマリカ……!」


 切っ先を足元に向け叫んでも、両手で己を抱きしめながら鎧姿のエルマリカはただ不気味に笑うだけだ。

 言葉は通じても意味がまるで伝わらない。彼女は完全に、己一人の世界に没入するほどに精神に異常をきたされている。

 最早、是非もないのか――。


「エルマリカ……頼む、刃を収めてくれ」

「ふふ、痛い……痛いわ。こんな痛み、どうにかなっちゃいそう……ふふふ、痛いの。痛くて痛くて堪らないわ……」

「……」

「いいえ、いいえ……! でも構わないわ、だって――――これが生きるっていうことなんですもの! わたしは今、幽霊じゃないのよ!」

「エルマリカ……!」


 シラノを見ようともしない。彼女は、彼女だけの世界で言葉を紡いでいる。

 これ以上の説得は、無意味――――苦渋と共にエルマリカの足を捉え、


「イアーッ!」


 放つは――白神一刀流・零ノ太刀“唯能ユイノウカサネガスミ”。

 爆発に等しい反動を右手に受け、放たれるは極紫色の光の一閃――――――否、


「――――」


 

 爆発に等しい衝撃とはまさしく、ただの爆発めいて鍔ごと粉々に刃が弾け飛んだそれだけのこと。

 一瞬――蝶と見紛うた。

 宙を、触手刀の破片が舞う。宇宙空間の写し絵めいた紫色の破片が、空中でただ妖しく煌めいた。硝子じみて砕き割れ、散り散りに空間を埋め尽くしている。

 なんたる不可思議な幻想的光景だろうか。

 無数に砕け散って殺風景な貯水槽の中を彩る触手刀の欠片の中、シラノは息を飲んだ。

 全く認識できない一間に、触手野太刀が砕け散らされた。

 否、違う――それが恐ろしいのではない。

 

「ふふ、痛いけど……でも許して上げる。だって、巣を失った蜘蛛さんなんて――憐れなものでしょう?」


 破片一つを揺らがせることもなく、禍々しい邪竜甲冑に身を包んだエルマリカが眼前に立っているのだ。

 同時に感じた。右腕に繋がった触手の網が――ただの一息に、粉塵よりも細かく斬り刻まれている。まるで兆候も、感触も感じなかった。


「な……」


 電撃も。

 結界も。

 六段突きも。

 その何もかもが意味をなさず、瞬く間に斬り捨てられたのだ――否、瞬くほどの暇もなかった。

 それほどの超高速。それほどの超防御。シラノとエルマリカでは、役者が違いすぎる。

 そして、眼前に立つエルマリカが両手を広げる。咄嗟、負けじと柄を突き出し、


「あはっ――死んでくださいな?」


 ――伸ばそうとした刃が、半ばからひしゃげる。

 その爆音を感じるよりも先に――シラノの意識は、肉体ごと吹き飛んだ。





 痰が絡んだような気持ちの悪い音が聞こえる。

 それが自分の喉から出ているのだと気付き――そこで覚醒した。

 全身の感覚がない。

 見れば、半ば砕けた壁の瓦礫に埋まっていた。

 右肘は逆向きに曲がり、胸は不自然に凹んでいる。鼻から伝った液体が口に入り、鉄錆の味がした。

 何が起きたのか、全く判らない。ただ、巨人に殴り付けられたように叩きのめされている。

 何とか首を上げれば、いつの間に近寄ったのか……全身甲冑を解除した青いワンピースドレス姿のエルマリカが、砂糖菓子のような金髪を広げてそこにいた。


「ふふ……咄嗟に頭だけは庇ったの? シラノさん、丈夫なのね……アレクサンドお兄さまみたい。うん。いいわ。そうじゃなきゃ……うふふ、いいわ」

「エル、マリカ……」

「ふふふ、判って貰えました? これが〈竜魔の邪剣ノートゥング〉……その力の一端よ? どう? わたしはお姫様じゃなくて、悪い竜なの……ふふふ」

「ぐ、ぅ、ごほ――ぁ……」

「うん。もっと……その目で見て? うん、いい気持ち……きっとシラノさんにそんな目をさせたのは、わたしが初めてね? ふふふ、あはは……シラノさんの“初めて”――貰っちゃったわ♪」


 金髪を揺らしながら、ころころと愉快そうに笑う。

 自分の知っているエルマリカという少女とは間逆な言動に、義憤混じりの戸惑いが胸に到来した。


「落ち着け……正気に、戻れ…………!」

「ふふふ、正気よ。さっきも言ったでしょう? ……いえ、正気になるのはこれからだったかしら。でも――ちっとも操られてなんかないわ? わたしは、わたしの意思でここにいる。わたしの意思でこれをしている」

「エルマリカ……!」

「ねえ、シラノさん……わたしが誰かに命じられてこんなことをするなんて――見くびらないで? そんな風な目でわたしを見るなら……いくらシラノさんでも、本当に殺しちゃうから……ね?」


 ゾッとするほどの冷たい響きであった。

 先ほどまでの、夢に酔った少女の声ではない。どこまでも冷徹な――背筋が凍るほどの、執行者の声色。

 そのまま、碧眼を細めてエルマリカは続けた。


「そうね。……あの女、ここから出たら粛清するわ。あんなものは許してはいけないのよ。メアリさんにも酷いことをしたし――街の人にもそう。わたしは、執行騎士だから止めないと」

「な……」

「ええ、大丈夫なのよシラノさん。確かにあのとき〈竜魔の邪剣ノートゥング〉を解除しちゃったけど……わたしは誰にも操られていない。わたしはわたしの心に従ってここにいるわ――これはわたしだけの大切な恋心さついなの」


 そして――彼女は。

 思わず見惚れんばかりの艶やかな笑顔と共に――

 誰にも操られていないと。そんな驚愕の事実を、口にした。

 つまりこれは。

 シラノを斬り倒したいというのも、この街を壊したいというのも、この凶行も――――。

 その全てが、エルマリカ自身の欲望と意思によって引き起こされたということであった。


「あはっ――ああ、見たかった。見たかったわ、その目……! 本気でわたしのことを助けようとしてくれてて、それができないと判ったときのその目。願いが裏切られたときの目。ああ――本当に素敵。素敵よ、シラノさん」


 蒼い瞳を潤ませながら、彼女は夢見心地で語る。


「シラノさんがそんな目をするなら、これはきっと悪いことなのね。ええ……わたしも胸が痛いわ。だから――これを間違ったことだと思えるわたしは間違ってない……わたしはおかしくなんかないのよ! ふふ、あはは……あははっ!」


 悪事を笑い、悪行を言祝ぐ。悪逆に頬を染める。

 その全てが、エルマリカの意思だ。エルマリカ自身の欲望で為されている。

 げほ、と血を吐いた。脂汗が身体を伝う。何度も咳き込みながら、そのまま何とかエルマリカへと目を向け続ける。


「どうして……って顔してるのね。ごめんなさい……そんな顔をさせたいんじゃないの。でも――あなたのそんな顔を見てみたかった。……それに、もっと見たい。あなたの心をわたしだけのものにしたい」


 ゆっくりと彼女が両手を伸ばしてくる。

 顔を背けようとも逃げられない。まるで身体が動こうとしない。そのまま、冷たい小さな手で頬を抑えられた。


「シラノさんみたいな人はね、本当はいちゃいけないのよ。だって――こんなにも間違った世界の中に、あなたみたいな優しい人が居ていい筈がない。許せないわ……あなたみたいな人が今になって現れるなんて……」

「何を……」

「殺しちゃいたいわ……でも、あなたを殺したくはないの。一緒に居たいの。だから――ただわたしだけを見て。わたしに触れて、わたしを感じて。わたしに溺れて。わたしを裁いて。あなたには、わたしが居ればいいの……わたしにだって、あなたが居てくれればいいの」


 そして――何かに酔っていたようなエルマリカの蒼い瞳が、不意に褪める。


「シラノさん……雲の上って、見たことある?」



 ◇ ◆ ◇



 この世が始まるときには、まずは赫き炉があった。

 最初に生まれたのは〈水精の聖剣カルンウェハン〉と〈竜魔の邪剣ノートゥング〉だ。その二振りの剣を持った女神は、まずはこの世の土台を作った。

 だけれども、そこはまだ暗かった。

 その炉の光を集め、生み出されたのは〈雷桜の輝剣シグルリオーマ〉であった。

 闇を照らす為に作られたその輝く剣は天空神に握られ、生まれた命を海に封じようとする女神へと振り下ろされ、彼女から〈水精の聖剣カルンウェハン〉と〈竜魔の邪剣ノートゥング〉を奪い取った。

 そして、命は大地に解き放たれた。


 だが、女神は怒った。〈竜魔の邪剣ノートゥング〉を使い続けていた彼女はその身を大いなる竜――〈大地の竜母神フュルドラカ〉と変えており、怒りのままに暴れまわった。そして地上を、彼女の眷属である竜が支配した。

 天空神は若き男神へと〈竜魔の邪剣ノートゥング〉を渡した。彼は――〈白狼と流星の神デーングゥ〉は祈りと苦しみと共に〈竜魔の邪剣ノートゥング〉を投じ、〈大地の竜母神フュルドラカ〉の胸を貫いた。

 死した〈大地の竜母神フュルドラカ〉は大いなるその身を横たえる。これが、我々の暮らす大地となった。

 かつて先にあった大地は冥府となり、戦いに巻き込まれた命は冥府に封じられるようになった。

 それを管理する為に一人の女神が自分から冥府へ向かい、その手には餞別として〈冥府の大剣ヴィーヴォル〉が授けられた。


 いつしか燃える炉の煙が、その煤が“魔物”となっていた。

 いつまでも尽きぬ魔物の為に神々は人の下へと〈鍛冶の一つ目神オルダルトス〉を遣わせ、次々に魔剣を作らせだした。

 また同時に、神々は一本の魔剣を用意して土に隠した。どんな魔剣をも倒せる〈赫血の妖剣スクレップ〉である。

 もう一本魔剣を生み出し終えて、〈天の炉の女神ウェステレンシア〉は炉を止めた。

 そして役目を終えた原初の炉の炎は〈炎獄の覇剣ディルンウィーン〉となった。


 数多の人々の創る魔剣に、神々は加護を授けていく。

 しかしいつからか己たちの争いで魔剣を使い出した人々の為に、神々は皆天空神の宮殿へと帰っていってしまった。

 しかしただ一人、人を見極め裁きを与える為に〈不滅の極剣エゼルフィング〉を握る戦女神はこの世に残った。

 彼女の名を〈秩序と勝利の女神メンスルーウァ〉と呼んだが、その手の魔剣は彼女以外が握れば破滅を齎す魔剣であった。


 ただ一人この世に残されたのは〈秩序と勝利の女神メンスルーウァ〉。しかし神々は、遠い空の上から今も我らを見守っている。

 神々は、今も我らと共にいる。



 ◇ ◆ ◇



「……空の上にはね、神様なんていらっしゃらなかったわ」


 邪竜になった少女は、そうぽつりと漏らした。

 深い悲しみを湛えた蒼き瞳――――西洋人形めいて整った顔の少女は、何とも言えぬ泣き笑いの如き寂しげな表情のまま続けた。


「神々の暮らす国なんて存在しない……あるかもしれないけど、わたしには見付けられなかった」

「……」

「そう、そんなものはないのよ? ただ――空はどこまでも暗くて、大地はどこまでも青かったわ」

「は……? 待て……それ、は――」

「……ふふ、シラノさんは信じてくれるのね。誰も――誰も信じてくれなかったわ。雲の先は真っ暗で、わたしたちの暮らしている地面だけが青く光ってるの。……神々なんていない。誰も見守っていてくれない」

「な……」

「もう少しお外に行ったらいらっしゃったのかもしれないけど……あまり離れてしまったら、メアリさんが困ってしまうから……やめたわ。それにどちらにしても……居たとしても、神様はすっごく遠いのが判ったから」


 彼女の独白を他所に、シラノは絶句した。

 最早、剣豪や騎士などという次元の話ではない。

 エルマリカは――――エルマリカの魔剣は、剣劔甲冑は、単身での大気圏の離脱を可能としているのだ。それの意味が判らぬほど、シラノは不見識ではなかった。

 音速や超音速などという始末ではない。第二宇宙速度――――音速の三十三倍超。それどころか、彼女が望みさえすればそれ以上の速度での航行も可能であろう。


(単身での……大気圏離脱……!?)


 それが、魔剣。

 それが、〈竜魔の邪剣ノートゥング〉。

 それが、エルマリカという少女であった。

 単身で地球の重力圏を脱し、真空の宇宙空間での生存を可能とする――――そんなものは人ではない。魔術でもない。魔剣の域ですらない。

 それを人は、神と云うのだ。

 天地創世の魔剣――――七振りの極限の、その一つであった。


「ふふ……ねえ、シラノさん。わたしは正気じゃないって……そう思うでしょう?」

「……」

「……いいのよ。だってわたしは、判らなくなってしまったの。だって、わたしの声は誰にも届かないの……きっとわたしが間違っているから誰も聞いてくれないのよ?」

「……」

「ええ、だから……。ふふ、何が正しいか……何が正しくないか……何もかもがごちゃごちゃで、朝食の卵よりも掻き混ぜられてるわ? なんでかしら……本当に、どうしてこうなっちゃったんだろう。うふふ、あはは……」


 エルマリカの瞳の光が遠ざかる。

 どうしようもない悲しみに打ちひしがれるように薄れていき――不意に、別の光が灯った。

 そして、彼女の白い顔が近付いてくる。口付けするほどの近くに、エルマリカの鼻先があった。


「だから――あなたが欲しいの」


 それはどこか、祈りにも似ていた。


「助けてくれるって言ってくれて、嬉しかった。本当に、本当に嬉しかった……。あなたはおとぎ話に出てくる騎士様みたいで――きっとあなたは正しい人。あなたは誰よりも人の痛みに寄り添えて……だからこそ正しき怒りを胸に立てる強くて優しい人」


 ぽつりぽつりと、噛みしめるように。


「だから……そんなあなたが無残に倒れるなら、皆きっと心を痛めるわ。それが普通のことなの。だから――同じようにそれを見て胸が痛くなるわたしは、正しいの。皆と同じ普通になれるの。わたしは、おかしくなんてない子になれるの」


 或いは何か、懺悔でもするように。


「ええ……わたしは幽霊じゃなくなるの。狂った竜なんかじゃなくて、わたしと世界はになれる。そうすれば――ええ、そうすれば今までわたしが抱いた苦しさだって、きっとなんてことにはならないでしょう?」


 己が如何に異常者なのかと――。

 己がどこまで狂ってしまっているのかと――。

 どれだけ正気というものが恋しいのかと――――彼女は謳う。


「わたしが怖くて震えてしまったのも、わたしが恐ろしくて泣いてしまったのも……あれだけ辛かった何もかもが、きっとおかしくなんてないことになる……。わたしの気持ちは、正しいものになるの。わたしは幽霊じゃなくなるの」


 今にも泣き出しそうになりながらも、彼女は歓びに微笑う。


「あなたみたいな綺麗な魂の人に怒られるなら、みんなもきっとわたしを怒る。そしてわたしも、自分のことを許せない。ほら……そうなったら、わたしはもうおかしい子なんかじゃないわ。あなたが、わたしを罪人にしてくれるの……わたしにとっても誰にとっても間違っていない罪人に」


 今にも叫び出しそうになりながらも、彼女は愉しさに瞳を細める。

 その全てが歪んでいた。

 歪んで――歪む苦しみに耐えながら、彼女は想いを告げていた。


「きっとあなたは許してくれないけど……いいわ。それはわたしだけの罪。わたしが罪だと思って、皆が罪だと思うわたしだけの罪。あなたは、わたしに罪を与えてくれる。わたしの罪を背負ってくれるの――――だから」


 頬を抑えた手が離れる。名残り惜しそうにしながらも、またエルマリカは寂しげに微笑むのだ。

 それは、邪竜と呼ぶにはあまりに悲しい覚悟を秘めた瞳であった。


「――あなたを守るわ。これから先、わたしの人生をあなたに全部捧げます。爪先から頭の天辺まで、この身体はシラノさんのものです。シラノさんが使っていいものです。全部、シラノさんにあげます」

「……」

「……だから、戻ってくるまで死なないで。わたしがきっと……終わらせるから。……」


 そうしてエルマリカは背を向けた。

 狂った論理で。狂った理屈で。

 それでも始末をつけると――――シラノから遠ざかっていく。

 対する己は呼吸すらもままならない。彼女が生み出した衝撃波に叩きのめされて、剣術という土台に上がることもなくシラノは再起不能に追い込まれた。

 指だけしか動かせない。骨が砕け、肉が剥がれ、痛みすらも麻痺したシラノの身は僅かたりとも動かない。

 完全なる敗北――背後から迫りくるのは、敗北という名の冷たい眠りへの誘いだった。


(勝て、ねえ……。俺じゃ……天地創世の魔剣を、斬れねえ……)


 この条理に及ぶ存在が、如何ほどにいようか。

 剣士、剣豪――――そんな称号が、この邪竜の前に何の価値があろうか。

 最早シラノに立ち上がる足はなく、身を起こす腕もない。全てが叩きのめされて叩き折られているだから。

 薄らいでいく視線の中で辛うじてエルマリカを追う。金髪を揺らしながら、彼女はぽつりと呟いた。


「……ええ。大丈夫、さっきのようにはいかないわ。〈竜魔の邪剣ノートゥング〉……もう解除なんてしない。この街ごと消し去る覚悟が決まったから。わたしは、そうとしか生きちゃいけない――なんですもの」


 天地創世の魔剣使い。

 そして、邪竜の化身。

 剣士や剣豪という域を超えた、万物の理にして天地を統べる剣。

 完全に叩き潰された自分と、最早剣などが及ぶ領域にいない少女――――。

 ギリ、と奥歯を噛み締めた。

 再びその肉体から刀身を生じ己を覆い隠そうとする少女を前に、シラノに発せられる言葉はただ一つであった。


「……イ、ア……ァ……!」


 口腔から血を噎せ返らせて、両手足に触手を巻き付ける。

 己の足では、己の手では身を起こせない――だが、だとしてもシラノの精神の顕在である触手は、まだここで倒れることを許しはしなかった。

 立ち上がれる。

 踏みしめた足が痛みを叫び、引き起こされた胴が血を込み上がらせた。不格好で無様ブザマすぎるその姿は、臨死に至った敗残者と呼ばれても差し支えない。

 だが、立ったのだ。立てるのだ。


「……どうして立つの?」


 額から二本の禍々しい剣を覗かせたまま、エルマリカが首を捻った。

 そこには先ほどの少女然とした態度はない。手足を引きちぎった虫がまだ動くことを不思議と思うような冷徹な瞳で、ただシラノを見つめてくる。

 彼女が壊すと言ったら、この街は確実に壊される。それほどまでの威圧感がそこに込められていた。

 邪竜の睥睨。そうとしか言えぬその視線に、


 ――〈そう、守るのですよ! 我らのこの二本の腕で!〉〈そして握る槍と盾で……自分たちの街を守るのです!〉。

 ――〈ああ、おれたちは別に国を救おうってわけじゃねえ!〉〈自分たちの街を守るんだ!〉。

 ――〈口惜しいなぁ……任されてから幾星霜、随分と長らくここを護ってきたと言うのに……〉〈我らは最期まで守り切れなかった……〉〈ああ、口惜しいなぁ……ごめんなぁ……〉。


 脳裏を駆けるは人々の想い。

 まだこの都市で、負けずに立ち上がろうとしている人々の光。

 そして最後まで闇を晴らすことにその身を捧げた蝋燭の最後の輝き。


「……この街の為に戦った人がいる……まだ戦ってる人がいる。ここで、壊させる訳には行かねえ」


 美しいと思った。

 美しいということは、守りたいということと一緒であった。

 シラノ・ア・ローは“それ”にはなれないかもしれない。だからこそ、そんなものを守りたかった。

 そして――砕け折れた赫き右手を、握り締める。


「……それに、どうしても許せない」


 その身を焦がすのは、憧憬であり――それ以上に憤怒だった。

 この世界で最初から最後まで暮らしている訳ではないシラノに、他人の人生に口出しをする権利はない。他人の人生に関われる重みはない。

 この世界の母が弱って死んでいく中、何一つできずにいただけのただの人間でしかない。そんな敗残者でしかない。

 だが、


 ――〈ボクだって本当はね、こんな力なんて欲しくはなかった……〉〈こんな技なんて覚えたくなかった……〉〈ボクだって人並みに友達とか欲しかったし、幸せにお嫁さんとかになりたかった……〉。


 かつて、痛みを見た。

 きっとあれは、フロランスが常に抱えている絶望だった。

 そして、


 ――〈……わたしね、本当は産まれてきちゃいけない子だったんですって〉〈産まれて来たらいけない子……選ばれてもいけない子だった……〉〈わたしが選ばれたせいで、お父様もお母様も望まない身分になってしまった……〉。


 かつて、苦しみを聞いた。

 それはきっと、エルマリカが常に抱いている孤独だった。


(……ああ、そうだ)


 許せないことがある。

 許してはならないことがある。

 それだけは絶対に飲み込んではならないことがある。

 それを許せば、この世界でシラノ・ア・ローとしても死んだ上で生まれ直した己という存在の――その根幹から揺るがされる事態がある。

 故に、叫ぶのだ。血を吐き出しながら、叫ぶのだ。


なんてない……! そんなものは、たとえ誰が許しても……たとえこの世の誰が許したとしても……! 俺は、俺だけは許さねえ……!」

「許さなかったら、どうするの?」

「……どうする、だと?」


 かつて誰よりも世界を愛そうとした少女は、輝く瞳の少女は、夢見る瞳の少女はまた世界に恋をさせろと――そう言った。

 だが、シラノには人を恋させる力なんてない。そんなに輝かしいものはこの手には掴めていない。

 ならば、ならばシラノ・ア・ローがすべきは何か。シラノ・ア・ローにできることは何か。

 いつだって一つしかない。いつだってたった一つの答えだ。

 何故ならこの身は――


「俺は、触手剣豪だ……!」


 ――即ち、絶望てきを切り裂く者なれば。

 骨が砕けても、刃が欠けても、シラノの触手は――精神の形は刀を成す。斬り祓えと。戦う為に在れと叫んでいる。

 ならばこそ、ただの一刀。シラノ・ア・ローの価値はそこしかない。


「イアーッ!」


 四肢に巻き付いた触手が、極紫色の悪魔の蔦がシラノの全身を覆いつくす。

 骨は砕けた。肉は打ち据えられた。自力で立つこともままならぬ重傷で、この先無事に生き延びられるか分からない損傷。

 己の肉体は、既に戦いの場には立てない――ならばどうするのか。

 立たせるのだ。断たせるのだ。骨が砕けたなら押し込めろ。肉が千切れたなら塞ぎ潰せ。心が折れたなら、身体だけでも前に進め――。

 ここが死地だと言い聞かせる。そして全身を締め上げる。触手の中の余分が蒸気となり、辺りを白く霞ませた。


「あら、シラノさんもお揃いになってくれるのね?」

「……」

「ふふふ、キレイね。……ああ、とてもキレイ。シラノさんは、本当にキレイ……手足を千切って飾りたいわ。心の何から何までを千切ってしまいたい」

「……よ」


 顔を上げたその姿で、その口元で赤く棚引くは一条のマフラー。

 紫一色に染められた全身の中で、ただそれのみが赤い。それのみが既に為された流血の如く虚空で風打ち、残る全身は宇宙めいた極紫色の装甲に覆われていた。

 空気抵抗を減らすための流線型の甲冑。深淵なる暗黒の鏡じみた光沢と共にシラノの全身を覆う戦闘具足。

 前立てはなく、仰々しい胴当てもない。極限まで意匠を削ぎ落したそれの鎧は、甲冑というよりもむしろ戦闘装束であった。

 否――こう呼ぶべきだろう。

 これこそは白神一刀流・一ノ太刀“身卜シンボクグソク”――である、と。


「お前に恨みはねえ……、ここで止める……!」


 呼び出した触手野太刀の柄を握る。

 兜から僅かに飛び出した二本角のその下。マフラーに包まれた鬼の面頬メンポが揺れ、その奥で右目が赤く輝いた。

 敵は邪竜。天地を統べる条理。その身に宿ししは無敵の矛と無敵の盾。

 故に――此処こここそ、まさに死地。かつてないほどの死地。だからこそ、心を燃やせ。心の刃を砥げ。その切っ先を絶望てきに向けろ。


「ふふ、勝てると思うの? 天地創世の魔剣に……!」

「白神一刀流に、敗北の二字はない……!」


 いざや存分に――――斬り結ぶべし。

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