第48話 ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ その四


 ぼんやりとした魔術灯が照らす白亜の塔の中、シラノは肩から引き抜いたナイフを投げ捨てた。

 恐ろしい戦いだった。

 壁を破壊し強行突入した先での、斥候猟兵ウォードレイダーによる待ち伏せ。それを繰り返すこと六度。

 防ぎ切れず、或いはフローを庇って何太刀か掠めた。人のすれ違う程度の幅しかない塔の階段通路では、やはり邪教徒などよりよほど恐ろしい相手だった。


(いっそ、この塔を崩せたんならな……)


 内側から血管を塞いだ触手を解除し、毒消しひるを小瓶に戻しながら壁の溝をなぞる。

 邪教徒や淫魔ごと塔そのものを完全に崩壊させる方法が最も確実な解決法であろうが……エルマリカがどこに囚われているか判らぬ以上それは行えない。


(エルマリカ……頼む、無事でいてくれ)


 二重構造の塔。外壁とはまた別に芯のように内部にもう一本の塔があり、二階から分岐を始めた四本の螺旋階段がその周囲を廻っている。

 そこから正しい階段を選び、登りきって辿り着いた部屋から今度は隠し階段を下る。そうまでしないと塔の核心までは至れないのだ。

 いずれにせよ、時間がかかりすぎる。

 塔の管理者である男性二人から渡された見取り図を握り締め、シラノは苛立ちを吐息を漏らした。


(一直線に床を破るか? いや……防壁の作動をおかしくさせるかもしれねえ)


 未だに汚染が起きていない以上、淫魔たちにはまだ最終的な防壁や障害を破れていない可能性が高い。

 ここで余計な衝撃を与えてしまえば利敵行為になり兼ねなかった。

 舌打ちを噛み殺し、頭上や周囲に注意を払いながら階段を駆け上がる。やがて隠し階段のある目的の部屋に辿り着いた、そんなときであった。 


「……シラノくん」

「なんスか? 何かありましたか?」

「そうじゃなくて……今さ、キミに聞いておきたい事があるんだ」

「……聞きたいことスか?」


 振り向けば、呼吸を整えるフローは何故だか縋るような問いただすような何とも言えない目をしていた。


「……シラノくんもさ、戦うのは怖いんだよね? 痛いんだよね? なのにさ……なのにどうして戦うの?」


 邪教徒や斥候猟兵ウォードレイダーにつけられた傷を見るように、フローは言った。

 立ち止まり、しばし見詰め合う。

 時間がないので後にしよう――真剣な瞳を前にそんな風に言うことはどうにも憚られた。小さく吐息を漏らし、口を開く。


「先輩も触手使いなら、言われてますよね。……人は産まれたときに何か使命を与えられてくる、って。だから私利私欲の為に力を使っちゃいけない、って」

「うん……」

「俺はその……つい最近まで自分が触手使いだってことも知りませんでしたし、使命だなんて言われてもピンと来てなかったです。……昔から、まぁ、そういうのはあんま得意じゃないというか。好きなことはあっても……やりたいこととか、やらなきゃいけないこととか」

「……」

「……一応、周りを見ながら何となく決めてはいたんスけど。まぁ……本当に本気だったかって言われると、その……難しいですね」


 ぼりぼりと後頭部を掻いた。

 それでもかなり本心ではあったのだと思うが――心底から望んでいて必死だったかと言われたら、今の生活を見てしまうと考えることでもある。


「でもさ……今のシラノくんは違うんだよね?」

「……うす、見付けたんです。やりたいことで、やらなきゃいけないことを」

「何を、見つけたの?」


 問いかけてくるフローの紫色の瞳を見つめ返して、静かに言った。


「――守ることです。ごく普通の人が、ごく当たり前の幸せを欲しいと思うこと……そうやって願うこと。そういう気持ちを、俺は守りたいと思いました。そういうものを阻むものと……俺は戦うと決めました」

「……」

「淫魔と戦う触手使いと一緒です。……そう思うと、俺が触手使いに生まれたのも縁なんだと思います。戦うだけの力があるんなら戦う……俺はその為に今ここにいるんだと」

「……」


 この世界に転生してから十数年――待てども暮らせども何かの使命が降りてくることはなかった。

 魔王もいない。人を脅かす怪獣もいない。山奥の小屋でただ暮らすだけ。一人きりのこの世界の母を置いて冒険に出ることも躊躇われた。

 ただ暮らすだけの毎日だった。何故死んで蘇ったのか。何故前世の知識を持っているのか。その意味は見付からなかった。

 それを――――得たのだ。この世界における唯一の繋がりとも言える母を失ったその日に。目指すもののきっかけを得た。

 そういう意味では、少なくとも今は充実していた。毎日ただ起きて、何者にもならない己を憂うことはない。やりたいこともできたし、色々なことを知りたいと思えた。


「シラノくんは……その為なら、痛いのは嫌じゃないの?」

「怪我は痛てえっスけど……そんなのは俺が歯ァ食い縛ってりゃ済む話です。ただ……死んだら何をしても元通りにならないし、心の傷は簡単には治らない」

「……」

「確かに嫌っすけど……優先順位の話ですよ。……結局それで先輩に治して貰ってたら世話がねースけど」


 そうしてまた無言に戻った為、剣を片手に部屋へと押し入る。

 警戒するシラノに対して果たして何事もなく、無事に五本目の階段――隠し階段へと辿り着いた。

 いよいよ、ここを駆け下りるだけ。そんな中、フローがぽつりと漏らした。


「……そうだよね。シラノくんがそう言うなら、ボクもお姉ちゃんとして頑張らないとね」

「うす。……とは言っても、危なくなったら俺を置いて逃げてくださいよ。これは約束ですから」

「うぇぇぇぇ!? なんでそこで最後まで一緒に戦おうって言わないのさぁ!? ボクはお姉ちゃんだよ!? 師匠だよ!? 先輩だよ!? そんなに頼りにならないっていうのかい!?」

「……全滅より一人生き残った方がいいです。全滅するのは馬鹿のやることです」


 何とも上手い言い回しが見付からず、マフラーに鼻先を埋めながら誤魔化すように言った。


「シラノくん冷たいよ!? なんでそんな冷たい言い方するのさ!? ボクは師匠なんだよ!? もっと敬うべきだと思わないの!?」

「そっスね」

「うぇぇぇぇ……最近シラノくん本当に冷たいよぉ……お姉ちゃんが嫌いなのかよぉ……」


 泣き言を漏らすフローの前で一度瞼を閉じ、階段の先を睨む。

 エルマリカは、その心は無事だろうか。彼女は傷付いてやいないだろうか。

 そして、この先の淫魔。それを倒さぬことには、この街にも、この街に暮らす人々にも、シラノやフローたちにも先はないのだ。


「行きましょう。……頭上に“帯域タイイキ”張っといてくださいね」

「言われなくても判ってるよ!? ボクの方が師匠なんだからね!?」

「うす」


 頷き、そして怪物の口腔めいて広がった階段の先の闇へシラノは身を踊らせた。



 ◇ ◆ ◇



 ドン、と弾ける音がする。

 桃色の髪を振り乱したイルヴァの踏み込みはまさに爆発的――否、比喩ではないのだ。本当に爆発と共にアレクサンドへと喰らいかかってくる。

 踏みしめる靴の裏で爆発が起き、そして叩きつける拳の真下で爆発が起きる。


『サシャ……!』


 ノエルの焦る声に、世界が閉ざされる。今やアレクサンドの世界の頼りは、彼女からの指示だけだ。

 そこへ――己が今どう立っているかも見失うほどの五感を封じられた暗闇の中、腕へと衝撃が襲いかかった。

 剣符――剣に数多の魔術符を巻き付け、その一枚一枚が新たに刃に変わるという形意魔術。そして同時に、符に記された文様――刻印――が相手に接触した瞬間に刃を拘束具へと形状変化させるという刻印魔術。

 この二本立て。両手に付けられた重しが、武器に付けられた重しが剣閃から冴えを奪う。

 空間を埋め尽くすように漂う剣符。〈銀の竪琴級〉というのは、伊達ではなかった。


「ふ――ッ!」


 奥歯を噛み締め、戦斧を振るう。だが、こともあろうにイルヴァはそこに目掛けて更に飛び込んできた。

 振りかぶられた右拳。唸る背筋で魔力が灯され、その拳骨は爆発を呼ぶ。女が迫る大斧の腹を真上に殴り上げ、その真下を潜る。

 落葉めいて宙を漂う剣符を複数巻き込む左鉤打ちフック。やはり爆音と共に――無数の剣が殺到する。


「――ッ」


 咄嗟に盾を呼び出し、何とか背後に受け逸らした。煉瓦壁が割れる音が辺り一面に響く。故に、ノエルからの指示が乱れた。

 咄嗟にアレクサンドが右手に剣を換装する。その瞬間だった。


「その皮、剥いでやるよ……! 亀は甲羅を砕いてブチ殺すもんだからねぇ……!」


 盾を抑える万力めいた力。指の腹で起こる爆発が、彼女の膂力以上の圧力となり盾を抑え込んでいるのだ。

 そして、無の視界が――それでも揺れた。右から左。殴りつけられたのだ。直後、左から右に返される。首が軋んだ。

 そのまま数発受けた。頭が振られる。全てが封じられた五感の中、それでも己が揺さぶられた。荒海に漕ぎ出た小舟めいて翻弄される。


『サシャ……!』

「ノエル、戦況を――」


 喉を抑えにかかる女の右腕を取った。だが、その荒々しき力は衰えない。引き倒された。

 額に一撃を受けた。兜が、骨が軋む。人の身がこれほどの爆発に耐えられるか――否だ。おそらくは半獣人か半鬼人。それともそれらの合わせ技か。

 だが、そうだとしても耐えられるものではない。事実、ノエルが伝えてくる音の感触が変わっている。拳が、砕けつつあるのだ。

 そんな攻勢を人の身が成り立たせるのか。否だ。如何に彼女が狂戦士めいていたとしても限界はある。即ちは淫魔による洗脳――死ぬまで暴力を振るい続ける死人兵への転身。

 奥歯を噛んだ。

 盾を消し、ノエルに肉体の操縦を任せる。逆に女に喉輪を極め、身体ごと横倒しに倒れた。肉体の下でさらなる爆炎が弾けた。そのまま何とか距離を取る。


(ノエル……俺の身体は?)

《申し訳ありません。今ので骨が折れました。それに、筋肉も破断を……》

(構わない。立ってさえいられれば、それでいい)


 感覚が揺さぶられるということは、この暗黒の世界の中で完全に狂わされることと同義であった。

 一旦ノエルに任せ、瞳を閉じて息を吐き直す。数度肩を上下させ、何とか己という位置間隔とその指標を取り戻した。


「はは、いいザマだね! 無謀だっての判ったかな? しかもこっちにはまだ魔剣使いの眼帯ちゃんがいるんだよ? ここを切り抜けてもさ、絶望的ってヤツ。判る?」

「……」

「おっと、今度はだんまりかなぁ? はは、さっきはベラベラ喋ってたのに世話ないよねぇ……!」


 ノエルの声を通じて、淫魔の嘲笑を耳にする。

 だが、心が揺らぐことはない。そんな段階はとうに過ぎ去っていた。

 その背中に刻んだ鬼めいた刺青――魔術の刻印により、あらゆる打撃に爆発を付与する拳士。

 そして打ち込むたびに敵へと重しを纏わり突かせ、体力の消耗を狙う剣士。

 いずれにせよ、非才なるアレクサンドの身では同時に相手をするのは手厳しい相手だと言わざるを得なかった。


(ノエル……準備を頼む。出し惜しみをできる相手ではない)

《ですが……》

(君と俺の宿願の淫魔がいるのだ。……ここで使わずして、いつ使う?)

《……了解しました。ただし、十数える間だけですから。それ以上はサシャの身体がもちません》


 頷き、両手剣を呼び寄せた。魔力の過剰逆流バックファイアが鎧の内を蒼く照らすが無言で耐えた。

 痛みは問題ではない。それよりも、この敵を生かしたまま逃すことの方が問題であるのだ。


「なんか言いなよ! あのさぁ、判るかなぁ? この世で一番強いのは魔剣でしょ? なら、そんな魔剣を使ってる奴を使ううちらが一番強いってワケ。大人しく降伏したら、快楽絶頂死テクノブレイクだけで許してあげるけど?」

「……ふ。、か」

「……なに? 喋り出したと思ったら笑ってくるとか、あんた礼儀が悪いんじゃないの?」

「貴殿のようなただ口達者な人間と話すのは初めて故、不作法は許して貰いたい。……そうか、魔剣か」

「……だから何さ。何が面白いの?」


 いいや、何も面白くない――内心そう首を振ったが、知らず、笑っているのか。

 己の肉体を制御する術を覚えこそすれ、精神まではそうとはいかぬ。それはひとえに未熟であるが故の不始末。そう思えば、改めねばならぬだろう。

 だが今はそんな思考は不要だ。唸るように顔を上げ、両手に握る剣を牙めいて前に突き構える。


「その魔剣に勝つ為に……あの魔剣を砕く為に、俺はただ生きてきた。――戦術流式“無明むみょう”がキワメ、“法性ほっしょう”」


 ギリ、と奥歯を噛み締める。その瞬間、アレクサンドの血液は――沸騰せんと錯覚するほどの熱量を帯びた。

 血流操作――不要な内臓部の血液全てを四肢に。筋圧上昇。酸素充足。代謝効率上昇。

 体温操作――三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二――更に上昇。

 心臓操作――心拍数上昇。百八十。百九十。二百。二百二十――更に加速。

 神経操作――脳内麻薬精製。中枢神経刺激。神経異常興奮開始。


「戦術流式“教王きょうおう”――始動」


 十数えるその間のみ、その身は魔剣と等しくなる――。

 奥歯を噛み締めると共に、漆黒の鎧に身を包んだアレクサンドは白き剣符の渦目掛けて一直線に疾駆を開始した。



 ◇ ◆ ◇



 長い長い螺旋階段を

 途中で斥候猟兵から奪い取った姿隠しの外套に身を包み、一直線に宙に発現した触手の鉄棒を下って来た。

 摩擦に手のひらが熱を持ったが構うことはなかった。

 エルマリカを救い、邪教徒の野望を打ち砕く。今シラノの胸中を満たしていたのは、ただそれだけである。


「酷い……」


 そして最期の入り口側には凄惨な光景が広がっていた。

 壁に架けられた絵の殆どは破け、飾られていたであろう兵士を象った石像は砕けている。床は焦げ、そして一面は血溜まりだ。

 ある者は黒く焼け、ある者は首から血を流して倒れる。石像の下敷きになった者もいる。そんな死体がいくつもいくつも無数に転がっていた。

 不可思議であったのは、その誰もが邪教徒特有の陰気な外套を身に纏っていないというところだ。


「ねえ、シラノくん……。誰か……まだ大丈夫そうな人、いないのかな……? 無事な人、いないのかな……?」

「そうスね。……見たところは、もう」


 青い顔のフローが辺りを見回そうとするのに、首を振って返す。見たところ生存者はいない。誰もがと戦って、息絶えているのだ。

 そしておっかなびっくりと、それでもまだ誰かの命を確かめるように伺いながら扉を目指すフローが破れかけの絵の前に差し掛かった。そんなときであった。


『侵入者か……!』

「へっ? 絵が喋っ――」


 古い額縁の中で破れかけた白い獅子の絵。

 その中から、咆哮と共に鋭い爪が発現し――


「イアーッ!」


 硬化させたシラノの赫き右腕に弾かれ、音を立てた。

 絵から伸びた腕が消失していく。形意魔術。その応用だろうか。

 今にも飛びかからんとする絵の中のライオンは、前脚だけを実体化させて襲いかかってきたのだ。


『ぐぅ……最期に道連れも叶わんのか……』


 そして、心底無念そうにそう漏らした。絵の中のライオンは項垂れていた。

 それきり、襲いかかろうとはしない。

 フローと顔を見合わせる。

 形意魔術のみならず、複数の合わせ技か。何か高度な魔術による意思を持ち現実に干渉する絵。おそらくは、この塔の守護者の一人であった。


「待ってくれ、侵入者じゃない。……俺たちは、止めに来たんだ」

『……そうか。止めに来たのか……止めに来てくれたのか……。そうか……援軍が、来てくれたのか……。ああ、そうか……よかった……』

「……ここで、何があったんですか?」

『ああ……そうだ。見慣れない女だ。女に連れられて、普段ここで働く“限りある者たち”が我々に襲いかかって来たのだ……ああ、普段は気の良い奴らだと言うのに……何故こんなことを……』

「……」

『ああ……そこに倒れている彼は、前に娘が生まれたと……。それなのに……』


 悔しそうにライオンが漏らした。

 おそらくは魅了されたこの塔の管理員。だからこそ、邪教徒たち特有の外套姿ではなかった。


「……。その……こんな時にすみません。その中に、金髪の女の子はいましたか?」

『金髪の……ああ、“限りある者たち”の中でも特に年若い者が……連れられていたとも……ああ……』

「……うす。どうも」


 やはり、エルマリカは中にいる。

 腹から息を漏らし、瞳を固く閉じる。首を振って何とか心を落ち着けようとした、その時だった。


『汝よ……限りある者よ……どうか、許して欲しい』

「……なんスか」

『我々は、与えられた役目を守れなかった……すまない……我々は、汝らと共にあったと言うのに……すまない……我々は、役目を果たせなかったのだ……』


 絵の中のライオンが、今にも消え入りそうな声で言った。


『ああ、穢れを連れた女の侵入を許してしまった……ああ……この塔は、街を穢れから守るものだというのに……』

「……」

『限りある者よ……すまない……我も仲間も、為すべきことをできなかった……』


 悔いるライオンの絵は、薄れ始めていた。

 もう、限界なのか。先ほどの一撃は、まさしく死力を振り絞った一撃だったのだろう。

 どれほどの年月をここで過ごしたのだろうか。色は剥げ、錆すらも判らなくなるほど古ぼけた額縁の中でライオンが肩を落とす。


『口惜しいなぁ……任されてから幾星霜、随分と長らくここを護ってきたと言うのに……我らは最期まで守り切れなかった……ああ、口惜しいなぁ……ごめんなぁ……』


 その声に含まれていたのは、紛れもなく無念と悔恨であった。

 守り抜けない己に対する自責の念と慚愧の念――何よりもただ、彼は己の役目が果たせぬ不義理を心から済まなそうに呟いていた。

 きっとシラノがこの世界に生まれるよりも遥か前から――。

 彼らは、周囲で破壊されて散乱した石像や絵画の彼らは、彼とその仲間たちはきっとこの塔を護っていた。街を護っていた。人々の暮らしを護っていた。

 額縁が色褪せて古ぼけて行くほどの年月、彼らは人々を見守っていたのだ。明かりの射さぬ塔の、身動きも取れぬ絵の中から――。

 そして、悔いる。末期のその瞬間でさえも、人々を守れぬことを悔いていた。

 静かに呼吸を絞って絵の中の彼を見詰め、悼み宥めるようにシラノは言った。


「……大丈夫だ。かたきは討つ。あなたたちの代わりに俺たちが止める。この街は……ここで生きる人々は必ず守り抜く」

『汝は……』

「最期まで街を守ろうとしたその想いを無駄にはしません……必ず俺が仇を取る」

『仇……? ふふ、仇か……汝は絵の仇を討つと言うのか。ふふ、限りある者よ……汝は絵の中の我に、我々に仇と言ってくれるのか。我らの代わりに、守ると言ってくれるのか』

「……ああ、必ず。約束する。二言はねえ」


 隠れ身の外套を脱いだ。

 破れかけの絵の中のライオンは、どんどんと薄れていく。


「これまで十分働いたんだ。……もう、あなたは休んでいい。あなたは最期まで立派だった。あなたが悔やむことは、何もない」

『ふふ……ああ、そうか。そうか、限りある者よ……。……それなら、眠るとしようか。そうだなぁ……もう随分と君たち限りある者を見てきたものなぁ』

「……」

『……ああ、そうか。我々は皆、立派に勤めを果たしたと……君はそう言ってくれるのか……』

「……ああ」

『……ありがとう、勇敢なる者よ。勇敢にして、慈悲深き者よ』


 絵に外套をかける。それきりもう、彼は物言わぬ絵となった。

 手を合わせる。辺りで砕け散った石像や絵画たちは、戦士たちの死体だった。

 もう、二度と帰ることはない――戦士たちだった。



「イアーッ!」


 扉を爆発四散させ、シラノは宝石の間へと踏み込んだ。

 六本の円柱が天井を支えるその広い室内。回路めいて蒼き水路が床を走り、そして中心には祭壇めいた泉がある。

 ここが宝石による浄化場。街の空気と水を穢れから守る、守護の塔の中心であった。


「おい、なんだお前は――」「イアーッ!」


 その中の一人が上げた声を、中空から射出した三段突きで黙らせる。

 寸前で限度一杯まで強度を失わさせるそれに大それた破壊力はない。精々が、骨を折り砕く程度だ。


「貴様、まさか触手使い――」「イアーッ!」


 触手抜刀。破裂する空気の悲鳴。凶器を向けようとした扉付近の邪教徒の膝を真横から砕く。

 極紫色の触腕を召喚。すぐさま詰め寄ろうとしたその仲間に、膝をついた男を投げつけた。そして、三段突きでまとめて胸骨を折り砕く。

 呻き声と悲鳴が上がる。構わず、次なる敵を片手の刀で袈裟に折った。


「この……! 我々の崇高なる使命の――」「イアーッ!」


 怒声が上がった。飛翔させ三段突きで沈黙させる。

 洗脳された市民と、はき違えた邪教徒の混成。二十名ほど。次々に刃を発射した。市民は可能な限り縛り上げ無力化させ、邪教徒は二度と悪事などできぬように骨を砕く。

 だが、本命はそれではない。

 目指す視線の先には、赤紫色の長髪を躍らさせた淫魔。下着同然の扇情的な姿で、泉のある祭壇めいた場所に陣取っている。

 その傍にいる色褪せた茶髪の女は邪術使いか。浄化の気配に風化しそうになりながらも、それでも未だ逞しい腕を保つ一つ目の巨人を従えていた。

 常人二人分ほどの身長。その巨人は、ぐったりとしたエルマリカを抱えている。


「ふふ、また会えたのね? あなたとはゆっくりと話したいと思っていたから、ちょうどよかったわぁ? ええ、お互いに積もる話があるでしょう?」

「俺にはない」


 切り捨て、右手で柄を握る。

 距離にしておよそ二十メートル。三段突きならば、百分の一秒で到達できる。だが果たして、素直に通用するか。


「ふふ、そんなことを言って……私に興味があるのでしょう? ええ、せっかくこんなこれから爆心地になるところまで来てくれるなんてぇ……あらあら、死ぬほど私に会いたかったの?」

「爆心地? ……違う。これからお前の墓場になる」

「あらぁ……そう。心中希望ということかしら? ふふ、あなたはミイラ取りがミイラになるって言葉はご存知でないの? 逆に自分が殺されるとは思わないのかしらぁ?」

「そうか。――なら、


 睨み付け、抜き放った。

 切れた節目から上下に触手抜刀を放ち加速する刃は実に音速の六倍――強烈な衝撃と耳をつんざく轟音と共に、かろうじて右眼で追えるだけの光線となって淫魔へと喰らいかかる。

 だが、防がれた。影から生じるように現れた大百足が、代わりに爆発四散することで刃の軌道を逸らしたのだ。

 そして、


「かわいそうなお姫様。ええ、揺蕩う絵画の少女みたいに……これで終わりね」


 淫魔の目配せに合わせて、エルマリカが泉に放られた。

 意識を失っているのか、何の抵抗もしない。そのまま彼女が沈んでいく。金色の髪を広げながら、淀み始めた水の中に沈んでいく。

 ぷつんと、音が聞こえた。

 世界が急速に冷える。血管が凍る。噛み合わされた脳内の歯車は、腹の底で固まった鉛めいた殺意を原動力に道筋を弾き出した。

 邪術使いが両手を広げるに合わせて影から生まれた数多の魔物――その全てはまだ成体に至っていない。これまで戦った魔物とは違う、影の炎で作られたヤギの獣人めいた姿。

 数は多い。埋め尽くすように無数にいる。だが、浄化の間ではあまり姿を保ててはいない。

 一息に蹴散らすことができるかは賭けであるが、相手は人ではない。ならば城塞を食い破ったときの如く、その全てを平たくするしかない。


「ここでお前は終わりだ、触手使いィ!」


 そして絵札を構えた邪教徒までがその中に入り混じる。入り混じり、辺りを囲もうとする。

 一度瞳を閉じた。

 ここが死地だ――こここそが死地だ。

 ここを冥府に変えろ。不殺の信念、必要なし。全ての動くものを、片端から死に追いやれと――――。


「駄目だよ、シラノくん!」

「先輩……!?」


 奇襲を仕掛けようと隠れ身の外套に身を包んでいた筈のフロランスが、隠密を解いて姿を現していた。


「大丈夫、ここはボクが何とかするから……シラノくんは早く、助けに行ってあげて!」

「……うす。すみません、先輩」


 フローが送る目線は力強かった。

 それに押されるように、刀を握って疾走を始める。目指すは祭壇。目指すはエルマリカ。淫魔と邪術使いは集団に紛れたが、そんなことはもういい。

 一直線に走った。刃を放ち、行く手を遮る魔物だけを打ち破る。触手抜刀で切り払う。多重斬撃で集団を切り拓く。頭部からの唐竹割で止めを刺し、掠る爪を潜って鍔ごと拳を叩きつける。

 背中を切り裂かれた。だが構わない。触手の槍で串刺しにし、迫る頭部を横薙ぎに跳ねる。

 さながら闇の如く己の眼前を埋め尽くす魔物たちを、ただ一心に斬殺した。

 腕を掴む魔物の脳天を刺し、殴りかかる魔物の肉体を両断する。どれだけ爪が身体を掠めたか。知ったことではない。灼熱に変わった吐息のそのままに、泉へと飛び込んだ。


(エルマリカ……!)


 泉というよりは、そこは貯水槽か。

 石に覆われた円筒形のその底に、大きな宝石が嵌められていた。ここが浄化の核。都市そのものの大気と水分から穢れを払う為の、その装置。

 まず周囲の水へと共鳴した浄化の魔術――あまりにも強すぎるその気配は、開こうとする目を突き刺してくる。

 さながら強烈な消毒液と同じだった。概念的な消毒液なのだ。水の冷たさは氷柱のように傷だらけの肌を刺し、そして水に触れている鼻腔の粘膜が痛い。

 その中で、大輪の花めいて大きく広がった金髪を見た。

 死んでいるように眠っている。或いは、眠っているように沈んでいる。意識のないエルマリカは、少しずつ貯水槽の底目掛けて沈降していた。


(イアーッ!)


 心中での発生シャウトに触手が呼応した。エルマリカの腕に巻き付き、引き寄せる。そのまま抱きしめ、壁を目指した。

 呼び出した触手刀同士を合一させ、放つは“唯能ユイノウカサネ”――その強化。触手六段突き。

 平衡感覚が完全に狂わされるほどの衝撃が、強烈な衝撃波が脳を揺らした。前後不覚のまま出来上がったばかりの穴へと吸い寄せられ、そして貯水槽の外へと排出される。

 何とか触手で落下をやわらげ、石造りへの床へと降り立った。周囲には何もない、空白のような部屋であった。


「エルマリカ!」


 背後で雪崩れ落ちる水音が緩まっていくのを聞きながらも、エルマリカの肩を揺らす。

 意識がない状態で水に放られたのだ。下手をすれば、溺死をしていてもおかしくない。人工呼吸で助かるのか――唇を寄せようとした、そんなときだった。


「……シラノさん?」

「エルマリカ……よかった。無事だったのか」

「ええと、ここは……?」


 腕の中のエルマリカが、朦朧とした目で辺りを見回そうとする。後遺症はなさそうだ。胸を撫で下ろしたい気持ちでいっぱいになりながら、努めて瞳を強く保った。


「大丈夫だ。助けに来た……メアリさんも無事だ。大丈夫だ、エルマリカ……大丈夫だ」

「助けに……来て、くれたのね」

「ああ。……大丈夫だ。これ、何本に見える? 判るか?」

「……ああ。傷だらけなのね、シラノさん。傷だらけなのに……助けにきてくれたのね」


 示した指に目をやらず、全身を濡らしたエルマリカは身体を眺めてくる。

 確かに、随分と傷を負った。だが、こんなのは問題ではないと言おうとして――


「シラノさん、わたし……昔白い犬を飼っていたわ」

「エルマリカ?」

「白くてとても可愛くて……すぐに大きくなって、わたしのことを守ろうとしてくれてた」


 何かを思い出すように、遠い目のまま彼女は呟く。

 蒼い瞳がを眺め始める。あたかもその記憶の中にいるような胡乱とした口調で、そのまま彼女は続けた。


「凄く綺麗でふわふわだったのに……真っ赤になってしまったわ。ええ――わたしには『教育が必要』なんですって。生まれながらの王族じゃなくて心得もない下賤な人間だから……自分の力が制御できなかったときのことを、知る必要があったんですって」

「……エルマリカ? どうした?」

「ふふ……ええ、そうなの……わたしはね……産まれちゃいけない子だったの……」


 くすくすと、彼女は笑った。あまりにも虚無的な笑いであった。


「……悪い、大丈夫か? 気分でも悪いのか? その……何かされたのか?」

「ふふ……ええ、その子……シラノさんは良く似てるわ。わたしのことを疑わないの。その為に育てられたのに、最期までわたしのことを疑っていなかったの」

「エルマリカ? その、悪い。今先輩が戦ってる。話は後で――」

「――?」


 ぞぶり、と。

 そんな音が聞こえた。視界が揺らぐ。何故だか身体から力が抜け、気付けばうつ伏せに倒れていた。

 目線の先でエルマリカが立ち上がる。その手に繋がっているものが――否、生えているものが赤く染まっている。

 生えているのだ。彼女の手のひらから。

 それはある種の、骸骨の尻尾のようなものだった。黒鋼色の鋭い刃。それが無数に連なり、鋸で作った鞭めいてエルマリカの肌を突き破っている。

 刃――そう、刃だ。彼女は右手から刃を飛び出させていて――そして嗤った。


「そうよ。ちゃんと制御しないと……ええ――こんな風に、飛び出してしまうの。だってわたしの骨なのだもの。わたしの肉で、わたしの鱗なの。……わたしは邪悪な竜だから。悪い竜だから」


 ぽつぽつと語りながら、その口元が三日月に歪んでいく。

 見たこともない笑顔。すると思えない笑顔。ある種、剣鬼のそれよりも残酷な笑みであった。

 そして、その瞳に喜色が満ちる。碧眼に愉悦を湛え、彼女は狂ったように笑いだした。


「ふふ、うふふ――――あはははっ! あははっ! シラノさんを斬っちゃった、斬っちゃったわ! あはははっ! あはっ、うふふふふふふ! ずっとこうしたかった……ずっとずっとこうしたかった!」


 心底楽しげに。

 心底嬉しそうに。

 彼女ははっきりと、シラノの胸を裂いた下手人だと――そう歌う。


「助けに来てくれてありがとう……でも、わたしはお姫様じゃないの! わたしは悪い悪い竜なの! どうしようもないぐらい悪くて、救えない竜なのよ!」

「エル、マリカ……!」

「いっぱい傷だらけになって、わたしのことを助けに来てくれたのね? あはは……でも、残念ね。だって、わたしはお姫様なんかじゃなくて――悪い、悪い竜なのだから!」


 狂気めいた笑声が辺りに木霊する。

 まるで初めての舞踏会のように。或いは待ちわびた歌劇の如く。彼女は今にも踊り出しそうなほど軽い足取りで、その全身で喜びを表現する。


「どう、した……! 何が、あった……!」


 致命傷は免れた。そんな傷を身体の触手で塞ぎ、何とか身体を起こそうとする。

 油断していた。臨戦態勢を欠いていた。だからこそ、与えられた苦痛と喪失は激しく体の力を奪った。

 そんなシラノの先で、恋するように瞳を輝かせたエルマリカが首を振る。


「いいえ、いいえ? そうよ、何もないわ? ええ、そう……最初に出会ったときからわたしは悪い悪い竜だった。ずっとずっと昔からわたしはとても邪悪な竜で、すごくすごくシラノさんを斬りたくて堪らなかった――ええ、この日を焦がれていたの! ええ、何よりもずっと……ずっと!」

「エルマリカ……! 何があった……!」

「そう……その証拠を見せてあげるわ。ふふふ、うふふ、とっておきのドレスよ?」


 そして――ああ、それをなんと呼べばいいのだろう。

 その瞬間、全ては無意味になった。感じていた灼熱の痛みも、心を覆う混乱も、手足が起こした震えも、何もかもが無意味になる。白く、漂白される。

 思考という思考が凍り付き、そして意識だけが切り離されたように空転する。ただ茫然と前を眺めるしかできないことを――一体、なんと呼べばいいのか。


「――〈竜魔の邪剣ノートゥング〉」


 謳う。謳う。世界が謳う。

 それは喝采だった。それは祝福だった。それは畏怖であり、敬意であった。

 そうとも、見るがいい。これこそは真なる歓喜。真なる光栄。只人よ見るがいい。ああ、今まさに世界の誕生と同じ場に立ち会えるのだと――。

 強烈な不協和音が、引き裂かれる世界の悲鳴が、常識の落日が訪れる。空気に爪を立て、そしてその牙は顕現する。

 黒鋼色の鱗。――否、鱗めいた刃の群れ。少女の矮躯を覆いつくした無数の刃。無双の刃。

 劔刃装甲が、攻撃を為す甲冑が、防御を為す鎧刃が――世界を押し広げながら、シラノの眼前に顕在した。


「魔剣序列ノ第四位、“竜母神殺しドラカスレイア”の〈竜魔の邪剣ノートゥング〉――エルマリカ・ア・リューシア・エ・マグナ・エスタルシアよ」


 向こうに立つは、鋭角的な鎧の邪竜騎士。あたかも竜を人型に作り直したが如き意匠の尖鋭たる鎧騎士が、数歩の向こうに佇んでいた。

 肌が粟立つ。喉が渇く。何故だかふと今日の朝食を思い返そうとして――消える。どこか場違いに、フローやセレーネと食卓を囲んでいた日々を思い返していた。

 ああ、と理解した。答えを得た。これは、恐怖と呼ぶのだ。かつて引き潰されたその終わりのように――たった今シラノの眼前には、死が迫っているのだ。

 人を超えた鎧姿。天地創世の魔剣。人間大の邪竜。鋭角的な死――そうとしか呼べないその騎士が、あたかもスカートの縁を摘まみ上げるような動作と共に、腰を折る。


「よろしくね、シラノさん。――ふふ、死んでくださいな?」


 その額から突き出た禍々しく湾曲的な二本の剣が、妖しく輝いた。

 世界を定めたる七本の魔剣――その一振りの顕現である。

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