第16話 師匠育成計画


 軋む木戸を押し開けると、甘く広がる酒類の香りと雑多な喧騒が溢れ出す。

 机ごとに好き勝手に纏まった冒険者たちは、ある者はかつての武勇伝を語りある者はこれからの成功譚を話す。

 ここは冒険酒場。民間の請負人たちが集まる酒場である。


「はい、こちらです。お疲れ様でした」

「あ、うす。ありがとうございます」

「いえ。身体はしっかりと休めて下さいね?」


 受付嬢から片面が石英で透明になった金属板――砂板と呼んでいる――を受け取ったシラノは、軽く天井に透かしながら改めて見た。

 別に何が透けて見える訳ではないが、気に入っているのだ。魔法の効果なのか、傾けたり動かしたりすると文字が表示される不思議な板。そこにはシラノの名前と生年月日、そして冒険者の等級ランクが示されていた。

 この、等級ランクというもの。話を聞いたとき、いよいよシラノは冒険譚らしくなってきたと内心胸を高鳴らせた。

 〈樫の杖級〉〈石の矢尻級〉〈銅の剣級〉〈鉄の斧級〉〈鋼の槍級〉〈銀の竪琴級〉〈金の首飾り級〉〈白金の盾級〉〈蒼銀の豪剣級〉〈地の宝石級〉〈天の衣級〉〈超級〉……と分かれているらしい。多い。

 要するに、こいつはどの程度仕事ができる奴だ――という区別と、そこまで『大人しく仕事ができるのだから人間的にも信用してもよい』という証明になるものだそうだ。

 冒険者という、国家にも地方にも属さずに武装して出歩く半自警団の集団。

 確かに国がその扱いに腐心するのは尤もであり、それを足りない治安維持に活かしつつ、ついでに半ば身分制度のように取り扱うのは道理だろう。

 しっかりと仕事をすればそれなりの扱いも得られるので、下手なことをする奴もいなくなって良い……というのは頷ける処置だ。

 しかし、なんというか多い。激しく多い。

 歴史的なあれこれから考えるなら、「そのうち区切りがつかなくて乱発したのでは」という妙な懸念が拭えないが、それはまあ良しとしよう。ソ連人民最大の敵ことハンス・ウルリッヒ・空の魔王ルーデルは忘れた方がいい。


「よ、シラノ! どうだった?」

「ああ。結構多かったけど……何人で行くつもりなんだ?」

「五人だけど……どう思う?」

「倍はいた方がいいと思うけどな。二三個の別の組も誘ってみたらいいんじゃないか?」


 ありがとな、と頭を下げて同い年ほどの冒険者は受付嬢のところに向かった。名前は多分エリックだったかモーリットだったか……階級は覚えている。〈石の矢尻級〉だ。

 ふむ、とシラノは息を吐いた。

 この等級制度、想った以上にしっかりと管理されている。金さえ積めば手に入るとか、身内の縁故でどうにかなる――という様子があまり見られないのだ。

 そこは驚くべきところであった。この手の証明書や箔に不正が横行するというのは、歴史上どこか一国に限った話ではない。

 明日への不安が今日の糧を求める心となり、今日を生きる為に昨日を偽るのが人間だ。

 少なくとも、安定が続く――そう思われているから不正で何かを失うリスクを人は嫌がるのである。

 ……まあ、なんにせよ国家に信用が置かれているというのはいいことだ。少なくとも金次第で証明を乱発、という愚は犯していない辺りそこまで差し迫った末期でもないのだろう。


「あら、シラノ様。昇格は無事お済みになられましたか?」

「ああ。……シェフィールドは?」

「私は〈銀の竪琴級〉ですので。ここでは実績の記録だけ。審査はできませんわ」


 シラノとは別の仕事を請け負ったセレーネ・シェフィールドは、涼しい顔で上品な微笑を浮かべた。

 セレーネの等級は六つ目。現場の判断で出せるのは下から四つ目の〈鉄の斧級〉までであり、それ以上となると相応の実績と相応の審査が求められる――そうだ。

 要するに、小さな街では鉄クラスが限界。それ以上を求めるなら相応の大きさの都市で、複数人が携わる複雑な審査を――となる。

 まかり間違ってもコネやワイロで発行されぬように、国としても備えているということだろう。

 それ以上を目指すならば煩雑な仕組みであるが、利点はある。逆に小さな酒場でそこまで至っている人間というのは相応な実力者であり、先達にするならおおよそ間違いがないということを意味する。

 シラノは現在〈銅の剣級〉。あれから二週間弱。恐ろしい速度で駆け上がっていた。

 朝起きて魔物を叩き斬り、昼食を頬張って魔物を叩き殺し、夕食を遅らせて魔物を叩き潰す……そんな健康的な毎日である。健康的というか薩摩的というか源氏的というか、塹壕戦的というか。

 これには、触手の生成速度に疲労度が影響しないというのが非常に大きい。

 風邪や歯痛の際よりも凄まじい頭痛に耐えられるならば、おおよそ常人離れした速度で一昼夜であろうとも戦い続けられるのだ。


(冒険者、か……冒険者なんだな)


 なんだか夢に描いていた絵巻物の如き冒険が始まりそうで、実際のところシラノとしても胸の高鳴りを隠せなかった。

 ようやく、剣と魔法の異世界に来たのだ――そんな感慨深さもあり、心地よい。未来はきっと光に満ちているとさえ思えた。

 ただし……。ある一点を除くなら、だ。


「フロー様はどちらに?」

「……さあ。いつも通り、ずっと別行動スよ。今日も別行動……誘ってもついてこないし……」

「それは寂しいですわね」

「俺が? それとも先輩が?」

「ふふ。……私が、ですわ」


 囁くように顔を寄せてセレーネが意味深に笑いかけてくるのを、身体を僅かに仰け反って遠ざける。

 無駄に顔がいいので至近距離は心臓によろしくない。おまけに含み笑いなのが妙に罰が悪い。


「あ、おかえりシラノくん! セレーネさん! 今日はどうだった?」


 そして、当の本人。フロランスはいつもの黒コートのまま、両手を振って喜びをあらわにしていた。

 感情を表す動物の尾のように、片側だけの黒い三つ編みがパタパタと揺れる。


「今日はどうだったんだい? 何かあったかい?」

「……いつも通りっスよ」

「私も同じですわ。まぁ、このような生活は生活で充実しておりますね。毎日が実に有意義です」

「それは良かった! 有意義なのはいいことだね! ボクも二人に何事もなくて一安心だよ」


 さあ、とフローに背中を押される。

 押しやられながら、シラノは酒場の中をジロリと見回していた。




 ◇ ◆ ◇




 酒場の一角――特に背後二面を壁にできる隅の席に陣取って、シラノたちは食卓を囲む。

 いつの間にか、すっかりと定位置であった。

 背を通路に晒す席は落ち着かない。そして、酒場を一望できる場所がよい――――と多数決によって決まった。少数派は「うぇぇぇ……呼んでもすぐに注文がこないじゃないかぁ……」と言っていたが、いまいち少数派である。

 ふむ、とシラノは首肯した。

 マナー的な意味だけで上座は上座と定められているかと思ったが、しっかりと上座であるというのには理由があったのだ。まさか異世界で知ることになったのは驚きである。具体的に言うなら不意の急襲を避けられる。


「じゃあ、ご飯にしよっか! あ、二人とも手を洗ってきたかい? 手を洗うと病気なんかの予防になるらしいよ!」

「うす」

「ええ、勿論でございますわ」


 目の前の机に広げられているのは――――肉だ。肉と豆とキャベツだ。あと塩漬けの魚だ。

 そして主菜というか、パンというか、ナチョスというか、ご飯にあたるものはやはり穀物系の粉製品であった。

 それは丸い。丸く、そして平べったい。例えるなら絵にかいた満月である。

 小麦粉を打ち延ばして上にチーズを乗せて焼いた代物。見た感じはピザというか、もう大体ピザだ。極めてピザである。ほとんどピザ。ピザそのもの。訴えられたら負けるほどにピザだ。

 その、ジェネリック・ピザ製品の上に肉とか野菜とか豆とか乗せて、ナイフとフォークで切って巻いて刺して食べる。たまに蜂蜜をかけて食べる。食感はブリトーに似ていた。多層構造ブリトーである。


「……」

「あれぇ……どうしたんだい、シラノくん? 何か嫌いな食べ物でもあった? お姉ちゃんが代わりに食べたげるよ? どれだい?」

「いえ……これ本当にどうにかならないかなぁ、と」

「うん?」


 眉間に皺を寄せるシラノの前、食卓に備えられているのは木のナイフと木のフォークである。

 波が打つように、刃には薄い部分とやや厚い部分が交互に繰り返している……それがものを切れやすくする工夫なのだろう。

 が、正直それでも切れ味が悪くて何を食べるにもまどろっこしいことこの上ないのだ。絶対に肉なんか綺麗に切れない。どう考えても切れない。

 なのでノコギリのように何度も何度も引いて切る。これが凄い疲れる。とても疲れる。激しく疲れる。その内、食べる気力を失う。

 手間がかかると、食事自体を面倒臭く感じてしまうのだ。こればかりはもう仕方ないだろう。

 なお試しに一度触手ナイフを作ったらフローからものすごい顔をされた。自分は触手液とか触手ステーキとか食わせてきたのに凄い理不尽だとシラノは思った。


(魔剣は作るのに、食器は基本的に木なんだよな……)


 そう考えると現代というのは凄まじかったのだな、と改めて思う。

 だが、正直なところそれはどうでもいい。本日シラノを悩ませているのは、そんな問題ではないのだ。


「……先輩」

「ん、なにかな? あ、これはボクの料理だからね? いくらボクがお姉ちゃんだとしても、いくらシラノくんが成長期だとしてもこれはあげないよ?」

「いらねーっす。……それより」


 じゃら、と金属板を取り出して机に乗せた。

 セレーネとフロランス――蒼色と紫色の視線が集まる中、シラノはおもむろに口を開いた。


「先輩、等級はいくつスか?」


 そう。これが本題である。


「と、等級……? ボクはその、〈樫の杖級〉だけど……」

「……」


 やはりか、とシラノは僅かに頷いた。

 当然である。フローは冒険に出かけていないのだ。等級が上がる筈がない。


「な、なんだよその目は……ボクはお姉ちゃんだぞ! 師匠だぞ!? 先輩だぞ!? ボクだってちゃんと仕事してるんだぞ!?」

「……具体的にはどんなのっスか?」

「書類整理とか……仕分けとか……最初はみんな驚いてたけど、やっぱり手数が多いのはいいよねって喜んでくれてるんだよ? ほ、ほら……裏方も立派な仕事だろう?」

「そうっすね。それはその通りです」


 確かに裏方業務は立派な仕事だ。

 おおよそその辺りを軽視し始めた国家や集団は滅ぶ。そんなのは歴上からでも明らかであるが――問題はそこではない。


「……」


 フローがシラノの単なる連れではないと認識されたのは喜ぶべきことだろう。便利な触手使いと思われているのもいいことだ。

 だが、同時にまるで変わらぬ部分がある。

 共に仕事をする裏方からはともかく、全体からの扱いは――今まで通りに触手使いに向けられるそれとまるで変化がないのだ。

 シラノは段々と『触手使いに珍しい超武闘派前衛職』として認識されて来た。だが、それはまだシラノが特異な人間であるという域を出ていない。

 つまり、フローへの印象はあまり改善してはいないのだ。実際にそこらの人間に少しばかり聞いてみたが、フローは良くて便利なコピー機扱いであった。

 それでも近場の人間に受け入れられているのはいい。それは非常に喜ばしい。

 裏方の中では印象が改善している。それは手放しに嬉しい。

 だが、大方がフローをただの触手使いとして見なすなら――。しかもその中にいるのは必ずしも品がある者ばかりではなく、シラノもシラノで常に傍にいられる訳ではないことを考えるなら――。


「先輩」

「うん? なんだい? このお皿かな? むぅ、シラノくんがどうしてもと言うならお姉ちゃんも我慢してあげても――」

「修行しましょう」

「……うん?」

「修行ですよ、修行。俺が先輩を一人前の師匠にしてみせます」

「うぇぇえ!? いきなりどうしたのさ、シラノくん!? 変な物でも食べたのかい!? その料理毒だった!?」

「先輩、俺は大真面目です」


 具体的には安全とか安心とか。懸念材料は減らしておくべきである。おちおち冒険にも出れやしない。このままでは四六時中フローについて居なければならなくなる。

 意見を伺うようにセレーネに目線をやれば、


「ええ、まぁ……確かに弟子より等級が下の師匠とは、おかしな話とも言えますね」

「うぇぇぇ!? 本当に全くないの!?」

「いえ……あるにしても、基本的には上位の等級の話です。下位の等級で師が弟子に劣るのはまずありえないかと」


 セレーネのその呟きからも、実質的な了承が取れたと言っていい。

 ならば道は一つしかない――。シラノは至って真剣な眼差しで、じっとフローを見た。


「ボク、あんまり野山とか歩きたくないんだけど……」

「なんなら最後は俺がおぶります」

「戦いとか怖いんだけど……」

「基本的に俺とシェフィールドが何とかします」

「あんまり日光に当たると、ボク肌が弱いから……」

「長袖じゃないスか。もし必要なら日傘を用意します」


 そうだ。ここまで甘やかしたのがよくなかった。シラノは改めてそう思った。

 触手使いの印象を改善するならば――シラノだけが直接戦闘を行うばかりでは駄目だ。魔剣と戦えとは言わない。だが、フローもやはり触手(物理)での戦闘を行えた方がいい。それは間違いない。

 この世は修羅の巷である。セレーネみたいな女がいるのだ。降りかかる火の粉は払えた方が良いに決まっていた。


「うぇぇぇ……セレーネさん、キミからもなんか言ってくれない?」

「そうですね。……ふむ、どうせならシラノ様も修行を兼ねて行動されては如何でしょうか? 丁度良くフロー様から話を聞きつつ、百神一刀流の鍛錬も兼ねて動いては?」

「なるほどな……確かに。冴えてるな、シェフィールド」

「ええ。せっかくの機会ですので」

「あ、駄目だこれ。二人とも脳筋だ」


 失礼な話だなと思った。

 シラノのこれはあくまで必要経費である。向こう見ずな努力や筋肉質な鍛錬ではないのだ。そういうのは今も昔も苦手なのである。




 ◇ ◆ ◇




 冬の森で最も注意しなければならないのは、ウロだ。

 木や植物が枯れる季節であることは最早言うまでもないが、それは根にまで及ぶことがある。他の季節なら確かな足場であった筈の地面が、冬には落とし穴になっているということがあり得るのだ。

 山岳に続く森だ。足を挫くだけでも十二分に恐ろしいが、下手をすれば大きなウロに落ちて首の骨を折るという事故も存在する。

 うっかりと近道をしようと茂みに入り、そのまま地獄まで足を踏み入れてしまうなどというのはあまりに笑えない。

 そんなことを思い返しながら、触手の鞭棒で地面を叩くシラノはセレーネの言葉に耳を傾けていた。


「……ええ、ですのでこの世にはおおよそ二つの力がありますわ。例えば聖剣、魔術、世界、大地……そして魔剣すらも“”というこの世のセイオモテの法則に属しております。これらには基本的に、何らかの理論が根付いている……“規範は貴さを生み、貴きことは規範になれり”というものです」

「……」

「一方でここから外れたものもあります。例えば呪術、邪術、禁術……そこには一定の慣習や法則こそあれ、体系立った理論や理屈とは無縁のもの。世ができた際に忘れられた裏側、或いは秩序によらぬ混沌のもの――それを“”と呼びます。“卑は分別から生じながらも、分別に従わぬもの”……とも申しますわ」

「……」

「先ほどから申しますように、魔物とは、分けるならば“卑”に属します。穢れという概念が貯まることでこの世に形作られる“この世ならざる者”――ただし、統一感はなくともある程度の法則はあるので対処は決して不可能ではない」

「なるほど……」


 解説を行うセレーネは真剣な面持ちで、冒険者としての実力を感じさせる。〈銀の竪琴級〉という上位に類する等級にいるのは、伊達や酔狂であってのことではないのだろう。


「……シラノ様、本当に判っておられますか?」

「ええと……斬れば死ぬ。色が黒い――成型の済まないうちなら、簡単に斬れる」

「他には?」

「……」

「時を経るに従い、この世に存在を――“強度”を持ちます。そして様々な姿形をとる。故に、まず初動での対処が肝心です。その他には魔物から傷を――穢れを浴びすぎぬこと。穢れを浴びた人や動物が魔物に堕ちるのですから、戦いには十分な注意が必要です」


 なるほどな、と頷いてみたが……これまでの話はシラノには半分ほどしか理解できない。

 だが、それ以上に理解ができることがあった。こうしてみると、セレーネはまさしく頼りになる先達であるということだ。

 たまには剣の手ほどきをしてくれるのも願ってもない。この世界で旅に出てから二週間ほど。まだまだシラノには学ぶことが多い。

 ……いや、頼りになることは間違いないのだ。それはシラノも本当に認めている。

 ただ、時折興が乗ったままに死合に誘われる。恥じらうように笑いながら、おもむろに剣を取り出して迫ってくる。だからできるだけ二人での行動は避けていたのだ。

 ……で、そのもう一人と言えば、


「うぇぇぇ……ボクがシラノくんの師匠なんだぞ……とるなよぉ……ボクがお姉ちゃんなんだぞ……シラノくんをとるなよぉ……」

「先輩……」

「うぇぇぇぇ……足が痛いよぉ……痛いぃ……やだよぉ……もう疲れたよぉ……やだぁ……」

「先輩、泣き言はやめましょうよ。師匠なんだからしっかりしてください」

「おぶってくれるって言ったのにぃ……お姉ちゃん虐めだ……お姉ちゃん虐待だぁ……ううぅ……シラノくんがお姉ちゃんに酷いことする……シラノくんはお姉ちゃんが嫌いなんだ……」

「本当に動けなくなったらおぶりますから。我慢してください」


 言われるまでもなく、インドアであるフローを庇う。そんなのは当然の話である。

 ただ、いつなんどき何が訪れるのか神ならぬ身のシラノには分からない。その為にも体力を温存する必要がある。単純な話だった。


「……いかが致しますか? 少しご休憩なさいますか?」

「そうですね。……正直、こんなことを言い出したのは俺の方なんで――」

「やった! 休憩!? 休憩かい!? ふふ、待ちわびたよ! いやあ、こんなこともあろうかと携帯食を持ってきててね? 甘くておいしいんだ! これはお姉ちゃん特性の――……あれ?」

「……まだ元気なご様子ですね」

「……っスね」

「うわあああああああん!? なんでボクを騙すんだよぉ!? 人の心がないのかよぉぉぉぉぉ――――っ!?」


 とはいえ、本格的なところまで至らないとしても傾斜のある山岳地帯である。歩度から言うなら、大体三千歩も歩けば休息を取るべきだった。


 ふう、と息を吐いてシラノは木に背中を預けた。できる限り姿勢を低く動かないように、かつ露出を避け死角は障害物に合わせる――これもセレーネの教えである。

 見ればセレーネは彼女の指と腕を頼りに、行先の距離などを測っていた。一方のフローは、足を投げ出して半泣きで汗を拭っている。

 ……やはり、悪いことをしてしまったか。ここまで来ると、より強くそう思えてくる。

 それなりの等級を持つということは――箔をつけるということは、おいそれと他人に付け入る隙を見せないということだ。そして、相応の等級を持つ者には冒険者の組合ギルドも相応の扱いをする。

 そうすれば、少なくともフローが軽んじられることはない。そう考えての判断であったが……


「先輩」

「なんだい、シラノくん……? お姉ちゃんを辱めて……キミはそんなに楽しいかい……?」

「……すみません。腹ァ切ります」

「えっ」

「いや……間違えた。でも、申し訳なくて腹を切るぐらいの気持ちでいっぱいです」

「キミ本当ときどき怖いこと言うよね!? それも悪い友達の影響なの!? 別れようよ!? シラノくんに死んでほしくないんだからね!?」

「……うす」


 立つ瀬がないとはこのことか。

 良かれと思ってやろうが、結果がただの迷惑にしかならないなら――それは単なる迷惑と言うのだ。申し訳なさと恥ずかしさが入り混じって、穴にでも入りたくなる。

 おそらく切腹したいとはこういう心持なのだろう。シラノにも若干武士の気持ちがわかってきた。そんな時だった。


「きゃぁぁぁぁぁあああああ――――――っ!?」


 悲鳴。幼い少女の悲鳴。

 シラノはすぐに背嚢を掴み取り、フローとセレーネまで駆け寄った。森の中で悲鳴など、おおよそ尋常な事態ではない。


「シラノ様、まず立ち止まって深呼吸ですわ。音の方向は……どちらかはお分かりですか?」

「ああ。……先輩を任せていいか? 俺が行ってくる」

「……いえ、少女を餌にした釣りの可能性もあります。……姿の確認が必要ですが、まずは見晴らしの良い場所に何かいませんか?」

「いや……」


 冷えた声色のセレーネと違って、シラノには何か動く影は捉えらえない。

 いや……鳥が飛び立っていた。つまり――相手は隠す気も無い集団であるということだ。


「ふッ! ……居てもこれで終わりですわ。では次の可能性です。彼女の側に――」


 セレーネが飛ぶ斬撃を放つと同時だった。

 擦り傷だらけで片足を引きずりながら懸命に走る少女。そんな彼女へと迫る、鬼火めいた蒼き爪と牙を持った黒い影――


「シェフィールド!」

「――心得ました」


 まずは二体。〈水鏡の月刃ヘレネハルパス〉の遠隔斬撃が、黒き獣人めいた姿の魔物を爆発四散させる。

 そして、言うまでもない。シラノは走り出し――叫んだ。


「イアーッ!」


 腕に巻き付けるように発現した触手の縄道具。棘を生じた先端を木に噛みこませ、高速で接近――「イアーッ!」――一閃。少女に手を伸ばした魔物が触手抜刀により爆発四散した。

 地を踏みしめ、右手の刀で横薙ぎに胴を討つ。応じられぬ一体が混乱のままに絶命。

 その弾ける黒い体液に構わず、更に平突き。牙を剥き出しにした別の魔物の頭部に水平に突き込み殺害。頭部が爆裂する。

 更に飛び出そうとした追っ手をセレーネの飛来斬撃が片付けるのを目の端に収めながら、シラノは少女の両肩を掴んだ。 


「大丈夫か!? 逃げるぞ! 怪我は……足だけだな!? 大丈夫だ、今助けるからな!」

「え、あ、えと……」


 セレーネの援護射撃を受けつつ、触手縄を少女の胴に巻き付けた。

 事情は分からぬ。だが、理解よりも先にすべきことがある――そう判断したシラノの目に飛び込んだのは、少女の恐怖の顔であった。

 魔物相手――ではない。彼女が怯えているのは、今まさに己の胴に巻き付けられた異形の蔦に対してだ。


「あ、わたし……ぁ、え、これ、触手……ぁ……や、誰か助け――……!」


 舌打ちを噛み殺した。そんなことをしていたら叫べない。唸る心の代わりに、シラノの口からは冒涜的な発声シャウトが飛び出した。


「イアーッ!」


 高速でフローらの下に引き寄せられる少女を見て、そして己の背後から伝わる気配を受けて、シラノは己が舌打ちの機会を永遠に逃したことに気付いた。

 森の奥から走り寄る魔物の影、影、影――ざっと十体。木々が齎した暗がりの中で、爪と牙だけが爛々と蒼く視界に棚引く。

 何が舌打ちか。

 ここから先はそんな暇などない。広がるのは、歯を食い縛らねば斬り抜けられない戦場いくさばである。


「……シェフィールド、先輩とその子を」

「委細承知しました。……落ち合う場所はどちらに?」

「酒場で」

「……なるほど。それならいつまででも待てそうですね」


 肩越しに呼びかけ、触手刀を握り締める。それ以上言葉も必要なく、目を交わす必要もなかった。

 セレーネ・シェフィールドなら間違いはない――その核心を籠め、シラノは腹の底から息を吐く。


「イアーッ!」


 冒涜的な発声シャウトと共に、虚空から放たれる極紫の光線。つばから先の刃だけが無数に射出され、魔物の群れを穿ち止める。

 その中には完全に停止するもの、手足を千切られ地を転がるもの。貫かれた腹を抑えて雄たけびをあげるものなど実に様々。

 だが、確実なのは一つ――それはただ、氷山の一角にしかすぎぬということだ。


「……百人斬り、か」


 人は生垣、人は城――――と、かの武田信玄公は詠んだと聞くが……。

 今まさにシラノの目線の先にいるのは、森の木々よりなお多く、あたかも夜の闇の如く木と木の間を埋め尽くす黒色の魔物の群れだ。

 頬を冷や汗が伝った。

 随分と慣れてはきたが、それでも召喚に伴い頭痛は起きるのである。セレーネとの決闘ほどの短期決戦ならばともかく、この数ならばどうなるか。

 果たして己が痛みに根を上げるのが先か、それとも敵を倒し切るのが先か――――と歯を食い縛って息を吐いた。


「――来い。白神一刀流に、敗北の二字はない」


 そうとも。そんな大人しくなど居てやるものか。

 後にも先にも、立ちはだかる壁などその全てをのみ――だ。

 目を細めたシラノは、猿叫と共に迫りくる群れへと走り出した。


「イアーッ!」

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